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【宿題帳(自習用)】道徳の時間:『道徳感情論』と『国富論』の世界

[テキスト]
「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」(中公新書)堂目卓生(著)

[ 内容 ]
政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することによって経済成長率を高め、豊かで強い国を作るべきだ―「経済学の祖」アダム・スミスの『国富論』は、このようなメッセージをもつと理解されてきた。
しかし、スミスは無条件にそう考えたのだろうか。
本書はスミスのもうひとつの著作『道徳感情論』に示された人間観と社会観を通して『国富論』を読み直し、社会の秩序と繁栄に関するひとつの思想体系として再構築する。

[ 目次 ]
序章 光と闇の時代
第1章 秩序を導く人間本性
第2章 繁栄を導く人間本性
第3章 国際秩序の可能性
第4章 『国富論』の概略
第5章 繁栄の一般原理(1)―分業
第6章 繁栄の一般原理(2)―資本蓄積
第7章 現実の歴史と重商主義の経済政策
第8章 今なすべきこと
終章 スミスの遺産

[ 問題提起 ]
経済学の古典をいくつか挙げよ、と問われたら、たいていの人が真っ先に指を屈するのがアダム・スミスの『国富論』ではないだろうか。

そこには誰もが知っている有名なフレーズがある。

「見えざる手」である。

個々人が自分の利益を追求する利己的な行動を取ることは何ら非難に値しない。

むしろ、そうした行動が、市場の価格調整メカニズムを経て、公共の利益を促進するのだ、という文脈で使われる言葉だ。

意外なことに、見えざる手が出てくる箇所は同書中、一箇所だけなのだが、語られている内容と言葉によほどインパクトがあったのだろう、著者いわく、いつの間にか、スミスは、政府による市場の規制を取り払い、競争を促進することで豊かな強い国を作るべきだと唱えた、究極の市場原理者というイメージが流布している。

それに対して、異を唱えるのが本書の立場である。

[ 結論 ]
スミスが生涯で著したもうひとつの著作である『道徳感情論』と当の『国富論』を丁寧に読み解くことで、そうしたスミス像を修正し、社会秩序の維持と繁栄の実現を追求する骨太な思想家として捉え直す。

まず『道徳感情論』であるが、同書は、人間は自分の利害に関係しなくても、他人の感情や行為に関心を持ち、それが適切かどうかを判断する、というごく当たり前の指摘から始まる。

そのための能力をスミスは「同感」と呼び、著者は同書の中でもこの概念に最も注目する。

人間は、いろいろな感情や行為のうち、あるものは他人によって是認され、あるものは否認されることを、経験によって知る。

そこでどうするかというと、自らの胸中に「公平な観察者」を置き、それによって、自己および他者の感情や行為を評価する。

ここで、スミス曰く、人間は二種類に分かれる。

世間の評判のみで評価を下す人と、公平な観察者の評価を頼りにする人である。

ある芸術家が、自分では失敗作だと思う作品を発表したにも関わらず、世間からは高い評価を得たとしよう。

スミスは、この評価を素直に喜び受け入れる人間を「弱い人」、世間の絶賛を軽蔑し、作品を作らなければよかったとさえ思ってしまう人間を「賢人」と名づけた。

しかも、ひとりの人間のなかに、弱い人と賢人が同居している。

つまり、「弱さ」と「賢明さ」、どちらの性質も備えているのが通常の人間なのだ。

スミスの慧眼はこの弱い人、もしくは個々の人間の弱さが経済発展の原動力であることを見抜いた点だった。

文明が進歩し、物資的な豊かさが実現するのは、こうした人間の弱さに端を発する、富に対する人間の野心=虚栄心があるからだ、とスミスは指摘するのである。

弱い人は最低限の富を持っていても、世間からもっと評価されたいと思い、より多くの富を欲する。

財産や地位に与えられる世間の賞賛と尊敬が魅力的だからだ。

無人島で、ひとりで暮らしていれば持たないような野心を抱くのは他人の目があるから、なのだ。

もちろん、万人の心にいる「公平な観察者」がないがしろにされ、賢明さが発揮されない社会は滅びる。

賢明さとは、社会秩序の基礎となる倫理や正義感といってもいい。

人間の弱さが社会の繁栄を導く原動力なのだが、そのためには賢明さによる制御が不可欠となる。

ここまでが、『道徳感情論』が描き出した「同感→弱さ→経済的な繁栄」という図式である。

実はこの同感が次の『国富論』でも重要なキーワードになっていると著者は主張する。

国が豊かになるためには分業と資本蓄積が不可欠だという主張が『国富論』の骨格をなすのだが、ここでは分業の意義を見てみよう。

スミスは、ピン生産を例に出し、ひとりの労働者がすべての工程を担当するより、工程ごとに分け、それぞれを専門的な作業員に任せたほうが生産性の向上に資すると書く。

社会全体における分業の意義も同様だ。

すべての職業をひとりの人間が担うより(もちろん、無理に決まっているが)、職業ごとに、おのおのが専門的な職務を果す方がより高い生産性が得られるのだ。

こうした社会的分業はなぜ起こるのか。

それは、人間のなかに、生来、他人と物を交換しようという性質があり、それに基づいて実際の交換の場が生まれるため、単一物の生産に特化することを決心できるからだという。

その方が効率的でより多くの富を生むことを人間が理解しているから、ではない。

しかもその背景には「説得性向」、つまり、相手に自分の感情や意志、意見を伝え、相手の同感を得ようとする性質があるというのがスミスの考えである。

言葉の交換はいつしか物の交換に発展する。そして市場が成立する。著者はこう書く。

「市場における交換は、相互の同感に基づいて成立する。

取引を行なう人は、取引相手の物を強奪したり相手をだましたりしたときに取引相手が引き起こす憤慨を想像する。

(中略)

すべての取引主体が、このように考えることによって不正のない交換が成立する。

同感という能力を用いて、見知らぬ者どうしが富(=世話)を交換する社会、これが市場社会なのである」

以上、『道徳感情論』と『国富論』をつなぐキーワードである「同感」や「公平な観察者」に焦点を絞って本書を紹介してきたが、あとがきで書かれていることが非常に興味深かった。

どういうことかというと、同感は、他人の行動を自分の行動のように感じ取らせる神経細胞であるミラーニューロン、公平な観察者は、他人の行動からその人の心を推測する能力(セオリー・オブ・マインドという概念)を思い起こさせ、スミスの思想は最先端の脳科学や、それを取り入れた行動経済学に通じるものがあるというのである。

この他、本書は、スミスが生きた当時のイギリス社会が政治の民主化、経済の発展といった文明の光を浴びる一方で、格差と貧困、戦争と財政難といった闇にも包まれていたことを指摘する。

闇の最たるものがアメリカの対英独立戦争だった。

スミスはアメリカ植民地の自発的分離を『国富論』の最後で主張したが、当初、それは少数意見でしかなかった。

だが、数年後、イギリスはスミスの提案通りの政策を余儀なくされた。

スミスは今なお学ぶべきものが多い滋味溢れる思想家といえよう。

見えざる手というアイデアはスミスの思想の氷山の一角であることがおわかりいただけるだろうか。

その下には『道徳感情論』で説かれたような、社会秩序を形成する人間の本性に対する深い洞察が存在していたのだ。

では一体、思想家スミスは人間にとって何が最も重要だと考えていたのだろうか。

従来のスミス観ではそれに対する答えは「富」だろう。

しかし、スミスが究極的に辿り着いた境地では、「心の平静を保つこと」に他ならなかった。

スミスが死の前年に書いたとされる、『道徳感情論』第六版に付け加えた文章にこうある。

「空想の中の最も高貴な境遇において、われわれが真の幸福を引き出しうると期待する快楽は、現実のつつましい境遇において、われわれがいつも手近にもっていて自由になる快楽と、ほとんどの場合、同じなのである。

虚栄と優越感というつまらぬ快楽を除けば、最も高い地位が提供するあらゆる快楽は、最もつつましい地位においてさえ、人身の自由さえあれば、見つけることができるものである」

[  コメント  ]

これを読んで

「粗末な飯を食べて水を飲み、腕を曲げて枕にする。

楽しみはそこにもあるものだ。
道ならぬことで金持ちになり身分が高くなるのは、浮き雲のように実のないものだ」

という論語の一節を思い出した。

古今東西、人間が目指すべき真理は同一ということだろうか。

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【参考記事】

文部科学省で定められている基本の教科は、以下の10教科です。
■国語
■社会
■算数
■理科
■生活
■音楽
■図画工作
■家庭
■体育
■外国語活動(英語)
外国語活動は、2020年に改訂された学習指導要領から必修になりました。
小学3・4年生では、「外国語活動」、5・6年生では、「英語」の教科として含まれます。
その他の教科・活動として、小学校の授業では、上記の10教科の他に、以下の2種類を編成できるそうです。
■道徳
■特別活動
■総合的な学習の時間

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