道を歩くときの感覚と祖父の勃起
スケートボードをはじめた友人が「スケボーで移動すると道の起伏や凹凸への感覚が増幅されて普段歩くのとまったくちがう」と言っていた。キックボードで通勤している人も同様のことを言っていた気がする。私は車輪のついた乗り物は事故るので極力乗りたくないが、たいへん興味ぶかいと思った。
きょう犬の散歩をしに、近所の人工湖の堤防に行ったらとても風が強かった。湖の堤防は周りにさえぎるものがなにもないことと、湖(気圧の差が生まれやすい)があることで常時風が強めなのだが、夕方から夜の風雨はとても強いのである。それで何本も傘をやられていて、折りたたみ傘だと開いた瞬間にこわれる。
じゃあ行くなよって話ではあるんだが、ふだん散歩やジョギングを楽しむ人でにぎわう堤防が、一転した雰囲気を出すのがおもしろくてわざわざ行ってしまうのだ。
600m超の堤防にはほとんど人はおらず、足元の高さのライトだけが一直線にならぶ。湖は雨で波うつが、ダム湖なので元から生き物はすくなく、死んだような寂寥がある。
そんなところを濡れながらクソのし場所を探す犬と歩くわけで、異空間にトリップしたような感覚があるのです。
しかしそこで傘をさすのは一苦労です。犬の縄を引くため片手がふさがった状態で強風をいなしながら傘で雨を防がないといけない。
で、試行錯誤の末にめちゃくちゃ風向きを意識するくせがつきました。
傘にあたる風の圧力が手に伝わりますが、そこで感じる微妙な変化をもとに自在に傘の頂点を風の吹く方向に向ける技術が自然に身に付きました。
そういうふうな癖がつくとべつに傘が折れないようなときも風向きをなんとなく考えたりしてしまいます。スケボーやっている人は滑りやすい地面を歩いていても考えたりするのだろうか。
あと、今年は気の狂った暑さでしたが、興味本位で炎天下のアスファルトを触ったら笑っちゃうほど暑かったので、ちょくちょく地面に手をやるようにもなりました。
そうやっていろいろと「移動」や「存在」という基礎的な動作に別種のクオリアをあたえることができると楽しいし、人間の感覚ひいては感性が拡張されるんじゃないかって気がします。
ほかにも道というものを楽しむ方法があったら教えてほしいです。
ちょっと方向性の違うはなしを。タイトルで察しがつくかな。
死んだ母方の祖父はアルツハイマー型認知症で、晩年はほとんどしゃべることもできないまま生きていました。
で、呼吸器系の病気が見つかって、そこまで過度な延命治療はせずに看取りに移行することになり、母に連れられて見舞い(結果的に最後の見舞いになりました)に行ったときの話です。
そのとき祖父は目覚めていましたが感情を表現する術もうしなって、落ちないようにベッドに拘束されたまま目だけ動かしている祖父は、一見するとすでにほとんど死んでいるようでした。
久々に会う私などはほとんど覚えていないようでしたが、頻繁に見舞いと介助をしていた母のことは特別な存在と認識していたようでした。
祖父は声を出すことも体を動かして表現することもできなくなっていましたが、呼吸がうまくできずに苦しんでいるときは微妙に眉をうごかしていました。それで母は祖父の手をにぎってあげました。すると少し眉がゆるみ、安心感を得たようでした。
なるほど身体はこわばっていてもちゃんと生きているんだなぁと思っていると、祖父の病院服の股間が隆起していることに気づきました。なんと祖父は勃起した、ように見えました。
おいおい娘に手を握られて勃起してんじゃねーかとか正直いって思いましたが、いまの祖父は相手が娘だとも明確にはわかっていないでしょうからそう見るのは本筋から逸れますね。
そもそも安心感で血がめぐった可能性もあり、勃起はいちがいに性的興奮を意味するわけではないですが、とにもかくにも、感情とリンクして陰茎が膨張したことはほぼ間違いないことなわけです。
重度の認知症というのは脳の神経の連続が断たれたりしてしまって起きる現象のようですが、寸断された神経のなかで最後に残った感情の回路は、苦しみを表現する目とやすらぎの勃起だったのです。
人間の、もしくは動物の根源の回路というのは苦痛と性的興奮なのだろうか。そう考えるのはフロイト信奉者である私的にはしっくりくるんだけど、現実としてみるとなかなか衝撃的だった。
逆算して考えると、人間の多様な感情も文化も、「苦しみ」と「性的快楽」というものを起点に進化分化多様化していった末にあるのではないかという気がする。
自分がどう死ぬかはわからないけど、今のところはたくさんのものに微妙にことなるクオリアを感じて生きていたいので、今日も風の強い場所で傘を指していきたいです。
にょ