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物語における"自己言及"・"哲学性"の意味

11月26日

 昨日の夜から体調がすぐれない。食べたものがそのままの形で出ていた。精神的な原因から消化不良になり、栄養不足に陥ったのかもしれない。

12月5日

 書きかけの日記をみたら、物語についてごちゃごちゃ書いた支離滅裂な文章があった。仕方ないので多少まとめて公開してみる。
 昨日12月4日は惣流アスカ・ラングレーの誕生日ということで、アスカの絵を多く見たのでサムネはアスカにしてみた。が、エヴァの話はほとんどしていません。あんたバカァ?


物語における「自己言及テーマ」とは…

 オタクは「現実をえぐりとるようなテーマ」のある作品が好きだ。手ごろなところで言えばまず自己言及性。『エヴァ(旧作)』とかやっぱ好きだし、つげ義春みたいなよりシュールな世界観もいいし、手塚治虫の『ブッダ』における手塚治虫自身の投影とか、そういう要素もいいですよね。

 批評家や哲学に詳しいオタクが、そうした自己言及性から分析的なことを語ってはじんわりとオタクたちにも伝わる……という受容のありかたも定着して久しい。自己言及性はだいたいイコールで「哲学性」として捉えられているわけです。

 でもう一つ、普通に哲学的なテーマというのもいいですよね。漫画版『風の谷のナウシカ』の終盤や、永井豪の『デビルマン』、アニメなら『イデオン』に『まどマギ』…。小説はあんまりくわしくないんですけど『幼年期の終わり』もよかったなあ。名高きSF作品たちは、現実世界を俯瞰したようなテーマを、物語のなかで展開します。

 でも私は哲学じたいが好きなわけではない。もちろん魅力や憧れは感じるし好きになりたいとも思うが、解説本でない、叢書の哲学書なんて一度も読み切れたことがない。批評とかで目立つ人は哲学好きかもしれないが、一般のオタクの大半は私と同じように哲学好きではないですよね。

 つまり漫画やアニメ、あと映画の中の『哲学性』と哲学は重なりあう部分がある(たぶん)けど、それは全然ちがうよね、ということです。わざわざ書かずともおわかりでしょう。で、何が違うのかちょっとだけ思いついたんですよ。

物語において哲学性というのはホラーなのではないか。一種のホラー展開として作られているのではないか。例を出しながら説明していきましょう。(マンガ版ナウシカのネタバレを含みます。

 『風の谷のナウシカ』は基本的には「自然との共生」、「文明の再興と戦争による社会秩序」という二項対立を描いた作品である。その時点で名作だったが、終盤にきて自然とエコロジーの象徴であった「腐海」が「現生の人類を滅ぼすために用意された、過去にコールドスリープを行った人類による装置」であったことがわかる。そうしてテーマは過去の人類のエゴと、使い捨てられる人類のエゴがぶつかるすさまじい展開になる。

 それを哲学的、人文学的に解釈すると色々なことが言えるんでしょうが、マンガの構造的に見れば急転直下のホラー展開と言える。今まで信じていたものが全部ぶっ壊れちゃう。しかも無垢な美少女だったナウシカは眠っている人類を皆殺しにしちゃう!登場人物にとっても読者にとってもそれは第一に恐怖、ホラーです。

 雑に言えば、日常が破壊されて美少女が怪物にさらわれちゃうようなホラー展開みたいなものです。そして美少女が怪物よりえげつない方法で怪物ごと街を破壊しちゃうようなものだ。

 さらに俗っぽい見方をすると、『ナウシカ』はたいへんに休載の多い長期連載で、長引いた連載をなにごともなくしめるわけにはいかなかったから、最後に怒涛のホラー展開を入れたとも言える。

 『ナウシカ』に限らず、物語のなかの哲学性ってのはこういう恐怖なのです。まあ哲学の本質が恐怖展開なのかもしれませんが、そこは知らない。

 ほかに同様の例を挙げると「海のトリトン」、「無敵鋼人ザンボット3」とか富野由悠季の初期作品に顕著かも。どちらも信じていた正義が逆転しちゃうという恐怖の展開で、視聴者に大きな傷を与えて話を幕切るという手法だ。
 そのあとに作られた「機動戦士ガンダム」ではそのようなどんでん返しはなく、「腐敗した味方陣営」、「人間味のある敵兵士」というような、より生生しい書き方がじっくり描かれて、ドラマとしての凄みは進展を見せるわけだが、ホラーとしての魅力は落ちているように思う。
 つまり漫画チックな正義があることで、現実が地獄の恐怖たりえるわけです。

 そういう構図をもっともうまく見せたアニメが『新世紀エヴァンゲリオン』でしょう。表面上は襲い来る敵怪獣をロボットに乗った少年少女が撃退するという正義があるのに、一切報われない主人公たちの孤独が描かれる。その時点で生々しい現実はホラーとして機能しているが、よりすごいのはそこに視聴者と製作者をダブらせていること。

 そのエスカレートの究極として『Air/まごころを君に』という作品はエヴァオタクを映像で明示したうえで、「オタクは現実に帰れ」というメッセージを堂々と示したわけです。自分たちののど元に刃を突き立てる。その刃は映画館を出たあとにもつきまとう本物のディスりです。もうホラーとして超一級品なわけですよ。しかもそのメッセージを送っている庵野秀明自身についての自己言及ともとれる、これはたまらないですね。

 どういうことかというと、「この映画を撮った人はこの作品の中で自分に呪われて死にかけている」と書かれているようなものです。「実際に人が死んだホラー映像」みたいなものです。すごいねえ。

 いろいろな言葉で語られた作品ですが、エンタメとして一流のホラー映画なのだと言えます。
 『エヴァ』の「オタクは現実にもどれ」というメッセージをガツンとくらった人々の話はよく聞きますが、「それでアニメ見るのやめました」という人は見たことがない。むしろ、そういう自己言及的なテーマを戯作にもちこみまくって、サブカルとオタク文化は隆盛を極めたわけです。

 その文化的展開も「哲学性=ホラー」説に立ってみれば、「リングの影響でアメリカの心霊ビデオにも黒髪の女が大量発生するようになった」のような話です。セカイ系ブームについていろいろな語られ方がありますが、無害そうなアニメ、マンガにホラー展開を入れるのが流行ったのだ、という言い方をしてもいいんじゃないでしょうか。

 さてこの「ヒーロー的活劇」と「乖離した現実」によって視聴者に生々しい恐怖を植え付ける手法。日本の漫画史で先鞭を打ったのは「デビルマン」と言われています。そのデビルマンはヒーロー漫画であると同時に「ホラー漫画」としてはじまっています。ジンメンあたりの展開はどう見てもサイコ・ホラーで、それが一挙に世界や人類といった存在の倫理にまで発展していくわけです。一見すると前半と後半には大きな差がありますが、ホラー漫画としての進展ともとれるのです。ぎゃくにホラー漫画という土壌が、こうした描き方を生んだのかもとさえ思ってしまいます(まあ思い付きですが)。

 また「自己言及」はもっと前からホラー的に使われてきました。手塚治虫の怪奇漫画「バンパイヤ」は「SF大会に行こうとしている手塚治虫が襲われる」という展開からはじまるし、ジョージ秋山の「告白」は作者自身の「殺人経験の告白」という形で生々しい物語が(入れ子構造になって)語られます。

 また、狂気を扱った文芸作品は古今東西で私小説形式をとることが多いし、自己言及と恐怖は切っても切れない関係性にあります。ただ、漫画やアニメなど、絵でつくられた物語作品の中で作者の自分語りが行われるというのはそれだけで第四の壁の破壊に近い行為なので、よりホラーと近しいでしょう(ジョージ秋山の『告白』はそこに自覚的なのもすごい)。

 ということで【「物語のなかの自己言及、哲学性」=ホラー展開】という説を述べてきましたが、気になるのはホラー性にわりと無自覚な作り手が多いところです。
 加筆修正された『デビルマン』は妙な壮大さや物語としての一貫性を作ろうとして失敗しているのが顕著ですね。元々がホラーなんだから、そういう種明かしはしちゃいけないし、無駄なのです。ほかの例も浮かびますがちょっと主観的すぎるのでここではやめておきます。
 ともかく作り手は持ち込んだホラー性をもっと大切にすべきだと思うのです。受け手の視点から言えば深い考察はいいのですが、しかし自分が見ているもののせっかくの娯楽性を見過ごすようなことをしては損だよな、ということです。ちょっと雑かな?


にょ