三島由紀夫『金閣寺』

ふと三島由紀夫が読みたくなった。こういうことは今までも割とよくあった。

はじめて読んだ三島由紀夫は『仮面の告白』だったと思う。主人公が務めている工場で空襲警報が鳴り、社員が皆防空壕に逃げ込んでいく様子を描いたシーン、その描き方が衝撃的で何度もその文章を一人書き写していたのを思い出す。

15年くらい前のことだ。少し長引いた学生を終えて名古屋に戻って一年程経った頃。今の仕事をなんとなくはじめたところだったが、その先の生き方については違う道も模索していた。

あの時の自分は三島由紀夫を書き写すことで何を書き留めようとしていたのだろうか。細密画のような表現を書き写すことで自分自身もこんな文章が書けるようになったらと思っていたのかもしれない。

けれど、それだけではない、何かその文章を書いているだけで命の本質と結びついているような心地を覚えていたとも思う。あの頃の自分の人生は希望よりも不安の方がずっとずっと大きかった。社会から自分が取り残されそうになった時でも、その文章の近くにいれば世界の確かさから見捨てられないでいられるような気がした。

三島由紀夫を読みたくなる時とは、心が本来の姿でいることを欲している時のように思う。自虐的なまでに生々しく描かれた人間の心情を感じることで、自分の心に向こう側の血が通うような感覚。

きっと読みたいと思った時にはもう、思いが形を探していて、心には抜き型のような隙間が生まれている。いまはその形に三島由紀夫をはめてみようと思う。その先にみえる心の形をもう一度見たいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?