こうもり、宴にくり出す

「畏友」という文字を見てまっさきに思い浮かぶのは、大学のサークルで知りあったI君だ。彼の話を聞けば誰しも、ことば選びや語り口の“間”にくすっとせずにはいられない。頭の回転も速く、社交的で人望もある。かてて加えて根っからの酒好きときている。彼と僕は練習の帰りにしばしば、仲間とつれだって呑みに出かけた。仮装した友人を棄てて帰るアイゼンシュタインのような真似こそしたことはないとはいえ、紙幅が許したとしてここに書くのは憚られることも、少なからずあったように思う。ありがたいことに卒業してからもこの付き合いは続いているが、今では僕らも大人の嗜み方をきちんと心得ている(つもりではある)。とはいえ、彼が学生時代から一貫して文学研究の道を着実に歩み続けているのに対して、僕はと言えば大学で事務をしながらも、博物館で教育ボランティアをしてみたり折り紙創作にかぶれてみたり、余所事への目移りを止めることができぬまま、だらしなく歳を累ねてしまっている。

7年ほど前だったろうか、僕らはその日もやっぱり呑んでいた。もう店を畳んでしまった上野の地下のパブだ。看板メニューのドイツやベルギーのビールは、うまいがずしんと重い。それでもみちみちと太ったソーセージや、割るたびに湯気の立つじゃが芋にさそわれて、瓶は飛ぶように空いていく。なんてご機嫌な夜!なんて陽気なひととき!いつもなら一晩明けて残るのは、未練がましく浮き足立ったままの気持ちをのぞくと酒呑みの代償ばかりだっただろう。けれど、この日は違った。

そのころ僕は、かねてから好きだった宮沢賢治が物語に、地学や農学の知識を散りばめていること、博物館に足繁く通っていたことを知り、作品を切り口にして博物館の展示を見てもらうことができないか考えていた。自分なりに文献を漁ったり作品に登場するオリザやらよだかやら蛇紋岩やらを調べたり、ときには花巻を訪ねることもあった。素人の悪戦苦闘をI君は馬鹿にはせず、東ニ新タナ書籍ガ出レバ面白イカモヨト情報ヲヨコシ、西ニ講演ノ話ガアレバ申込ンデハドウカト言ッテ応援してくれていた。そんなさなかだったから、話題はどちらが切り出さなくても気付けば賢治に向かう。事前のやりとりもあって、呑んではいても結構本気で議論になった。銀河鉄道のジョバンニとカムパネルラの雛形を「ひかりの素足」に求めたり、ゴーシュのセロの“大きな孔”の正体に思いを馳せたりして、ひとしきり話題が出つくすと、彼はおもむろに切り出した。

「賢治ってさあ、なんで書いてたんだと思う?いや、もっとちゃんと言うと、
つまりどうして書かざるを得なかったんだと思う?」

今にして思えば、文学を研究する人には身近な問題意識なのかもしれないし、I君自身こんなことを言ったことすら忘れていても驚かない。けれども当時の僕にはとって、この問いはとても新鮮で、“いや、もっとちゃんと言うと、”意想外であった。はっきりと答えに窮し、じわじわとアルコールが飛んでいくのを感じた。ああいうとき稲妻のような衝撃の一つでも走るならば三文芝居の筋書きにもなるだろうが、人間の内面の動きは実のところもっとうんと緩慢だと知った。ハムやベーコンを肉の部位だと思っている人間が、いきなりソーセージを作れと言われて、大量のミンチと干からびた羊のはらわたを前にどうしたものかとうろたえながら、たちこめる生肉の臭気の中でなすすべもなく眉間に皺を寄せて腕組みしているような無力感。作品は読むものであって書くものではなかった僕にとって、何かを書かなければならない、何かを文字にしなければならない、何かを表現しなければ自分が保てないという切迫した感情は、抱いたことのない未知のものだった。そこで口をついて出たこたえを鮮明に覚えているのは、慣れ親しんでいたつもりの作品がいかに自分から遠い世界にいるのかを、思い知らされたからだろう。

一旦アルコールが飛んだ気がしたくせに、この夜の酒は本当に効いて、翌日に結構な償いを残した。しかし彼の問いだけは、“酒呑みの代償”とともに身体の外に排出されることはなく、消化できない尖った異物として、長いながい間、僕の身体の内に居座り続けた。

***

俗世から取り残されたかに見える大学であっても、事務仕事は山のようなメールと文書に追い立てられるもので、毎日膨大な数の文字と接している。そうは言っても読めども読めどもことばの森を渉猟するようなわくわくとした気持ちになることはないし、書けども書けども骨肉を削って分身を生み出すような高揚感を覚えることもない。情報を効率よく受け取っては投げ返しを続ける機械のような労働だ。「より具体的な観点から申し上げますと、『お忙しいところ大変恐縮ではございますが』や『ご検討いただければ幸いです』、『ご承知おきのほど何卒よろしくお願いいたします』といった形式的な文言の塊から趣旨を抽出した上で、同様の文言を使用して回答を作成し、先方にお送りするという作業になるのです。」こんな退屈な操作から生まれたかがらんどうなコトバは、飛ぶためだけに進化を遂げた動物のように理に適っていても、哀れに痩せ細っていて脆い。誠に遺憾ながら、コトバの応酬の環境に幾年も浸ってしまうと、合理的作業ではすくいとれないものを察知する感覚は、どんどん磨耗する。今やこの手続から外れたものは読むのにさえ苦労する始末で、当然ながら語ることはもっと難しい。

仕事のコトバから逃れてSNSに走ったこともあった。Twitterではふんわりとした共感を夢見、気ままに思いを発信できることに魅力を感じた。けれども、推敲も熟考もないまま文字列に変換された感情の昂りは、あまりにも一面的/刹那的な断片に劣化する上に、なぜだか人はその断片に自分や他人を縛り付けてしまう。断片の違いは他人との差異を際立たせ、分断と憎悪を加速しているように見える。Facebookでは同窓会のように旧交をあたためたいと思っていた。流れてくるキラキラした笑顔の画像/きらびやかな文字列は各々がいかに人生を謳歌しているかを演出しながらも、写真の構図は絵葉書、言いまわしも判で押したかのよう。ちっとも、みじんも、気持ちが入りこめない。僕はついつい、自信家のバズ・ライトイヤーがおもちゃ工場でおのれのクローンの大量生産を目撃する場面を思い出してしまう。どうにも長くは見ていられない。どちらのSNSでも、ことばを選ぶことで、抜け落ち崩れ落ちしまうものをすくいとろうとする書き手の葛藤を見出す機会はだんだん減っていった。あるいは、葛藤するということそのものが、俎上に乗らない人が増えたのかもしれない。もっとも声高に批判したところで、ひとたび郷に入ってしまえば郷に従う自分に、鬱々とする。僕もまた、グロテスクで無味乾燥な文字列を身にまとった一体のバズだったのだ。

コロナ禍が追い討ちをかける。穏やかな家での暮らしは進むテレワークで仕事のコトバに蝕まれるようになり、SNSは吟味なき文字列をいっそうふりまく。気味の悪い「ことばのような顔をした何か」や「主張を装った抜け殻」がそばにいたとして、出口さえ見えれば正気でいられるかもしれない。だが、1年近く経ったいまも明るい兆しはない。そうこうするうちに僕の心は確実に追い込まれていき、いつしかことばが足りず窒息する妄想に囚われるようになった。「いや、もっとちゃんと言うと、」やっと僕にも「何かを書かなければならない、何かを文字にしなければならない、何かを表現しなければ自分が保てないという切迫した感情」が芽を出したのだ。ひょっとすると、あの消化できない尖った異物は、その種だったのかもしれない。ようやく出てきた芽を枯らさず育てていくための、「書く」ための場が欲しかった。この場であれば、脊髄反射で場当たり的に繰り出す「ことばのような顔をした何か」でも「主張を装った抜け殻」でもなく、惑い、悩み、ためらって、自分が表現したいと思うかたちへの漸近線としてのことばを、時間をかけて削り出せるだろうか。

***

こんなどうにも情けない顛末で、ようやっと筆を執っている(もちろん、キーボードを叩いている)。
けれども未だに僕の肩になれなれしく腕をかけながら、例の狐疑というやつが分別くさい顔で居座り、耳元で囁く。

「そもそもお前に語るべきことばなぞあるのか?わざわざ苦労してそんなことを考えるより、いまの方が楽じゃあないか。」

そう、これまではそうやって狐疑の誘い文句に乗りつづけ、考えることからも選ぶことからも逃げて来た。あげくの果ての、今の自分はどんな姿だろう。藝術を志すには理屈に頼り過ぎて野暮ったく、論理に徹するにはあまりにも感傷的な八方美人だ。この狐疑という悪友(アイゼンシュタイン)の言うがままに過ごして、ある朝突然、こうもりのようだと笑われるのも癪である。

ならば僕は、あいつの鼻を明かしてやろう。こうもりにだけ視えている世界を謳ってやろう。
長く一緒にいた分、狐疑というやつが、実は自分の常識/固定観念にしがみついている僕自身のとりつくろった顔に過ぎないことはわかっている。百の道理を並べ立てても思い込みだけで何も知りはしないし、学ぼうとも挑もうともすることなく悲観して見せるだけ。小野小町ならば“わが身世にふる ながめせし間”も歌になろうが、八方美人の嘆きなど想像するだに退屈だ。

ことばへの渇きをいやすために、飾りきれないこうもり姿でくり出そう。気乗りしない顔の狐疑も、どうせもうひとりの僕なのだから遠慮はいるまい。筆が遅くなったとて、「楽しみ方は人それぞれ!」だ。あのI君にも声をかけよう。いや、もしかしなくても彼なら先に一杯あおいでいるか。

 一緒に行こうぜ 晩餐会へ
 そいつはすぐ近くであるのさ
 お前が静かな牢屋の中で
 二日酔いを覚ますのはその後だ
 お前だって人生を楽しまなくちゃな
 陽気な兄弟分になろうぜ!......
 晩餐会が今宵 俺たちを招く
 こんな凄いのは今までにはないぜ
 可愛い女の子が 選び放題
 気ままに皆 そこで笑い歌う
 ラララ……
(J.シュトラウス作曲 K.ハフナー台本 喜歌劇『こうもり』第1幕/オペラ対訳プロジェクトより転載)

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