「依存」とは不健全な「快楽」であり、苦しみだと勘違いしてしまうような感情に快感を抱いてしまっていることなのかもしれない
精神疾患の感覚からは解放されているけれど、憂鬱にはなる。
仕事は決まらないし、やりたことはみえないし、お金の心配もあるし、不安だらけなのだと思う。
母がお金をくれたり、おいしい果物を送ってくれたり、私のためになにかをしてくれたことを思い出して、せつなくて苦しくなる。
おなか、胃、胸のあたりが、ぐわ〰っとなって、頭に緊張がはしって、目頭が熱くなり、涙があふれてとまらなくなる。
もう自分のことを制御できない感覚。
このとき、きづいた。
脳から「なんか物質がでてる」ような感覚。
???なんか、脳からホルモンみたいななにかがでてる!?
それにきづくと、そのホルモン?みたいなものの分泌がとまり、ぐわ〰っと押し寄せてきた感情というか、情動みたいなものがすーっとおさまった。
このところ、なんとなく猫さんの具合がよくないような気がしていた。
なんとなく、毛並みがよくなくって、なんとなく、だるそう。
心配で気になって、不安になる。
口の裏に炎症をみつけた。
オロオロしてしまい、家のなかをウロウロしてしまう。病院に連れて行ったほうがいいのか。この炎天下の中、20分歩く方がストレスになってしまうのではないのか。どうすればいいのか。
おなか、胃、胸のあたりが、ぐわ〰っとなって、頭に緊張がはしって、じっとしていられない。いてもたってもいられなくなる。
猫さんをキャリーバックにいれて、動物病院の営業をインターネットで確認し、病院まで連れて行った。
幸い、曇り空になり、風もふいてくれて、炎天下ではなかった。歩いていてうっすら汗をかくくらい。
病院につくと15時過ぎ。ちょうど休み時間だった。。。
ここで、我にかえる。
パニックになっていたことにきづく。自分を制御できていなかったことにきづく。
少し冷静になった状態でとりあえず家に帰る。
猫さんは食欲旺盛で、帰宅後すぐご飯をたべ、水を飲んで、お気に入りの場所で熟睡してくれた。しばらく熟睡している感じがしなかったので、外に出たことがいい刺激になったのか、熟睡している状態で起こして病院に連れていくという選択肢はなしので、その日はもう病院にいかなかった。
翌日、炎症はなくなっていた。
私は、自分自身のことを制御できなくなるとき、脳内で何かが分泌されている感覚に気付いた。
これ、「依存」なのではないのか。
親と絶縁して、自由になった人たちのブログやら漫画を読んでいて、私と決定的に違うことがある。
それは「親と離れて悲しくて苦しい」ということが私よりもだいぶ軽い状態なのだということ。
たぶん、親との問題で、「依存気質」が強くなってしまっている人は、親と離れる決断がとても難しいのだと思う。
パートナーに恵まれて親から離れることができた。という人は、もしかしたら、パートナーに依存先を変えているのかもしれない。
親から離れたあとのことがあまりかかれていないので、そこのところはよくわからない。
いずれにせよ、私が苦しんでいるものは「自らの依存気質」であり、脳からなんか分泌されていることで依存状態になっているということなのかもしれない。と思った。
自分の声がだいぶ聞こえるようになったと思う。
自分の心に蓋をすることをしなくなったと思う。
アドラー心理学と心療内科の先生とカウンセラーの方に再教育していただけたと思う。
いい、悪いということがないということが身にしみて、自分にダメ出しをすることから解放されて、気が付くと、自分にとてもやさしい言葉をかけている。
ここまで自分を成長させることができて、はじめて、自分の依存に気付けたと思う。
心に蓋をすることを解放し、自分の声が聞こえるようになってから、ヨガが上手になった気がする。
ヨガでは「自分が痛いことはやらない」ということをいつも言われているのに、自分の声が聞こえないと、痛いことをやってしまう。
痛いことをやってしまうと、緊張してしまうので、ヨガの効果が得られない。
それは、「できない自分を受け入れられない」から。
「できない自分を受け入れる」と、いたたたた。とおもうと、やめる。
あーなんかしんどいな。とおもったら、途中でやめる。
そして、無理をしないから、長続きする。
最近は、ずっと感じられなかった「チャクラ」がなんとなく感じられるようになってきて、身体の中心をエネルギーが流れている感じがして、頭がパカーっと開いている感じがする。
眉間、額のあたりがずーっとうずうずしていて、かゆくてかゆくてかいてしまうことが続いていて、最近、このあたりにあると言われているサードアイがひらいているような気がする。
これまで、不安で、自分の人生を信じられなくて、信じるために、チャクラを感じないといけない。エネルギーを感じないといけない。グラウンディングしないといけない。サードアイを開けないといけない。頭の上を開かないといけない。
そういう恐怖感から、ヨガや瞑想をやっていたけど、全く何も感じられなかった。
ヨガ、瞑想をやっていて、効果が感じられない。というときは、まず、自分の心のモヤモヤを解放する。自分と向き合うことを先にする必要があるような気がする。
たぶん、感謝とかと同じもので、「やろうとしてできること」ではなく、「いつのまにか自然にできていること」で、やろうとする強いコントロールが外すことが大事なのかもしれない。これは難しいな。と思う。言葉で言っても伝わらないかな。。。と思う。
この、祈りのチャクラワークをしばらく続けていたら、えー、それアタリマエだよねー?ってことに気付くようになってきた。
たとえば、就職活動で、職歴とかでマッチングしても、いい職場に就けることない。ってこと。
私は採用をしていたこともあったけれど、その時はアタマデッカチンだったから、職歴ばかり気にしていた。この経験がないと勤まらない。と。
でも、どういう人物像が職場にあっているのか。
その方が何倍も大切だってことに、やっと気付けた。
前の職場は、「ガツガツ営業して、数字をどんどんあげていきたい!」という上昇志向の強い人はあわない職場だった。でも社長はそういうガツガツした人を採用したいとおもうことがときどき垣間見れた。そして、ガツガツした人たちは会社に台風をおこし、暴れるだけ暴れて、早々に会社を去っていく。
結局、私は、会社、職場と向き合っていなかったのだと思った。
それは、私が物事をコントロールしたいという恐れが強い人間であったことが一番の問題なのだと思う。
恐怖、不安が強く、コントロールしたいという願望が強ければ強いほど、制御できない状態を招く。
なぜならば、そもそも人間関係において制御できることなんてないのだから。
だから、制御する必要がない状態をつくることが肝要なのだと思う。
それって、最初に、「向き合うこと」をしないと、何もわからない。
なんていう、アタリマエのことジャマイカ。そんなことをわかっていないでよく仕事していましたね。幼稚ですね。あなたは。ぷぷぷ。と思ってしまうような、アタリマエのことを私は全く理解しておらず、このチャクラワークをしていると、アタリマエのことがおりてくる?というか、なんというか、気付くというか。
そして、私の「依存気質」
私が依存している状態ってどういうことか考えてみた。
心のよりどころになるものに、固執、執着していると思った。
「それ」がないと、できないと、自分を制御不能な状態に陥る。
「母」「猫」
以前は「食べ物」「お金(散財すること)」
私の脳に強烈ななにかを分泌させるもの。
私は「快楽」を感じていたのだとおもった。
調べてみると、脳内からは「ドーパミン」が大量に分泌されていたのだと思う。
そして、「いじめ」「暴力」「暴言」などは大量にドーパミンを分泌し、食欲、性欲より「快感」を感じるのだという。
「母」に関しては、母から「飴とムチ」でマインドコントロールされていたので、DV夫(私の場合はモラハラ)と同様の、不健康な「快楽」があったのだと思う。
私の母は、なにかを服従させたときに、「快楽」を感じていたのだと思う。だから、マインドコントロールに巧みなのだと思う。そして、父に、私に暴言を吐くことで「快楽」を感じていたのだと思う。
私は、自傷行為をするタイプなので、自分が価値のない人間で、その価値のない人間がなにか力になれる、生きているという感覚をえたときに「快楽」を感じていたのだと思う。
だから、「母」が私にやさしくしてくれたときにドーパミンがドバドバでて、「快楽」を感じていて、それが依存となり、離れられなかった。極端であればあるほどドーパミンがドバドバでるから、ひどいことを言われれば言われるほど、そのあとの「飴」が快感なのだとおもう。
こわい。
「快楽」といっても、爽快なものではない。むしろ、苦しい。
苦しいことが、気持ちよかったのだと思う。笑
こわい。
依存とは快楽、もっともっとと貪る
依存の世界とは
執着、欲しがる、制限、窮屈、圧迫、萎縮、不自由、身動きがとれない、飽くことなく欲しがる、足るを知らない
ドーパミンの受容体はどんどん鈍感になっていくから、もっともっと強い刺激が欲しくなる。
ストーカーも、嫌がらせも、「快楽」におぼれているのだと思った。
もっともっととその「快楽」を貪るから行動はどんどんエスカレートしていく。
でも、その「快楽」は一見「苦しみ」のように感じられるので、自分の「快楽」だとは認識しずらい。
要は、不健全な「快楽」を求めないようにすればいいのだ。
アルコール依存とか、いろんな中毒がなかなか治らないのは、結局、自分自身と向き合うことを知らないのかもしれないと思う。
私は自分自身と向き合って、いま、やっと、この脳内に分泌されている変な感覚に気付けた。
この感覚が依存性が高いもので、これのせいで、すぐ同じ場所に引き戻されるということもよくわかった。感覚的に。
難しいのは「感覚的」だということだと思う。
頭でわかっても、アタマデッカチンは「感覚」がニブチンなので、どうしようもない。
依存は、受容体が正常になるまで物理的に離れたりすればそのものに依存はしなくなるので、それと同時に自分の愛着障害と向き合ったり、自分の「感覚」を取り戻すことに注力する必要があるような気がする。
たぶん、この脳内ドバドバドーパミンがでている感覚がわかると、何とも言えない気持ち悪さがあり、それと同時にこれに快感を感じていた不健康さがとてつもない違和感で、なんじゃこりゃ!いらねぇ!と思える。
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