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日記(数学をまなんだ)

 おとといと昨日、数時間がかりで友人に数学について(通話で)教えてもらった。問題を解いたりするわけではなく、手取り足取りで高みへ連れて行ってもらったから、学んだというよりかじらさせてもらった、というくらいが正しいかもしれないが、素晴らしい体験だったのは間違いない。

 教えてもらったのは「高速フーリエ変換」という計算機数学(≒コンピュータでの計算)で重要なアルゴリズム。

↑このページ下部の解説スライドをもとに、MSペイントで板書したものを画面共有しながら学びました。


 膨大な計算をするときに高速フーリエ変換を行うと計算機で必要な計算がごっそり減る。ということなのだが、解説してもらおうにも数学の勉強が高1でほぼ止まっている私には、高校数学の領域を超えた高速フーリエ変換など、異世界の夢の闇の雲のごとき遠さ。

 しかし友人の語りたい意欲と私の語りを聴きたい意欲がかちあって、濃密な授業をした結果、なんとか仕組みを理解するまでに至った。と思う。

 まず初日の4時間くらいで総和の初歩(Σの意味、使い方)、多項式補間三角比の使い方、複素数の意味、複素平面、オイラーの公式あたりまでを解説されたうえで、次の日に5時間くらいかけて、加法定理、離散フーリエ変換、オイラーの公式の証明、逆変換、高速フーリエ変換と順を追って説明されて、なんとか追いきれた。

 中三あたりから完全に数学嫌いになってしまった小生ですが、今回、一対一で解説されたら、めちゃくちゃ面白かった。数学スゴい。


 なんで高校生のときはつまらなくて身につかなかった数学が今回はとても面白かったのか、違いを考えてみた。

1. 目的を示したうえで解説された。

2. 一対一で友達が説明しているのを聞き流せない緊張感があった。

3. 能動的に聞いた。

4. 説明がうまかった。私自身の聞く力もあがっていたかも。

5. ノートをとらなかった。

 ここらが理由だろうと思う。1の目的が見えていたことがおそらくもっとも重要で、この公式はなんに使えて、どう展開するのかが見えたうえで解説されれば、単体で覚えるのが苦痛だった公式も色づいて見える。特に加法定理とか、こねくりまわしているだけじゃんと当時思っていたが、こねくりまわして形を変えることがすごく重要なのだとわかれた。
 料理で言えば具材をどう使うのかレシピの全容を示されたうえで調理するのと、何も明かされないまま「芋の皮をむこう」「次は野菜を切ろう」みたいに手順だけ示されたのではモチベーションが段違いだと思う。

 まあ実際のところ、高校時代どういう説明をされていたかなんて覚えていないので、目的を言ってもらってたのをどうでもいいと聞き逃していた可能性はある。

 2も重要で、もしボーっと聞き流したりしたら失礼、というか相手が悲しむだろうという意識が働くので、頑張って聞かざるをえなかった。会話式に進んでいくから適宜反応も返さないといけないから、つねに自分の目の前に数学がある感じがした。

 3の「能動的に聞いた」もほぼ同じことなんですが、最初に「高速フーリエ変換」って何か説明できる?って聞いたのは私だったので、後に退けない排水の陣だった。もちろん知りたかったのだが、高校数学をぶっ通してから大学のレベルにいかないといけないことを悟ったときはさすがにヒエーっておじけづいた。

 4の「説明が巧かった」ってのは純粋に友人の説明がうまいとも感じたんだけど、それ以外にも今までの項と関連することがある。相手も自分のことをよく知っているから、私に合わせた説明の仕方をしてくれたのだ(そのはず)。雑談や休憩の入り方も生理的によい感じだった。

 あと高校卒業後の数年間で、私の聞く能力はだいぶ上がっていたこともあると思う。抽象的な話を聞くときには全体像や概略をつねに意識しながら聞くようになったので、進みの早い解説にもついていけた。
 だが高速フーリエ変換のために離散フーリエ変換をくりかえし行って逆変換をかけて復元するという過程の話はだいぶ混乱したな……。あんなんよく考えるわ。


 5の「ノートを取らなかった」っていうのは私にとっては重要だった気がする。私の知能は、数学のような抽象的概念よりも、言葉で明確化される論理の方が好きなのだ。ノートに鉛筆で板書するという行為をやってしまうと、数学の授業でも言語の書き取りとして脳に働いてしまった気がする。
 しかし今回聞くことに集中したら、頭のなかで、論理化されない図像的なイメージ(といってもグラフとかではなくもっとこう…なんだ、モノ化した数のイメージがアニメーションする感じ?)が浮かんで、理解が促進された気がする。「~気がする」ばっかなのでもっとこういう体験をしてみないといけないのですが。

あと、姿勢をころころ変えながら聞いたのもよかった気がする。部屋の中を歩き回ったりして、身体感覚に変動を与えることで集中力を保てたとも思う。 中高大生のときは常に机で寝ていた……。


数学おもしれえ!

 高校以降の数学って、現実にあるものとは基本的に無縁な、バーチャルな思考実験みたいなところがあると思うんですが、そうした思索の結果として「計算量が減る」という明確にわかりやすい道具としての使い道が示されるのはすごい面白かった。
 最後に普通の計算方法と高速フーリエ変換の差をプログラム上で実験してもらって、感激した。

 もちろん「役に立つかどうか」なんて尺度を超越したところに学問はあるのだとは思いますが、数学にそこまでの愛を持てない人間にとって、どう役立つかを見せてくれた方が実感わくなあと思った。高校でも三角比は世の中の役に立っている、みたいな説明があったとは思うんですけど、実際の運用の解説まではいかなかったはず。


 なんか高校数学を否定するみたいな感じの文になっちゃったけど、それは教育批判とかではなくて、高校生の自分ができなかった原因を克服して今から楽しくやるにはどうしたらいいかって方法として聞いてください。(そもそも高校数学楽しく修めた人もいっぱいいるわけだし……)

 世の中の礎をなしているデカイ学問がつまらないものなはずはないのだから、どれも「学ぶ体制」さえしっかりできればなんでも楽しいのではないかと思う。

 世には古文がつまらなかったし不要っていう人がそれなりに見受けられるけど、そういう意見を見るたびに俺は古文(というか古典)の面白さを伝えたい…!と思ってしまいます。


その他日記

 友人から絵(的なもの)の仕事をもらった。うれしい。それなりの額の仕事なのだが、モチベーションがめちゃめちゃ持続する。やはり世の中金なのか?!公開されるものというのもうれしいのでガンバリマース!(ワンダーモモ)

 コミティア135が中止。楽しみが消えた半面、マンガを書かなくていいのだとほっとするような、何とも言えない気持ちになった。漫画は難しい……。

 「PUIPUIモルカー」がおもしろい。ここ数週間で通話した友達全員と話した。だが話してみると、自動者の擬動物化アニメというモチーフが昔(90年くらい前)からあるものだと知らないひとが多いのが意外だった。

 モルカーは古典的なアニメの復古をしつつ、現代のダークなネタを詰め込んで、それを高いアニメート技術で作り上げた傑作だと私は思う。不透明水彩風のタイトル絵とか昔のカートゥーンオマージュネタもおおい。なのでモルカーに通じる昔の自動車動物系アニメを語る記事を書こうかなという気分です。

 初期ディズニーの「traffic troubles」、ベティブープの車が出産する回、ディズニーの『青い自動車(Susie, the Little Blue Coupe)』あたりは外せないかなぁ。それらといくつかの作品で、モルカーに至る道は描けそうだけど、せっかく書くとしたら自動車擬動物化の最初となる作品を見つけたい。私の知る限りでは最初に顔がついたのはtraffic troublesなんだけどオズワルドやフェリックスにありそうな予感もする。


 そういえばこのまえ自分語り欲求が起こったので男の娘についてドバドバ語ったんですが、ジェンダー占いについてそれっぽく語った二日後に、どうしようもない性倒錯語りをするという気のくるったnoteになってますね。

 

にょ