私が私の世界を変えるんだ。たとえそれが自分の憎む相手を幸せにする結果になろうとも。
私はずっと自分を変えたいと思っていた。
人は変えることができないのだから、自らが変わらないといけないのだ。という情報はずっと持っていた。
自分が変わろうという決心をしているつもりだった。
私は変わる決心をしています!と公言し、だから、だれか助けて。と言っていた。
これって変わりたいと思っているけれど、変われないわたしってかわいそうアピールだったのだということを知った。
その方法しか知らなかったのだから仕方ないと思う。
これがずっとわからなかったのだと思う。自分でこのことがわかるまで、見抜いてくれる人とは出会えないのだということも知った。
私の母親はいつだって娘のことを最優先に考えて、娘のためならば命すら投げ出せるといつも公言し、周囲の人間からはこんなに愛情深い母親はいないといわれてきた。なので、周りの大人もそういうのだから、私の母親ほど愛情深い人はいないのであろうと思ってきた。
問題は私の母親の愛情は「健全な愛ではない」ものがとても深く、母の周りには類友の大人で「健全な愛を知らない人」たちが集まっていたということ。
そして、自分の親が愚かな、健全な愛をしらない親なのだということを知っても、それでも親に理解してほしいと願ってしまう愚かな娘。
親がどんなに愚かであっても、娘のことが好きならば、娘が苦しんでいる姿を目の当たりにしたら、変わろうとしてくれるのではないかと期待してしまう。
その期待をいつまでも捨てきれない。
私の母親は娘がどんなに苦しんでも平気であるという事実に気付く時まで。
毒親は、娘が苦しんでいても心を痛めることはない。心を痛めている風。心を痛めている私っていい母親という自己陶酔があるだけ。
「健全な愛」を知らないということはそういうことなのだから、仕方ない。
いつまでもそのことに気付かない愚かな娘は、自分を傷つきつづけ、親にこんなに苦しい自分をアピールする。
そして、自分でも気づくことなく、ひそかに恨むようになる。復讐心を気付かずに抱くようになる。
私が自らを変えるということは、私が変わることで風通しのよい関係をうんでしまうということ。私が変わることで母親も幸せになってしまうかもしれない。
そんなことしてたまるか。
そもそも母親が対処すべき苦しみをどうして娘の私が率先して取り組むのか。産んだ責任を全うして、娘がここまで苦しんでいるのだから、母親であるあなたが苦しみを直視して対処するべきでしょう!という怒り。
そこにはいつまでも母親に対する期待がある。
父親が多少まともであれば、結婚相手や交際相手に救われることもあるらしい。
けれど、私の場合は父親もなかなかの異常者で、父方、母方の親戚みな一同そろってヒステリックで頭のおかしいひとたちが勢ぞろい。社会の父、母に救われたことはなんどもあったけど、血のつながりのある人たちの話にはいつでも根底に「怒り」「恨み」「自己憐憫」がこびりついていた。
私が本当に変わることを覚悟できたのは、「親、親戚と自分は本当に関係ない」と、自分自身を育てなおそうと決心したことと、「父親、母親は私のことを理解する能力はないのだ」という事実を直視できたときなのだと思う。
私の父親も母親もものすごく愚かでどうしようもない。現実を直視する能力もなければ、いつまでも自分ばかりが被害者面の厚顔で、口先ばかり。愛しているという娘が何か発言しても、話の途中で大声で威圧し話を遮り、最後まで聞くことすらできない。
そんな親なのだという現実を、ただ、そのまま受け止める。
そして、そんな親と自分自身はまったく関係ないのだ。私自身が彼らの影響を克服した時点で、克服しようと決心した時点で、親からの影響は一切ないのだということを知る。
そして、自分の父親、母親は、愛する娘であろうと、自分以外の人の考えというものがあるということすら知らないどうしようもないほど愚かな人間であるという残念すぎて、悲しすぎる到底受け入れ難い事実を正面から受け止める。
これがなかなか難しかった。
この2つを受け入れられたころから、父親は私なのだということがわかった。母親は私なのだという感覚があった。
嫌だとか拒絶反応もなく、親戚の教え自体が呪いとして私の身体に沁みついていることを受け入れられた。
きっと、自分自身に沁みついてしまったものを自分自身で克服できるという自信がついたから受け入れられたのだと思う。
そして、念頭に父親、母親のことがなくなり、「父親も母親も私の人生には関係ない」となったことで、恨みや復讐心が消え、自分自身を変えていこうという決心ができたのだと思う。
そこではじめて「誰か助けて」という考えが浮かばなくなった。
これも私にとって理解する、知るまでとても時間を有した考えだったけど、
「まずは自分で自分を変えるということを知る。自分が変わる方法を模索し、自分自身の骨身に沁みいる克服できる考え方を探す。勉強する。」
自分自身で会得すると覚悟を決めず、だれか助けて。だれか導いて。とピーチクパーチクわめいているうちは、人はこうすればいいんですよ。と教えてくれていても、耳に入ってこない。
自分が自身で変わるのだ!と覚悟を決めると本当に不思議なことに援助の手が差し伸べられる。
「私が私の世界を変えるんだ。たとえそれが自分の憎む相手を幸せにする結果になろうとも。」
それを受け入れることができるのが自分変容の最初の一歩なのかもしれない。と思った。
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