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『人魚姫の夏』



『人魚姫の夏』

女が駅で甘栗を売っていた。先週も見た顔だ。オレよりも少しばかり若いようだった。
「一袋下さい」
「ありがとうございます。500円になります。丁度ですね。ありがとうございました」
「次の週末の天気は良くないらしいね」
「台風来てるみたいですね」
「台風で天気が荒れても、君の笑顔は太陽のように眩しいよ。びっくりだね。栗だけに」
それを聞くと彼女は「グラッチェ」と言って笑ったのだった。(マロングラッセに掛けたのかしらん?)とオレは思ったが、「グラッチェ・アミーゴ」と言って店を離れた。次の客が待っていたから。

その翌日、台風の接近でどのサーフスポットもクローズしていた。波を諦めて帰ろうとしていると、汐見坂の堤防の上に座って一人波を眺めている女がオレの車から見えた。オレは車を出すのをやめて堤防に上がってみた。巨大な波の壁が生き物のように砂を巻き込みながら浜辺に近付いてきて打ち砕けては、砂浜を削って行く。ダンパー気味の波はダブルを軽く越えているし、スープも多すぎてこのジャンク波をパドルアウトしようなんて物好きなサーファーなどいない。しかし迫力のある波音が心にぶつかってくる感じは心地好かった。波を見ていると飽きない。
「良い波に乗れた時、良い人生の波にも乗れる」
それがオレの信条であり教条であり哲学であり宗教だった。まあ、早い話が若気の至り、あの頃はどうかしていた訳だ。他にやるべきことや為すべきことは山程あるはずだったしこのことは自分でも分かっていたのだが、毎日のように波乗りに明け暮れていた。
オレは波に聞いたものだった。
「オレはこの先一体どうすれば良いのか?」「何か今のうちにやっておくべきことはないのか?」「人生においてオレがなすべき使命みたいなものはないのか?」「いつまでも波乗りにかまけてばかりいても良いのか?」「オレの将来は大丈夫なのか?」
すると波は決まってこう言ったものだった。
「お前のような奴は難しいことを考えていてもダメだ。お前はもっとバカをやるべきだ。一生懸命バカをやるべきだ」
それでオレはバカみたいに波乗りばかりしてたって訳だ。

オレは車を降りて軽い傾斜を上り、女が座っている堤防の上に立った。いい眺めだが人はいつもよりもずっと少ない。オレは女に言った。
「いい天気ですね」
台風はまだ本州からかなり離れた南の海上にあり、雨は降っていない。空は曇天で悪い天気ではないが然程良い天気というわけでもない。太陽は厚い雲に覆われている。風は強い。
女はちらりとこちらを向いたのだが、また直ぐに海の方に視線を向けた。上の空だ。
「磁石に引き寄せられるように君の方に引き寄せられてしまったんだ。君の隣、空いてませんか?」
相変わらず相手は何も言わないので、オレは遠慮しながら女の近くに腰を下ろした。
「この近くに住んでるの?」
女は少し頷いた。白いブラウスに白いサンダル、水色の長めのスカート、麦わら帽子の下から見える肌は夏の日差しで小麦色に焼けていて、滑らかに黒く光る長い髪が風になびいている。
「もしかして君はこの近くの竜宮城に住んでいる人魚姫なんじゃないのかな?」
女は少し口許をほころばせた。
「君の素敵な笑顔に一杯おごらせてくれないかな?」
とオレは言った。
「私、15だから」
大人びて見えたけれど、女は意外と若かった。
「飲み物持ってくるよ」
オレは自分の車にあったラ・フランス風味の炭酸飲料を手に防波堤の上に戻って来たのだが、その時には女の姿はもうどこにもなかった。
「本当に彼女は人魚姫だったのだな」 とオレは思った。前日に甘栗をオレ一人で全部食べてしまったのは失敗だったのかもしれない。
波を眺めながらすっかりぬるくなってしまった炭酸飲料を一人飲み干し、砕け散る波のサウンドウォールを背中で感じながら、その日オレは海を後にした。

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