シャニマスの「実在性」について

・はじめに

本論は響きハレPさん「シャニマスにおける「実在性」の2方向のずれについて」(https://fusetter.com/tw/td3ZNb1h#all)を元に書いていますが、あくまでも感想文となります。
若干元文章で言いたい主旨と表現がずれている可能性があります。
必ず元文章をお読みの上で、こちらの文章はお読みください。
また、「感想」と述べているのも、あくまでも「論じる」ことは出来ていないというか、勢いで書いている文章なので…。
拙い部分もありますので感想としてお読みください。

・感想

この文章はとても丁寧だなと思ったのと同時に、とても参考になった点が二点あります。
まずは「実在性」という言葉を丁寧に分解し再構築しているところです。
この「実在性」という言葉は、雑な言い方をすると「誰が使ってもそれっぽく聞こえるが、意味が広くとらえられる言葉」だと思っています。SNS上でこういった言葉は、お互いが同じ言葉に全く違う意味を見出している状態で使い、Aさんが使った意味とBさんが使った意味は違うのに、AさんとBさんでそれに気づかぬまま議論をしている、ということが多々あります。
逆に、この「それっぽさ」を逆手に取り、安易に褒める言葉としてとりあえず「実在性がある」とだけ言及している文章も見かけたりします。
そういった、雑に扱われがちなこの言葉を非常に丁寧に切り取ってくださっているのが非常に好きなところです。
もう一つは、自分の中での「シャニマスにおける実在性議論」の解釈の幅が広がったことです。
そもそも、自分は3rdあたりから参加した人間で、そのあたりではじわじわとTwitter企画など、アイドル自身の実在性を高めていこうとする施策が打たれ始めている時期で、元々アイドルの個性としての実在性が評価され語られていた時期をあまり知りません。
もちろん、私もアイドルの個性がとても実在性を帯びていると感じますしそれが好きですが、「アイドル自身の実在性(Twitter企画や見守りカメラ)」のインパクトが強すぎて、自分の中でもそこの実在性に関して混在したまま、自分の中で分離できぬまま「実在性」という言葉を使っていたように思います。
そこが本文章によって分離することができ、自分の中での実在性に関する整理がはっきりと出来るようになりました。

・見守りカメラから見る「実在性」の矛盾

・見守りカメラ企画の違和感について

ここからは少し我田引水させていただきます。引用元文章と少し話が逸れるかもしれません。
引用元でも少し触れられていますが、シャニマスの「見守りカメラ」企画にはかなり違和感を覚えました。あの時の違和感はかなりあったのですが、言語化がうまくできず、違和感を持った人々同士で一緒に話したりもしたのですが、イマイチ内内でしか理解されず、自分の観測範囲では見守りカメラに違和感を覚えない人も多数おり、モヤモヤした気分となっていました。

ここで言語化を試みてみます。
おそらくあの企画こそ、「アイドルの個性の実在性」ではなく、「アイドル自身の実在性」を打ち出そうとした結果、本来重要視すべきな「アイドルの個性の実在性」があいまいになってしまったのではないかと思っています。
これはほとんど、引用元で語られている話ですが、アイドルのため息や、普段の生活音等、それを入れていけばある程度実在性を有してしまいます。
当然、見せ方も色々あるので、あの企画自体が全くダメ!という話ではなく、中身の動画自体は自分的にかなり好きでした。
ただ、やはり一番問題だったのは『見守りカメラ』という設定だったと思います。
見守りカメラとは、本来庇護の対象と言いますか、ペットや幼児、要介護者のために使用するもので、このアイドルのいる場所で設置することに何もそこにストーリーも理由もありません。ましてそれを付けたままにする意味も分かりません。
アイドル自身の実在性を上げようとするばかりに、そもそもの個性の実在性、もう少し広げて言うと、「ストーリーの実在性」が弱くなってしまっていたと感じています。ストーリーの実在性とは、こういったストーリーが本当にあるんだ!と思えるような実在性のことで、少し個性の実在性に近いかもしれませんが、微妙なラインなので分けて話をします。
『見守りカメラ』という突如出た神の見えざる手のような、都合のよい道具が出てきてしまったことで、ストーリーそのものの実在性が下がり、あくまでも「アイドル自身の実在性を打ち出そうとしている、創作なんだ」という感覚を覚えてしまいました。

まあ、ただシャニマスはあくまでも創作、ゲームです。
後述しますが、全く現実と離れた話もたくさん出てきますし、創作・ゲームというコンテンツである以上完全には神の見えざる手を隠すことはできないとは思います。が、それにしても、見守りカメラは自分的には、あからさますぎたかな…と思います。

・見守りカメラによって失われた実在性

ここで、おそらく引用元文章で危惧したことが再現されているような気がします。
引用元文章では、「実在性」が、アイドルの個性そのものの実在性を上げることから、他の媒体やモノ、音を介することで得られるような少し安易な実在性―—アイドル自身の実在性——の表現にシフトしていく中で零れ落ちていくものがあるのではないかという危惧がありましたが、事実僕の中からはいくつか零れ落ちてしまったと感じました。

繰り返しにはなりますが、企画自体は良いもので、アイドル自身の実在性を上げようとすること全てが悪い事ではないと私は考えています。
ただ、それを”雑に”、”安易に”上げようとしたとき、本来のシャニマスが持っていた良さを落としてしまうということです。
本来部分を忘れないまま、そこの向上に無心するのであればよいと思いますが、明らかにそこを落としてしまったからこそ、強く表現しているところもあります。

・見守りカメラの矛盾

〆になりますが、見守りカメラは本来、「アイドル自身の実在性」を上げるために制作されたものと理解しています。ただ、そこを上げようとして、そもそもの「見守りカメラ」そのものに、それがアイドルの事務所にあって、プロデューサーが見れる状態にあることに、実在性がなかった(と私は感じた)ため、実在性を上げようとして、他の実在性を下げるという矛盾が起きてしまったのだと思っています。

注意いただきたいのは、ここはあくまでも私の感覚です。
さきに述べたように、創作において神の見えざる手は隠しようがない存在ですし、シャニマスにおいても創作だからこそできるような世界や出来事は多々起きています。
それを受け入れられるか、受け入れられないかは、各々の創作観や、今まで消費してきたコンテンツによって左右されるものと思います。
なので、ここで私は製作者側を批判しますが、逆にこの創作を違和感なく受け入れた消費者(読者?)の方々をなんら批判するものではありません。

・シャニマスにおける非実在性の良さ

・SHHisシナリオに見る「非実在性」

さて、前段で触れたように、シャニマスには当然ながら非現実的な、実在し得ない話、創作ならではの話や世界観はごくごく当たり前のように出てきます。
それこそが、シャニマスが「キャラクターそのものの個性」を大事にし、その実在性を重要視している証拠だと思っていますし、良さだと思っています。

特に私が気に入っているのは、心の機微の表現を、別の世界を通じて伝えてくることです。
もしシャニマスが「アイドル自身の実在性」しか一切重要視しなかった場合、心の揺らぎを表現するのは非常に難しくなってきます。
何故なら、心の中を表現しようとしても、そのすべてが現実に現れるわけではないからです。
創作的な都合のよいやり方として、「心の声をしゃべらせる」という手法がありますが、それはあまり現実的でない上に、「ゆらぎ」は表現できません。キャラクターにとって、その段階ではまだ言語化できないような心の状態があると思います。しかし、心の声でしゃべらせると、その時点で言語化が出来てしまいます。
『言語化できぬ、得も言われぬような感情』を表現するのは、非常に難しいのです。
そこでシャニマスは、別の異世界や、他の表現を利用して描いていきます。

非常に私の中で印象的だったのは、SHHisの「モノラル・ダイアローグス」から「セブン#ス」の椅子のシーンです。
あまりピンと来る人がいないかもしれませんが、下記の椅子です。

モノラル・ダイアローグス2話「月と鍵盤」

モノラル・ダイアローグスはとても興味深い話で、まず、この話自体、ここで全く関係のない宇宙人と箱の話が出てきます。それを、現実世界と交互に、にちかと美琴が朗読のように語りだします。
にちかがしゃべるときは右側の椅子に光が照らされ、美琴がしゃべるときには左側の椅子が照らされました。
「月と鍵盤」の好きなところは、椅子の話もあるのですが、まずはそもそも全く現実世界と関係のない、しかも心象風景ですらない、二人の、どこにいるのかわからない朗読がとてもよいのです。
当然、この朗読が「どこの世界線で起きているか」なんてわかりません。
分かりませんが、そこについて特にいちいち言及する人はいません。
何故ならこれで伝わるからです。
演劇のような手法のようで、少し違うというか。演劇ではこんなに激しすぎる場面転換はできないと思うので…。
この一見なんら現実世界と関係のない、宇宙人と箱の朗読によって、非常に現実から遠く離れたところから、心の繊細な動きを、小さな鼓動を、羽で先を触れるように描いていく。こういった丁寧さが、よりキャラクターのリアリティを上げていっているのだと思います。
このようにして、先に挙げたような「心の声を読み上げる」といった表現の欠陥を乗り越え、キャラクターをよりそこにあるように見せているのだと思います。

そして、感動したのは、この椅子は、ごく一瞬、非常に重要なシーンで「セブン#ス」に出てきます。

これまで、椅子はずっと、一つずつ、片方ずつしか映し出されてきませんでした。それまでにちかと美琴はお互いちゃんと向き合えておらず、お互いがちぐはぐなまま歩んでいました。しかし、「セブン#ス」にて、美琴がにちかのほうを向いたときに、初めて、椅子はすべて映し出されました。
それは、こういった解説がなくとも、直感的に「あ」と理解できる表現でした。この椅子が何かはわかりません。わかりませんが、二人の心の動きは分かる。それでいいんです。
そういった非常に丁寧な表現こそが、本当にシャニマスの、非実在的な良いところだと思っています。

なので、逆に踏み込んで言うと、あまり「アイドル自身の実在性」を重要視しすぎていくと、こういった非実在的なお話とは相性が悪いので、そこがないがしろになってしまわないようにしてほしいなとは思っています。
(最新のSHHisのシナリオでこうやって最大限非実在性を発揮しているので、特にそこはあまり心配していませんが)。

・終わりに

改めて、響きハレPさんによって、自分の中で色んな言葉の整理や、
シャニマスに対する理解が深まり、感謝しております。
丁寧な文章を書いていただきましてありがとうございました。
改めて元文章を下記に記載しておきます。

シャニマスにおける「実在性」の2方向のずれについて
https://fusetter.com/tw/td3ZNb1h#all


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