推しと承認欲求に関する考察〜『推し、燃ゆ』を読め〜

基本的にここの文章は、推しと適切な関係を結べている(適切な距離感を保てている)人は、対象にならない。
行きすぎた承認欲求や、よくわからない自分の中の何かが、推しとの関係性を測り間違えてしまう人々に対する文章である。
ただ、あくまでも「自分が承認欲求が強いが、その上でどう推しと向き合うか」を自分の中の整理を目的として記載するので、自分よりも承認欲求がさらに強い人間や、別ベクトルで推しとの関係性に悩む人間はこの限りでないと思うので参考までに。

・承認欲求と「推し」
基本的に、承認欲求を強く持ったままで、他人を応援したり支援することはなかなか成り立たない。もし成り立つとするのであれば、その承認欲求の大きさを自覚できている状態である。
つまりは、「これは相手のためでなく、自分のためにやっている」というラインの線引きがしっかりとできているかどうかである。

『推し、燃ゆ』では、人生に何かしらの辛さを持つ人間が、「推しは背骨」として推しを精神的支柱にしていたが、その辛さに承認欲求が絡んでしまうと、推しとの距離感を測り間違えることになる。

ちょっと言いたいことが固すぎた。

ざっくりいうと「人を推すときの理想系って、牧師さんか?ってぐらいのできた精神性で全てを投げ打つも一切見返りを持たない状態だが、我々凡人にはそんなことができないので、自分の中の承認欲求とうまく付き合いながら推していくのが1番だよね」が言いたいことである。

以前長崎に行った際に、いくつかのキリスト教の史跡や博物館を回った。
その時に知った1人で、長崎に来たドロ神父は、長崎にすむ人々のため、キリストの教えを信じ、キリスト教を布教するために、夫を亡くした女性が稼げるための施設を作り、ものづくりを教え、教会を建て、病院も建てて自分で住民を治療し、20代に長崎に来てから一度も祖国に帰国することなくその生涯全てを人々に慈悲を与えることに尽くした。

まあ、ここまでくるとはっきり言って、推しどうこうではなく人間としての理想系であるが、当然ながら、こんなことが全人類にできたら即世界平和だろーし、我々には簡単にぽいとできるわけがない。
我々には持っているカードがあり、そのカードを切っていくしかなく、私が今から「生まれ持った才能」とか「生まれ持った財産」とかそういうものが配られることがないので、そんなものを今から「降ってこい!」と頼むのは野暮なように、人間性も含めて割り切ってやっていかねばーーつまり変に理想郷ばかり求めて何も達成できないよりかは、現実的なラインを図らねばーーならないということである。

そのための『推し、燃ゆ』であると考えている。
『推し、燃ゆ』では、推しに「支えられる」側面が大きく描かれていた。通常、人を好きになったり、それを応援したりする際の精神構造なんてなんちゃわからず、ともかく好きになったから好きなんだよ!というものだと思うけど、そこの好きになった理由というより、好きになった後のその「好き」の表現の仕方と、捧げ方に関して考えるきっかけを与えるのが『推し、燃ゆ』であると考える。

・「優しさのある隔たり」
僕は声優を近年推しているが、声優を推す上で見るのが「隔たり」である。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

これを僕は「優しさのある隔たり」だと思っている。
これは表現が難しいので、そう呼んでいる。
逆に、じゃあ「優しさのない隔たりってなんなの」という話になると、キャバクラとか風俗のガチ恋とか、そういう系のやつだと考えている。
要は、「相手に貢がせるために距離感を壊しにくる」という行為である。

その隔たりに優しさがあるか、ないか。
あるいは、その隔たりに私が自覚的か、どうか。

そう、この隔たりを一定距離保つことが優しさであり、逆に言えば、これを壊しにいくことは、むしろその優しさを受け取れなくなることではあるのだけれども、承認欲求が暴走してしまったり、自分の世界に入り込んでしまい、他者が見えなくなると、途端にその優しさを見失ってしまう。

特に「あたしが何をしても関係性が壊れることがない」という記述があるが、それは、関係性によっては壊れかねない。
距離が近ければ本人に認識されたり、本人に声や意見を送って目に見える範囲に入るわけだから、「めっちゃ可愛いーーーー!!!!!!うおーー!!!!!!!」と叫び続けることで関係性が壊れない安心感はある。つまり、「想いを強くぶつけても壊れない関係性」であることは正しい。しかし、これが「こっちを見ろ」という想いのぶつけ方になるとまた話が別になってくると考える。
これもあくまでも「めっちゃ可愛い!!!!!!うおー!!こっち見て!!」であれば問題ないのだが、「こっちを見ろ!!!!!!!!!」だけしかないと、関係性が壊れると思う。

もうちょっと分解しよう。

逆に固い言い方をすると「推しを応援するという基礎を忘れたまま、こちらを見ろという想いのみぶつけるということをしていると、関係性が壊れる」ということ。推しからの供給は、応援とトレードオフであり、推しを応援するということに対して与えられるのが、「こっちを見てくれる」ということなので、そこを忘れるほどに承認欲求が暴走する状態が、「距離感が狂う」状態で、かつ、関係性が壊れる、ということなのかなと。

基本的に自分は他者との距離感が全く図れない人間であるから、この辺りについてはずっとジリジリと距離を警戒しながら詰めている。

もちろん、今普通に社会人をやっており、特にコミュニケーション能力を重視される営業を問題なく5年以上やっているから、概ね一般的なコミュニケーション方法は把握しているつもりだが、そんなことをしていても、絶対に裏では自分の中の“ゴースト”が囁くので…(最悪な攻殻の引用の仕方)
このゴーストがいついかなる時に悪さをするかわからない。逆に言えば、「うまい暴走のさせ方」がわかっていない問題もあるかと思う。

それこそ、『推し、燃ゆ』の先の引用では、他者に向ける大きなクソデカ感情を、うまく推しにぶつける=うまく暴走させることで発散させているんだと思う。そういった形で、各々、人間には定期的に発散しておきたい何かを持っており、職場の大人しそうな事務のおばちゃんも、ライブ観戦で喉潰すほど応援してたし(マジで声出なくなる寸前までいった)、前東京出張時に出会った最速出世ルートの敏腕上司も、借金100万作るほどパチンコやってたし(今は奥さんに厳しく管理されてる)、基本的に人間は、どんだけ社会に馴染んでいようが、絶対に「反社会的」・・・というと言い過ぎか。秩序に従わないというか。カオスを持っているんだなと。

そのカオスに自覚的で、発散をうまくできれば、なんら問題ないが、そのカオスが無自覚に暴走してしまえば、まあはっきり言って推しがどうたら関係なく、人間は崩壊する。

で、話が戻る。
なぜそれで『推し、燃ゆ』なのか?というと、結局「推しってこういうもんじゃね?」という、今描いてるnoteみたいなのを読んで「なるほど!」とはなり難いと思う。押し付けがましいので。『推し、燃ゆ』は、あくまでも「ある推しがいる人の人生」をただ記述しただけの話であり、その本は一切推しに関する解釈をこちら側に強制しない。
参考にするかしないか、ただ物語として楽しむか、あるいは「自分と全く違う推し方」という反例として読むか、その切り取り方はさまざまである。

そう言った点で、『推し、燃ゆ』は本当に推しとの関係性を考えたり悩む上で非常に重要な参考文献だと思っている。

と、いうわけで気が向いたら読んでね。
ちゃんとした紹介記事貼っとく↓



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