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『ナイーマ』

『ナイーマ』

メルクリウスは商売人や盗賊の守り神。子供の頃に読んだ神話の本にそう書いてあった。子供心に不思議に思ったものである。何故、神様が盗賊の味方なのかと。

そして何故かナイーマ。ジョン・コルトレーンの名曲。曲名は彼の前妻の名前。アンニュイな曲調。テナーサックスの絶妙過ぎる緩急の付いた奏法。聞くたび毎にいつも心潤されてしまう。濃密な夜を過ごした男女が迎えた朝の目覚めを思い浮かべてしまう。いつかどこかで見た古い映画のワンシーンを連想させる不思議な曲。
私は作曲の経緯も背景もまるで知らない。作られたのが結婚中なのか離婚後なのかも知らない。歌詞のない曲だけれども、言葉で語る以上に物語を感じてしまう。

都会の夜の公園の恋人達はどこか野獣のようで、それは田園地帯に建てられた道の駅や高速道路のサービスエリアの場所では見られない光景に思えた。都会には都会の、田舎には田舎の野獣がいて、こんな蒸せる夜にはどちらの野獣の喉がより渇いているのかが気になってしまう。
可愛らしい兎の絵の付いた蕎麦猪口、スカイツリー、隅田川に架かる桜橋、線香花火、ギターのコードはマイナーで、ビルの谷間には鹿も猿も猪もいるはずがない。

「もういいもーん。私はあなたのものではないし、あなたも私のものではないし、私はあなたを縛ったりしないし。だからもう、あなたの好きにして。私も誰か素敵な人を探すから、いいもーん」
「ねえ、真面目に話すから黙って聞いてくれる?」
「ん?何?」
「君は僕だけのものだよ。一生誰にも渡さない」
「本当?」
「愛してるよ」
「私も愛してるわ」
「愛してるよ。括弧笑い」
「ナッ!何その括弧笑いって?ムカつくー。もういいもーん」
いつも通りの下らない夜に、桜橋でスカイツリーを見上げ、線香花火が消え、そして静かにキスを交わす。
男は人生をしくじり続けて来たが、その女に愛されただけでもその男の人生はマシだった。それは紛れもない男の本心でもあった。その気持ちを女に伝えようと思ったが、男はやめた。その女は酔うと記憶を失う。酔ってしばしば「私のこと忘れないでね」と言い、聞いた男は切ない気持ちになるのだが、翌日には女は自分が何を言ったのかをすっかり忘れてしまっていた。
二人共に不惑を越えていた。女は言った。60歳になっても70歳になってもイチャイチャベタベタしていたいと。2人で入れたり出したりを繰り返し、80や90や100ではどうなのかと考えてみたり、霊感、UFO、幽霊、前世、病識の無さ、説得の努力の甲斐の無さだとか、そんな話をした。

そしてある日、アントワープの片隅にある公園の噴水のそばで、大人になったハイジ達が夜な夜な恋人同士の真似をしてキスを交わす。
そしてある日、ロッテンマイヤー達は田舎のコテージに終の住処を見付けて、そこで夜な夜な牛蛙の鳴き声を聞きながら、顰めっ面でブランデーの甘い香りに人生の憂いを溶かし込んでいく。

隅田川沿いのコンクリートブロックの上、穏やかな流れの川面に反射して映るスカイツリーと町のネオンと女の横顔の涼やかさ。
「夜景は大嫌いだ。星を隠すから」男は言った。
闇が暗ければ暗い程に星が明るく輝いて見えるように、人々の心が暗く汚れる程に原発の炎は益々明るく怪しく輝き出すのだった。
「君の様な素敵な女性に出会えたのだから、もう君で我慢しなければいけないのが自然な訳で」
「嬉しいけどなんか嘘臭さーい。どうせ男の人はお金さえあれば綺麗な女の人捕まえちゃうのよ」
「サーフィンしてた時も山に登ってた時も、それは何か偉大なものに近付く為の手段であって、それ自体を目的と感じたことはなかったよ。世の中の個々の現象は何か大きな目的を果たす為の手段と思ってた。でも何故か、女性と交わってる時は、それ自体を目的と感じられてしまう。女性との会話の一つ一つが目的だと思えてしまう。そんな気持ち、僕だけなのかな?君にはそんな気持ち、理解できる?」
「う〜ん?なんかややこしい。面倒臭いね。私が本当は女じゃなく男だったらどうするの?」
「君のママに相談するよ」

そして違う夜の違う場所で違う誰か。
男は言った。
「たくさんの綺麗な山に登ったけれど、君の胸の二つの膨らみの方が綺麗だ」「仏像が好きで色んな寺に見に行ったけど、どんな仏像よりも君のヌードの方が素敵だろうな」「苔の庭が好きで良く有名な日本庭園を見に出掛けるけど、君の股間に生えてる苔を見てる方が心が満たされそう」
女は固まったまま、何も言えなくなっていた。男は女の項に手を伸ばした。まだキスの仕方も知らない女だった。女はおざなりな抵抗を示したが、男は女の唇をあっさりと奪った。

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