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オススメの同性愛作品(BLと百合)6選

 いやーエモいBLと百合はいいですね。僕は二つのジャンルに本質的な違いを感じていないので一緒くたに語れる言葉がほしいものです(とりあえず同性愛作品と呼びます)。

 そういうわけで、好きな同性愛作品について語ります。ジャンルものとして描かれていないが個人的に同性愛を感じる作品も含めるぞ!



1.三島由紀夫『仮面の告白』

 えっいきなりそれ?って感じですが、この記事書くきっかけになったのがこの小説。同性愛を告白した重い作品としてとらえられますが、ふつうにBLとしてすばらしいと思います。というのも、中学生時代の話がとてもいいんですよね。

ひ弱で育ちのいい主人公とガタイが良くて素行不良の近江という少年の交歓が描かれるのですが、恋愛に発展することはもちろん無く、とても小さなエピソードを主人公の一大事として広げて描くんですよ。

その自己完結せざるをえないがゆえの繊細な性愛が、僕の求める同性愛の良さですわー。

 そうした未成熟なころの物語は主人公の自己を形成していくのですが、最終的に主人公はお見合いや、戦争といった社会システムのなかで、自己を否定のなかで見つめていきます。その切実さがあるゆえに、幼いころの"清潔な"思い出が際だっていくという点もすごいですね。

中学生時代の恋のキーアイテムとして「粗野な革の手袋」と「式日の白手袋」が出てくるのだが、それがいいですね。同性愛の暴力性と高潔さの象徴という感じでよい。

 もちろん世の中のBLや百合作品ではなにごともなく登場人物全員同性愛者であるような作品や、現実から完全に隔絶された世界の物語も多いですね。それもありなのですが、個人的には現実世界とつながりながらも区切られた関係の微妙さが好きなので、この記事ではそこを基本に紹介していきます。というわけで次!


2『魔法少女まどか☆マギカ』および続編『叛逆の物語』

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 「現実とつながりながらも区切られた世界」という点で僕が知る最も素晴らしい同性愛作品が「まどマギ」ですね。

 テレビと総集編映画においてまどかは延々とまきこまれつづけて、最後までほとんど自主的な行動を起こさないですね。さやかちゃん投げとばすくらいで、基本的に完全にまっとうな子供です。

 その過程で、自立した存在としてふるまっているがシステムに搾取されていることに死ぬまで気づけないマミさんや、暴走思春期まっさかりなさやか、わりきってそうで矛盾をかかえまくった杏子など人間のいろいろなパターンを見せられて、それを救えないまま最終決戦にまでまきこまれるわけです。

 魔法少女というギミックのもとアニメ的にいろいろ誇張されてはいるものの、マミ、さやか、杏子は現実世界の実時間をまじめに生きるまっとうな人間で、そのいざこざにまきこまれることで、まっとうな人間としての域にまどかも取り込まれるわけですね。異常な魔法少女の残酷なシステムは思春期の無力な少女に対しての現実のメタファーとして機能しています。それでシステムのもとでまっとうに魔法少女になろうとするか葛藤するわけです。

 しかしまどかは自分や誰かといったスケールではなく、「全時間軸に存在する魔法少女全員の救済」という、とほうもないスケールの願いのために魔法少女になってしまいます。それは言ってしまえばほむらという人間が元凶なわけです。ほむらがもう「まっとうな人間」とは違う因果律をまどかに押し付けたために、まどかもメタ的な視点をもってしまったわけです。まあきゅうべぇが人類視説明してくれることも大きいのですが。

つまり「まっとうな人間に囲まれたまっとうな少女」が最終的にほむらという異常な存在の異常なまでの愛が明かされることで、異常の側に行く、という物語なわけです。

そういう意味で先ほどの項で説明したような「現実世界」「暴力的で高潔な同性愛の世界」という二つがつながりながらも別々に描かれていて、最終的にまどかはほむらの一方的な愛を受け入れたうえでさらに高次の存在になっていくわけです。(むろん杏子とさやかの関係性も百合てきに解釈できるものではありますが)

 しかし一方的な愛が成就することはないのがリアルでいいですね。アルティメットまどかによる救済はほむらちゃんの願い(愛)だけを叶わせない。

だからほむらちゃんの「愛」とまどかの「優しさ」が本質的に分かり合えないということをまざまざと描いた「叛逆」が大好きです。というか「叛逆」で完成した物語だと思います。続きやってくれてもいいけどね。


3.中村明日美子『ダブルミンツ』

 BL漫画の金字塔、中村明日美子先生の「ダブルミンツ」です。ざっくり言うと学生のころから続くパシリ的な上下関係の二人の暴力的な関係が描かれるのですが、実際には共依存的な関係であることが描かれるのがいいんですね。さらに二人が現実のアウトロー世界にまきこまれることで、二人の「暴力的で高潔な同性愛の世界」もさらに変化していく……というのがキモでございます。

 ここでの暴力性というのは要するに痛みの象徴ですね。男性性のなかで隠された痛み(≒苦しみ)が解放される空間はどちらが暴力を振るうかはどうでもよくて、双方にとって癒しとなっているという構図……エモですやん。

 さて、局所的な空間における暴力の解放というテーマは必ずしも肉体的な暴力である必要はありません。ぼくは同性愛うんぬん以前に「男の娘」ジャンルが好きなのですが、そのなかの強制女装モノというジャンルはそういった意味で「解放の暴力」として使われることが多いです。ただ、「メスになれ!」みたいなのが強弱関係のメタファーとして描かれることには、なんらかの女性蔑視を感じることもあってあんまり好きではないですね……。まあ僕が好きな女装作品の話は叢書一冊書けるのでまた今度。

4.『あしたのジョー』および『Vivid Strike!』

局所的な暴力の解放、というテーマにもっとも近いジャンルはなんでしょう?そう、格闘技です!

というわけで4番目に紹介するのは高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや作画の「あしたのジョー(1967-1973)」、そして「リリカルなのは」シリーズのスピンオフ、「Vivid Strike!(2016)(以下ビビスト)」のふたつです。

「あしたのジョー」の同性愛はみなしごで下町で成長した矢吹ジョー(主人公)と、おなじ少年院で出会いながらも金持ちの白木ジムと契約している力石徹のライバル関係です。
一方「ビビスト」の同性愛は孤児院出身で住み込みバイトをしながら格闘技をはじめたフーコ(主人公)と、おなじ孤児院出身でありながら金持ちの養子となったリンネのライバル関係です。
主人公とライバルは個人的な関係をこじらせながらも、リングの上で正々堂々の決戦をするわけです。

 見ての通り「ビビスト」は「ジョー」に強く影響された作品です。アニメ版「ジョー」の出崎統監督オマージュもたくさんあります。だからって40年前の少年漫画と萌え絵の深夜アニメを一緒くたに語るのは……と思われるでしょうが、ビビストはジョーの同性愛要素に強くフィーチャーした作品で、同性愛というテーマで語るうえではビビストの方がストレートなのです。

 さて、リングのうえの殴り合いというのは抱え込んだものをぶちまけるすばらしい時空間です。血とか汗とかの体液も出て、性愛というものと不可分です。勝ち負けというものがあるから決着まできれいにつく。すばらしいなぁ……。

 しかし決着がついても、それが愛の成就となるということとイコールではありません。「ジョー」においては勝った力石が死んでしまいます。
こじれた関係が二人をリングに立たせ、関係性が情愛を生み、情愛が一発一発のパンチとなり、その鋭すぎる暴力性が関係性そのものに終止符を打ってしまう……オォン(泣)。

 その点ビビストは口論しながら殴り合うなかで分かり合えるので綺麗ですね。だから「ビビスト」は「ジョー」の力石生存&ジョー力石カプルートと言えます。そういうわけで両作品は根っこを同じとしながらふたつの結末にいたっていて、美しいんだなあ。

 ちなみに「メガロボクス」という「ビビスト」と同じような設定で、ちゃんと「あしたのジョー」の許可を得て作った作品がありますが、それは同性間のもつれが全然足りなかったです。一方ジョーと丹下段平の関係についてはこちらの方がうまく真似してましたが、そこじゃないんだよなあ。

さて、ジョーとビビストの最大の違いは白木葉子という無垢にして極悪な存在がいたことなのです。格闘を通したホモ関係は、女を通じて壊れる。
が、次はそういう男同士の間にはいってしまう女性を介した男同士の関係性のすごさについて語ります。

5.『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』

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 「機動戦士ガンダム逆襲のシャア(逆シャア)」は女(電波少女ララァ)をめぐって争った二人の男(シャア、アムロ)が女が死んだ後も因縁をこじらせつづけ、あげくの果てに地球を滅ぼす戦争をしながらなぐりあうという話です。

 この作品はいろいろ語ることがおおくて、巷で言われる(そして登場人物のナナイにも言われる)「シャアはアムロと対決するために戦争を起こした」というのには懐疑的で、アムロとの関係以上に根本的な人類への絶望があると思うんですが……まあともかくですね、

人類に絶望して「みんな死んでしまえばいいのに」とおもって実行しちゃう男の話だと僕は思っているわけです。そしてそんな虚飾にまみれた虚無主義者の男が、唯一最大の仇敵に対してだけ!自分の抱えたものを吐き出せる(あのラストのことを言っています)。それがすごいよな、と思います。
 そしてそうなる触媒として三角関係を誘発する女(ララァ)がおり、その女という存在のために男は狂いもしてしまう…。

 この記事では同性間の熱い関係は「現実世界」などという巨大なテーマと対をなせるくらいひとつ区切られた解放をもたらすものであるという視点に立って語ってきました。

その点で紹介したどの作品もすばらしいものですが、それはホモソーシャルの弱さでもあります。アニメ「あしたのジョー2」の主題歌に「美しき狼たち」という男同士の関係を歌った歌がありますが、その二番に

あいつには言葉はいらないさ 黙っているだけで心がかよう 
あいつには涙も見せられる 孤独な背をむけてもつつんでくれる
時にきびしく 見つめあい 時にきびしく いたわって
同じ男の夢を追い (後略)

という歌詞があり、ねっとりしたメロディーと歌唱もあいまっていい歌なのですが、そこでしか弱さを見せられないのってダサくね?って意見も当然あっていいわけです。

僕はいまのところそのしょうもなさを描いたBLや百合はほぼ知らないのですが、逆シャアはそのなんともしょうもない感じをクライマックスに持ってきているすごい作品です。でもそのコテンパンに雑魚でダサい存在として描かれたシャアが、すごい魅力的に見えるんですよ。

 だから、ホモソーシャルやホモセクシュアルな関係にたよる男のダサさをバカにしながらも美しく描く作品はありうると思うので、わたくし待望しております。

しかしよく考えてみるとホモソーシャルのダサさを肯定的に描いた作品を一つだけ知っていたので最後に紹介して終わります。

+1.かくまい『独立小国家きらら』

 ぼくの無二の親友かくまい君が描いたコミティア漫画で、ごちうさのようなきらら漫画にあこがれた無職の男(性別への言及はない)たちがきららキャラになりきって生きるコミューンを作ろうとする話です。テーマはホモソーシャルであって同性愛ではないのでカウントには入れませんでした。

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 さて、彼らは現実世界から隔離された「成長を止めた無職の街」を作ることにいったん成功する。しかし変化がないことを主上命題とする生活は人間にとってストイックすぎて、変化をしてしまう「ファッションきらら」があらわれ、最終的に脱落者と反逆者を生んで、また居場所を失っていく……というような物語です。
あらてめて見てすごい話だ……!!

 この記事では最初から百合とBLを分けずに書いてきましたが、本作もそもそもきらら的な百合幻想とトレカオタクみたいなホモソーシャルが同一であることを描いていてすごい。そして居場所というものに対するシニカルな視点もすごい。

 現在コミティアで買った人以外に読める環境はないのですが書かざるをえなかった。

おわりに

ということで、今回の同性愛特集はいかがだったでしょうか?
よくBLや百合について、「見たくない女や竿役をそれぞれ男や女に代替したものだ」という批判がある(あった?)のですが、
そういう作品は多くなく、同性愛作品の本質は
区切られた空間における特殊な自我の解放にあるということがご理解いただけたでしょうか。

それは人間にとって普遍的な居場所、そして行動の在り方だと思います。
だからぜひヘテロセクシャル(ノンケ)のみなさまも、気負わずに百合やBLを描いてほしいなあと思います。いや、描け!



めちゃくちゃ長く書いてしまいましたが、このくらいの文量(5200文字)の場合、2つに分けた方がいいんでしょうか?スキとコメントおまちしてます。

にょ