オタクが言う”キモい”という”褒め言葉”とはなんなのか

”キモイ”というワードそのものについてはあんまり語ることがない。
何故なら人によって環境によってそりゃ定義も中身もあんまりにも違いすぎて、話が広すぎてこのワードそのものでは語りようがない。

ただ、”褒め言葉としてのキモイ”はどうだろうか。

褒め言葉として本来使われることはあまりないというか、だいたいが侮辱や自虐といった悪い意味でしか使われないワードなので、褒め言葉として使われるのはレアである。
しかし、かなり雑な理論だが、オタク界隈ではどうにもこれをよく見る気がする。たぶんオタクというより、”コアなジャンル”の中では使うんじゃないかという印象がある。ので、オタクと言っても本当に幅広の”コアジャンルにおける褒め言葉”として、だ。

つい最近も、某ボカロPが「キモイ(褒め言葉)」とたびたび言われている、というのをTLで目にした(同時に、本当にネガティブな意味でのキモイという評も見たが・・・)。

それって褒める側も褒められる側もどちらも”キモイ”をポジティブに捉えないと成り立たないので、それってかなり難しくないか?と思う。
なのであまり自分は安易に使わないようにしているが、お互いが了解しているのであればなんら問題ない。

ただ、それにしてもどうも珍妙なこの言葉遣いが気になってしょうがないので、もう少し分解していきたい。


・はじめに ”褒め言葉としてキモイ”を使う時

そもそもこのnoteをかいているのも、フォロワーに「なんか『キモイ』けど『キモイ』をさらに突き抜けた先にいるよね」という評をもらったのでそれきっかけでもあるのだけど、キモイを褒め言葉として使う時ってどんなときだろうか?
ぶっちゃけ高校時代とかのめちゃくちゃ痛々しい時(詳しくは後述)とかも言ってた気はするんだけど…。

しかし共通して言えるのは、”キモイ”をある種のアイデンティティとして褒める側も褒められる側も思っていないと成り立たない。
やはり「キモイwwwww」だけで褒め言葉になるのって中学生高校生ぐらいまででは……。と思っている。
しかし冒頭のフォロワーの褒め言葉と、中高生のそれは確実に違う何かがあるのだ。一緒くたにしたくない。
そこはちゃんと分析しないとわからんなあということで、キモイというワードをアイデンティティと感じる時ってどんな時じゃ?とかそういうあたりから当たっていってみようかなと思う。

・「キモイ」のフェーズ

先に、「なんか『キモイ』けど『キモイ』をさらに突き抜けた先にいるよね」という評をもらった、という話をしたが、この「『キモイ』を突き抜けた先」というのが重要なような気がしている。
つまり逆に言えば、”突き抜ける前のキモさ”もあるはずである。
ようは、「キモイ」のフェーズがいくらかあるのではなかろうか。
いったん自分で当てはめて考えてみる。

・「キモイ」無自覚期

俗に言う”黒歴史”として言われる時期に当たると思う。
例えば僕は高校時代にオタク文化にハマったが、
一般人の友人へのメール返信さえギャルゲーのセリフスクショで返す
というまぁまぁキショイ行動を取っていた。
いわゆる厨二病の時期ともいえる。

当時大好きだったリトバスのスクショを無限に擦っていた。ころしてくれ。

しかしこれは当然どうキショイかあまり自覚しておらず、身内で「キショイwwキショイww」と喜んではいたものの、むしろその見せかけのようなキショさをアイデンティティかのように扱っていたキショさがそこにはあるような気がする。
そこに具体的な中身があるかというとあまりなく、今挙げた”見せかけのキショさ”というか、ただ目立ちたい、変になりたい、に近いような、そういう変なキショさだと思う。
「キモイ」「キショイ」と言われることに目的があるみたいな?
これは先にも挙げたように、あまり良い褒めではないというか、別に中高生がやる分にはいいけど大人になってまでやるのはちょっと…。
褒めるとしたら、それこそ自覚のない身内同士で「キショイwwwキショイwww」と言い合う感じになると思う。

・「キモイ」と自覚したが中身わかってない期

この時期は一般的に言うモラトリアム期というか、突き抜ける前の期間のような感じで、この時期には「キモイ」を褒め言葉として使わないし使われても喜ばないと思う。
ようは先に挙げたような黒歴史をはっきりと黒歴史として認識し自覚し、「うぉ~~~キモイ……」とめちゃくちゃへこんで自分を顧みている時期であり、それ以外の色んなキモさを思い返しオエーーーーーーーとなっている時期である。

危うくこういうノートは作っていない。しかし電子の海に残ってるよ、”黒歴史”

厨二病時期とは違うのは、少なくとも”嫌悪すべきことである”という認識をし、恥ずかしいと思えるようになったことである。
しかし、何故厨二病時期にも「キモイしww」と自覚していたはずの行動が、この時になって恥ずかしいと思えるのだろうか?
それはおそらく、少し理解が進んだことにより、厨二病時期に目を背けていたキモさに気付くからであると思う。
先の自分の高校生の例で言えば、”相手の反応を無視して、自分よがりで相手の知らないものを送り付けるキモさ”みたいなところだろうか。
「ギャルゲのスクショ」そのものがキモいのではなく、相手を無視しているところが気持ち悪いのだ。
そうやって、キモさの具体性、解像度が上がっていく。
人間は成長すると、自分一人ではなく他者との関係性を意識するようになる。なので、少年期に許されていた独りよがりな行動を改めて「他者が見るとどうか」を考える時期に突入する。

なので、厨二病時期よりかはどうキモイかが見えては来ているのだが、反面、そのキモさの正体が見えてきたとしても、嫌悪感しか湧いてこず、自分のキモさを見つめることがめちゃくちゃにつらく、逃げ出したくなってしまう時期である。
なので理解していても分析はできないので、”わかっているようでわかっていない”時期なのである。

・「キモイ」完全にわかった期

これ”わかった”というのは誇張表現で、ぶっちゃけ全然わかっていない。
むしろ、それぐらい開き直れた分、キモさにちゃんと向き合えるようになった時期ともいえる。
そして、分析し見つめた結果、別に最初のリトバスの黒歴史的なものとは一見何の関係もないキモさでもあったりする。
反面、そのぶんある意味他人に共有しようがないため、創作など別の形で昇華せざるを得ないようなかなり具体的なキモさと言うことである。
気になる人はワイのpixivとか見てね。

ほんまにこれ(全然わかってない)

前の自己嫌悪になっている時期と違うのは、目を背けたりせず、自分のキモさをまじまじと見つめた上で「はえ~~~こういうところがキモイのかあ…」と分析しながら、キモさをさらにずっと分析し続けているような時期である。
ちゃんと見つめられるようにはなったが、あまりにも具体的なキモさ過ぎて、自分ひとりでその解決方法がイマイチわからないのである。
なので小説とか創作とか、あるいはオタク活動の中とか、ごく少数の価値観を共有できる人と日々考えを共有しながら、そのキモさの根源がなんなのかを延々と考えているような状態だ。
ようはキモさの解決方法を延々と考えている状態である。

キモさ、というとわかりづらいかもしれないが、生きづらさ、等もこれに該当するかもしれない。

アーティストの星野源のやっている番組「LIGHTHOUSE」では、星野源が
『悩みの正体は完全にわかるけど、それが緩和されるわけじゃない』
と言っており、かつ
『この悩みが解決したらたぶん創作を辞める』
とも言っている。

おそらく自分も似たような位置にいるのだと思う。
自分で小説を書いていてもそうで、自分が小説を書くとき、自分の中にある感情の源流を元に小説を書くのだけれども、自分の気持ち悪い部分をうまく創作に落とし込んで書く。そのキモさを世間がどう見るかを含めて感想を読む。そこからついでで世間から自分の生き方の改善策が得られればいいなという考え方なのかもしれない。

そしてそこで言われるキモさというのは、先のギャルゲースクショの話とか、エログロとか、すぐにパッと見でわかる安易なキモさとかそういうものではなく、”生々しさ”的なキモさの方向性である。
その生々しさというのは、たぶんキモさの細かい部分をちゃんと観察して丁寧に描くことで得られるもので、少なくとも「嫌だっ!!こんなキモイ自分見たくないっ!!」って時期にはどうやっても描けない話である。見つめるだけで大ダメージなのに、ましてやそれを描くなんて出来るわけがない。

反面、それは一朝一夕のキモさの積み重ねでは書けるものではない。安易な手前味噌のキモさではなく、自分の中の源流を丁寧にひも解いて得られるもので、そこには確固たるキモさのアイデンティティが存在すると思う。

ここでもう少し学問的にひも解いていこう。
少し踏み込んだ話をしていく。

・キモさのアイデンティティ~エリクソンから考える~

・ぶっちゃけ、キモさのアイデンティティって”良い事”か?

アイデンティティというワードは、発達心理学者のエリクソン(Erikson E.H. 1950,仁科(訳),1977)が提唱したものである
一部上記書籍の解説書籍から引用する。

大野(1995)の解説では、「私は他の誰とも違う自分自身であり、私は1人しかいない」という感覚(不変性・斉一性)と、「いままでの私もずっと私であり、今の私も、そしてこれからの私もずっと私であり続ける」感覚(連続性)を持った主体的な自分が、社会的な自分(社会の中で認められた地位、役割、職業など)に合致している安心感を意味している。
平たく言うと、自分自身の職業や生き方、信念などについて「これが自分だ」という感覚を持ち、それが社会的にも認められていると自分自身で思えることだろう。

藤村宜之編著『発達心理学[第2版]』 ミネルヴァ書房,2019 p136-137

先の章では、”キモイ”が褒め言葉になるタイミングが二回あった。

・厨二病的なキモさに、身内だけで褒め合っている時
(=キモさのアイデンティティが全く確立しておらず、中身がない時)

・突き抜けた生々しいキモさが醸し出されている時
(=キモさのアイデンティティが確立している時)

厨二病的キモさは先ほど私は具体的な内容を事細かに記述したが、それはなぜかというと、「アイデンティティのあるキモさ」ではない、逆に言えば「共有できてしまうキモさ」だから、敢えて詳細に記述してみた。
つまり、みんなからキモイキモイと理解してもらえる分、別に自分しかやらないキモ行動ではないので、先述の引用内の”連続性”はなく、アイデンティティは存在しない。
逆にそこにアイデンティティを求めているからこそ、センシティブで、目立って個性のように見えるようなキモイ行動に飛びついてしまうのだろう。
つまり、社会とキモエピソードを共有していく中で、そのキモさというのは普遍的であり、言ってしまえば”自分しか持たない、どうしようもないキモさ”ではないことが分かり、ある意味厨二病的キモさは笑って済ませられる安心感が得られることがある。

むしろこういうテンプレ画像が作られるぐらいには、厨二病はある程度固定概念である。

こう書いてみるとわかってくるのが、このエリクソンの論の中では、当然アイデンティティが確立したほうが良い前提で話をしているが、ぶっちゃけキモさにおいてはアイデンティティが存在しないほうがどう考えたって幸せなのである。
何故かと言えば、今書いたように、キモさなんて所有していても本来苦しめられるばかりで、むしろアイデンティティなかった!みんなが持つキモさだ!とわかり、そこから得られる解決策を元に解消に向かうほうが圧倒的に良いに決まっている。
先に挙げた”自分しか持たない、どうしようもないキモさ”、つまりアイデンティティのあるキモさというのは、共有相手もロクにおらず、解決方法もわからないからである。

つまり、ここで大野(1995)はアイデンティティを確立させることで安心すると記載しているが、キモさのアイデンティティにおいては、それは例外であり、むしろキモさのアイデンティティが完全に確立してしまうと、より苦しむことになってしまうのである。
つまり、アイデンティティが確立した後に、更なる苦しみのフェーズに突入することになるのである。

・キモさのアイデンティティを生かす

ただ、ここで話がつながってくる。
そういった、キモイ確立されたアイデンティティが褒められる場合がオタク界隈ではあるからだ。
キモいアイデンティティを、うまく創作活動全般に昇華し、ある種それを創作活動におけるアイデンティティとして受け入れられれば、そういった苦しみは緩和されていく。
あるいは、創作活動ではなくとも、そういうごく少数しか共感されないアイデンティティを共有できる相手を求めて、よりコアなところに潜り込んでいき、人々はオタクになるともいえる。
そうやって、オタク活動の中で、なんとか仲間を見付けたり、創作することで認められたりという行為を通してキモさの苦しみを緩和していく。
それがおそらく、「キモさを突き抜けた先にある『キモさ』」なんだと思う。先の文章を再度引用する。

「いままでの私もずっと私であり、今の私も、そしてこれからの私もずっと私であり続ける」感覚(連続性)を持った主体的な自分が、社会的な自分(社会の中で認められた地位、役割、職業など)に合致している安心感を意味している。

藤村宜之編著『発達心理学[第2版]』 ミネルヴァ書房,2019 p136-137

ここでいう”社会”から、最初に「それは確かにキモく、お前しか持っていないキモいアイデンティティだ」と言われることで、アイデンティティのあるキモさを持つ人々は苦しむわけだが、他方で、このアイデンティティが”別の社会”、つまりオタク界隈や創作界隈で認められる・仲間を見つけることで、安心感に変換される。

逆に言えば、キモさを褒められるというのは、キモさのアイデンティティがどうやっても確立してしまう苦しみから求めるものであり、キモさからの褒めそのものを積極的に求めるものではないということである。

だから、たまに「キモイという褒め」を使っているシーンで違和感を感じる時は、おそらく褒められる対象が
・そこまでアイデンティティの追及ができていない(言うほど個性的でない)
あるいは
・キモさからの褒めを求めにいってる
のどちらからか来る違和感だと考える。

・まとめ:オタクは永遠のモラトリアム期なのか?

・未熟なキモさは、何も生産性もなくキモイ

まとめると、
キモイという褒め言葉は

・厨二病的なキモさに、身内だけで褒め合っている時
(=キモさのアイデンティティが全く確立しておらず、中身がない時)
・突き抜けた生々しいキモさが醸し出されている時
(=キモさのアイデンティティが確立している時)

の2パターンが存在し、正直前者はただ成長がなく、むしろエリクソンをさらに具体化し分析したマーシャ(Marcia J.E. 1966)の言うモラトリアム期よりさらに前段階の未熟な位置で、あまり良いとは言えない。
良いとは言えない、というより、そのキモさそのものに個性は存在しない分、本来そのキモさに悩む必要がない。つまり、キモさへの褒めを本来必要としていないはずなので、あまり意味のない行為と言える。

ここを明確に線引きしておきたいのでもう少し踏み込もう。
先のマーシャ(Marcia J.E. 1966)の理論をさらに日本へ落とし込んだ無藤(1979)の図を引用する。

(出所)無籐,1979 藤村,2019

すごく簡単に言うと、上に行けば行くほどアイデンティティがしっかりと確立した状態で、よく言われるモラトリアムはその手前、直前である。

”危機”は人生で大きな決定について色んな選択肢を迷ったり葛藤したことがあるかどうか。”系統”は信念に基づいて行動することである。
よく言われるモラトリアム期は、色んな人生の大きな決定や選択肢を前に、自分の信念を探し葛藤している、まさに大人になる前の葛藤期間ともいえるだろう。

さて、ここでいう先の「厨二病的キモさを身内で褒め合っている時」を私はモラトリアム期の前、早期完了期と説いたが、早期完了について大野(1995)は、親や教師などその人にとっての権威の価値観を無批判に受け入れている状態と言っている。
つまりは、世間的にわかりやすいキモさに飛びつき、それでなんとかアイデンティティを保とうとしている状態のことである。

逆に、大人になっても厨二病的キモさを展開してしまう人間はそれはそれでキモイのかもしれないが、アイデンティティの追及がしっかりと出来ていないだけで、考え抜いていけばそこから抜けられる可能性を持ったキモさともいえる。
生来の、いくら考え抜いても、いくら分析しても変えられぬ突き抜けたキモさではない可能性があり、そこにある程度救いがあるような気もする。
そこを考えず、いつまでも早期完了期を抜けられないからキモイんだよそういう人々は…と言われてしまえばそれまでだが…。

・ちょっと蛇足:永遠にモラトリアム期のまま?

さて、ここまで書いて、なんとなーく、「キモイと褒められる」場合を分けて考えて、自分の立場や、キモイと褒められてまあいいんじゃね?って言えるパターンとかを考えていたが、正直言って我々は永遠にモラトリアム期にいるんじゃなかろうか…と思っている。
自分の中のキモさの解決を永遠に探しており、その彷徨っている中でたまたま創作がそれらに合致したので、ここにいるという感じで、この解決方法が創作ですべて得られるのか、自分はいまだわかっていない。

もちろん、ここからちゃんと抜けられて、純粋に創作を解決策に使えたり、あるいは悩み自体は普通に解決して、それと別に創作を楽しんでいる創作者もいる事だろう。

しかし自分はいまだ至っていない、キモさモラトリアム期のまま永遠にちょろちょろしているような気がする…。
ただ逆に、これってむしろ永遠に探し続けたほうがいいとも思っていて、どこかで「俺こんなキモいぜ!」とそれをアイデンティティにしだすとそれこそそこで人間が完全に停滞してしまうような気もしているので…。

がんばろう、永遠のモラトリアム期。
突き抜けよう、キモさ。

大分色んな所に話が脱線したが、このあたりでおしまいとする。


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