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少女アイコンの功罪とか……

 きのうの日記漫画はtwitterのフォロワーの方々におおむね好評でよかった。つぎはもうちょい読みやすくしたいと思います。

 しかし描きながらおもったのですが、バカの日常を女の子というアイコンに仮託するだけでちょっとした読み物としてまぁまぁ成立してしまうってのは怖いことですね。

 我々オタクは「イノセントな赦される存在」として少女を描くことで、いわばそれを形代にすることで、「赦されざる存在」である自己を解放しているのかもしれません。

 オタクに限ったことではなく、カトリックのマリア信仰とかそういうものですよね。処女で母で罪が無くて神聖な存在に祈りたい気持ちにはわかる!と言わざるをえない。

 そうした少女性の利用にともなう女性性への暴力性とかオタクは考えていかないといけないと思いますが、この記事では別のことを書きます。

 それは少女性に仮託するのもやりすぎると辛いよね、ということです。

 映画版の「風の谷のナウシカ」は聖なる処女に仮託した物語の極致だと思いますが、漫画の後半でナウシカはそうした存在から逸脱していきます。

 漫画版の終盤、いろいろあってナウシカは大罪を自ら背負う存在になるのですが、それは作者宮崎駿が「聖なる少女」という仮想上の存在に頼りきれなくなっていったってことだと思います。同時期の「もののけ姫」のサンも殺人者だし。

 これは宮崎駿のジェンダーに対する考えが進歩したわけではないです。現在最新作の「風立ちぬ」でも明確だったように、彼は「男を無条件で承認してくれる女性」という憧憬を持ち続けていますから。(終盤でナウシカが罪を背負うまえに巨神兵の"ママ"となるということもなにか象徴的です。)

 だから理由はただ自分と少女の乖離がつらくなったからってことなんじゃないかと思います。自分は世の中に絶望しているのに、「希望のかたまり」としての少女を描き続けることができなくなったんじゃないかと思います。
ざっくり言ってそういう変化があることはいいことだとおもいますが、それは少女性を扱う上で、そこまで本質的な変化ではないように思います。

 要するに、ジェンダー論的な視点ではなく、無垢な少女性を作品の主軸にすえるのはつらくなってくるからあんまり使わない方がいいんじゃないかってことですね。

 ちなみにぼくは宮崎キャラだと乙事主とジムシィと『on your mark』のチャゲがすきです。



 その他蛇足。ぼくが日記やレポ漫画で描くツインテールのこのキャラは2年前にコミティア漫画のためにつくったオユちゃんというキャラで、いろいろ使いまわされているため毎回設定はちがうものの、「原爆をしこまれた生体兵器」、「バグで生まれた最強の自己完結生物」とかで性別はおろか人間かどうかもよくわからない存在として描いています。まあ少女性というのは基本的に表象の問題なので関係ないですが。

ただもしこのキャラに仮託した僕の作品を見た場合、少女に仮託したい奴だと思わず、「こいつは【かわいい外見をもった宇宙で最強の上位存在】になりたいなどと思っているあわれなオタクだ」と思ってください。

 ちなみにこの設定がおおむねかたまったときの漫画は「最強の存在として生まれたオユちゃんが、進歩しきったAIの管理システムによって人類が幸福な家畜となった都市国家を破壊する」物語だったのですが、またそういう政治性まみれの話をやりたいなあ。

にょ