見出し画像

キャラクターは神であれ(自分にとってのキャラ論)

 ユリイカのぬいぐるみ特集をバーっと読んだのですが、なかなか面白かった(特にいぬわんたんとぴんくのぶたのインタビュー)。私はキャラクター立体だとこどものから圧倒的にフィギュア派で、硬めのおもちゃ、美少女フィギュア等しか興味なかったので、今回はじめてぬいぐるみ好きの気持ちがわかりました。翻って自分のキャラ愛のカタチもわかりました。

 ぬいぐるみ好きの語るぬいぐるみの良さを総括すると「自分との距離の近さを証す」ものが多く上がっていました。

 自分の臭いが移って安心感ある香りがすること。ずっと持っているうちにくたくたになったりする変化や、布地がつくる表情が毎日見せる微妙な表情の変化。といった、自分の日常の影響がぬいぐるみに伝わることが、単なる玩具を超えた愛着を沸かせるのだということがわかった。

 またやはり子供の時にそうした経験から、大人になっても自分と他者の中間領域に存在するものとしてぬいぐるみが存在する。なんとすごいことだろう。なんと美しい愛だろうか。と思いましたが、

 じぶんにとってはすべて地雷ですね!そういうの。

 愛するキャラに自分の臭いが移るなんて自分には最悪の展開です。子供のからおもちゃの塗装が禿げたりなんだりするのがとても嫌で、無窮に変化しないでほしいとずっと思っています(興味なくなると一気にどうでもよくなる)。だからぬいぐるみ好きの気持ちはなかなか衝撃しました。好んでいたのが逆じゃんという。

 という感じでぬいぐるみ愛好家とは真逆のキャラ愛を語っていきます。

 子供のころはポケモンの指人形(ポケモンキッズ)や、ロックマンエグゼのプラスチックの可動フィギュア、ガンプラを好んでいました。中学生からは美少女フィギュアをいろいろ集めました。

という感じで固めのフィギュアばかり好んできました。そしてそれらは自分と対話することはなかった。

 幼時にポケモンの指人形で遊んでいたときすでに自分の介入しないポケモン同士の会話や、やりとりを妄想してあそんでいました。ただ人間の発達初期は自己と他者の区別がつかないらしいので、記憶に一切残っていない2歳とかまでのころはわかりませんが、少なくとも3歳ごろの時点でキャラクターには自己と分離したものであってほしいという感覚がありました。

 で、ポケモンの指人形は、必ずポケモンの世界に存在していました。人間が存在せず、ポケモン同士がしゃべっているオリジナルに近い世界(ポケダンは未発売)ですが、そこにほかの作品の人形やおもちゃを混ぜることはあまりしなかったように思います。そして性格づけなどは基本的にオリジナルで、ピカチュウでもサトシのピカチュウではなく、その世界に存在するピカチュウでした。

 ちなみに使用する指人形の選出は完全に造形によっていて、アニメやゲームでの強さなどを度外視にしていて、造形の出来と、シチュエーションの自由度が高いものを好んでいました。どういうことかというと、指人形のなかには技や状態を表現したものもあるのですが、そういうものは劇のなかのシチュエーションと見た目との乖離が激しくなるので嫌われていました。また、ポケモンでも別の縮尺の人形を混ぜることは禁忌とされていました。(縮尺の近いモンコレはギリ許されていた。)

 という感じで、自分と切り離されたものとして世界観をすごく重く見ていたように思います。

 そして、キャラクターはその世界にのみ存在してほしい。指人形もフィギュアも、別世界に実在する真実のキャラクターの模造品であると思っていました。

 だから小学生のときガンプラに144分の1モデルと書いてあるのを見た時感動しました。現実世界にないアニメの中のものに対して縮尺を示すなんて、なんて素晴らしいおもちゃなんだ!と思いました。

 それ以来再現度至上主義で、絵もオモチャも、アニメの世界に存在する真実の姿をいかに顕現させているかで好みを決めていました。ver.Ka(カトキハジメというデザイナーによる再解釈デザインがされたガンプラ、つまりアニメと違う)とかいらないよ!って思ってた。

 それからさらに成長して、この世界に存在しないものなのだから自由に作っていいし、むしろアニメの作画が真実であると信じられる理由もないと気づきました。

 たとえば作中で最強という設定のキャラを立体化するのなら、作画に合わせるよりも、全技術をもって最強感を表現するべきなのではないか。と言う風に思うようになりました。

 つまりキャラクターというのはイデア界に存在していて、現象界のもの(絵、おもちゃ)はすべて似像であるということです。

 そのためいろんな解釈があっていいのですが、ぬいぐるみはくたくたしたりして現象界に依拠しすぎているのでまったく好みにはいりませんでした。いや、いま思い出しました。アザラシのデフォルメされたぬいぐるみを子供のころ親に与えられてそれなりにうれしく触ったりしてまっとうに好んだのですが、くたくたになったり汚れてからいっさい愛着がわかなくなりました。で、どっかのタイミングで捨てられたのですが、ほとんどあるいはまったく抵抗はなかったように思います。それ以降ぬいぐるみを持つことはなかった。

 と言う感じでずっとキャラには自分とは切り離された世界のものとして存在してほしいという感覚をもっています(ぬいぐるみの質感自体は好き)。だから神像や仏像は好きです。

 仏像だと運慶快慶のようなリアリズム系の作品も好きですが、定朝様のような、神聖な存在としてデフォルメされたラインをかたどった作品も好きです。

 またキャラ自体現実世界に侵されないでほしいという概念も持っています。「アイドルマスター」シリーズなどの作品はライブなどで声優コンテンツのトップですが、声優の印象やキャラクター性がキャラに波及するようなのは自分の好みじゃないですね。また、声優の年齢経過で声が変わるのもいや。なぜ下等な世界の人間がイデア界に存在するアイドル様に影響してんだ。

 デレマスだと池袋晶葉が好きなのですが、それは声優がいないことも理由です。年齢を重ねる人間の声優が付いてほしくないし、単体で好みなので新しいコミュとかもいらない。

 究極に不変で最強で超然としたキャラがいてほしいですね。いまのところ知らないので……。「イデオン」のイデとか旧約聖書の神とかは近いんですけど、人間ごときの歴史に介入して失敗するあたりがダメだし、男性性をまとっていてかわいくない。

 「まどマギ」のアルティメットまどかはわりと理想に近いんですが、人を救うことが目的なのでよくないんですよね。そういうことを仕事にしてる時点でダメ。その点悪魔ほむらは独善的な愛で神的な存在になって不変の世界を作っていて、だいぶ好き。ただ、葛藤をかかえているのと、いつか負ける感じのフラグが立っているのが微妙。

 存在能力でいえば密教の大日如来が時制を持たず、全世界を超越しているのでそのくらいが理想。だが数十億人の人間すら救えない時点でザコ。

 「そもそも『人間に興味ない最強の神的なキャラ』とか物語化できないだろ」ってツッコみはそりゃ正しいんですが。一応構想としてキャラ・作品として成り立たせる方法はあります。死ぬまでに作りたいですね……。

 ユリイカのすあだインタビューで、「自分の死後もぬいぐるみには生きていてほしい(棺に入れるとかやめてほしい)」という趣旨のなかの発言で、「自分(すあだ)が死んだら、ついにいぬわんたんたちは自分の足で動きだして本当に生きるかもしれん」って言っていて、それはいい信仰だなと感動した。読んだぬいぐるみ特集のなかで、すあださんだけはぬいぐるみに宿る精神を形而上においていてすごかった。

にょ