「回復」からの「忘却」というご褒美
精神疾患を含む病気というものすべて、回復後にはその苦しみの忘去というギフトがついてくると思った。
私は昨年の1月末退職以降、いきなり身体が重すぎてベッドで身動きひとつとれないという状況に陥り、なんか、たくさんもがき苦しんだ。
あれは統合失調症というやつなのかもしれない。
幼馴染と会った時の帰り際、責められるような言葉を言われたと感じ、苦しくなってベッドに横たわると、ごぉぉぉぉぉおおおぉぉぉぉ〰というようなうなりの音を伴った怨念みたいなものに1か月くらいおそわれたりもした。
とにかくほぼ毎日生きているだけで苦しかった。「怨念」とか「怨霊」みたいなものにいつも狙われているような感じがあり、YouTubeで「怨霊退散」みたいのをずーっと何か月も聞き流しとかしていた。
苦しみから解放されたくて、自分の心に耳を傾けるとか、自分を大切にするとか、いろんなことを吸収しようと本を読んだり、YouTubeをみたり、セミナーを拝聴したり、スピにお金払ったりした。
何をすれば解放されるのかわからず、まさに暗中模索の中、手探りで何かしら取り組んでないと不安に負けてしまいそうだった。
そのうち、「怨霊」に襲われることはなくなり、代わりにいろんな違和感に気付くようになってきた。
母親から連絡がきて、母親にとっては何気ない日常の一言に、私は違和感に気付くようになり、過呼吸に陥り、怒りを感じることのできない私は全身痛(とくに首と背中に激痛)に襲われ、とにかくただ、ひたすら苦しい。
たとえば、私の愛猫ちゃんが嘔吐に失敗し、痙攣をおこし、呼吸がとまって、死んでしまった!と急いで病院に行ったら、ケロッと治ってしまった。でも、本当に怖かった。というラインを母親にしたとき、
母親「あんたが家にいるから猫ちゃんはストレスなんだね。猫ちゃんも気を使って大変だね。」と返信がきた。
これまでは、母親がいうことすべて正しいと盲目がすごい状態だったので、こういうことを言われても、私が悪いんだよね、と思っていた。
それが私の異常なところであった。
こういうこという母親と私の関係って異常だと、気付いた。
私が愛する猫ちゃんが死にそうでパニックになった。苦しかった。時に、猫ちゃんが苦しんでいる原因はお前だけどな。っていうのって、
ほんとにひどいじゃん!
私のことを大切に思っているのだとしたら、まず、大事なのは、私の心でしょう。
あなたは大丈夫?命が助かって何よりだけど、怖かったよね。
でしょう。
もしも、猫さんにストレスを与えてしまっているのでは?と思うのだったら、
もしかしたら、猫ちゃんは生活が変わって一人きりの時間が必要とかもあるのかな?だとしたら、うち(実家)に時々遊びにきて猫ちゃんを一人にする時間をつくってあげたらどう?
とかでしょーが。
まぁ、こういうことに気付かず、45年間、ずっと何かトラブルが起きると「私が悪い」と私が考えてしまうような言い方をされていた。
ことに気付き始めると、苦しくて、過呼吸が起きて、云々。。。。。
ほかにもたくさんあるけど、脳が動かない。。。やっべぇ。って本当に頭が働かない状態になったときの恐怖とか、いつ暗闇から抜けることができるのだろうと思っていた。
それでも、焦ることはダメ!とやりたくないことはやらない!の2つだけは頑張った。(いまでもあまり上手ではなくて、ついついやってしまいそうになるけど、やらない。と決めている。)
徐々に気付くことも増えてきて、怒り、悲しみという感情がわかるようになってきて、でも、その感情がわかり始めると過去、蓋をしてきたことの記憶に感情が伴い、ひとつひとつ、大泣きしながら、ひたすら、じっと自分が受け止めるはずだった怒りと悲しみを受け止め続けた。
怒り、悲しみの感情があふれてとまらないとき、どうすればいいのかわからない。
そんなとき、Aimerの「六等星の夜」という歌に出会えた。
ー傷ついたときはそっと包み込んでくれたらうれしい
ー転んで立てないときは少しの勇気をください
ー眠れないときはそっと手をつないでくれたらうれしい
ー夜明けはくるよと囁いて嘘でもいいから
すごい泣いた。(いまでもすこしウルっときてしまう)
以降、これを自分でやっている。傷ついたら、自分自身をやさしく包み込むイメージ。勇気ってなんだ?とアドラー心理学の「勇気づけ」にたどりついて勉強した。
そんな中、いつものごとく精神疾患の本をむさぼり読んでいたら(すこしでも嫌だとおもったら読まない)母親、私のことを客観的に診断できるような思考が落ちてきて、それは、実は自分は気付いていた、知っていたけれど、見て見ぬふりをしていたと自分でわかったことだった。
それがまた苦しくて、数日寝込んだあと、ふと、いきなり、サウナに入ろうと思った。(私はサウナ、水風呂でキマることが大好きで、コロナ禍になってからは足が遠のいていた)
運よくサウナには誰もおらず、一人でサウナ+水風呂をくりかえしていたら、キマった。笑
それから数日、アドラー心理学の「勇気づけ」を勉強しているうちに、いかに自分が自分に「勇気くじき」をしていたか。(他人に対しても)あぁ、これがいわゆる「ダメ出し」ってやつか。と自分でわかっていなかった新しい知識を手に入れたことで、自分ダメ出しから解放されたのか、
「あ、そろそろ精神疾患から解放されるな」と思った。
自分の記録をみると
「自分で自分をこの場所から救っていく時だとおもった」そうだ。
それがだいたい1か月前。
この1か月、毎日元気いっぱいで、うきうきわくわくぃやっほぉ〰!で過ごしているわけではない。
でも、「苦しい」と思うようなことはない。
母親に連絡を控えてもらうようお願いしている中で、私を引き戻すような私に絶縁をつきつけている姉を巻き込むような嵐が吹き荒れたこともあった。
動揺はしたけど、ベッドに寝込んで数日動けないなんていうことはもうなかった。
そして、1年半苦しかった記憶がほぼなくなっている。と感じるようになっている。
これがきっと、治ってきた。ということなのかな。と思った。
回復したあとのご褒美、苦しみの忘却が私におとずれてきてくれたのだと思った。
ついこないだまでは忘れることすらできないほど、苦しみが日常だった。
いまは「苦しかったなー」という言葉レベルの記憶はあるだけ。感覚は思い出せない。
私はいま就職活動中で、45歳という年齢で、なかなか再就職は難しいのだと思う。ときどき、心が疲れる。
そういうことにも気付けるようになった。
無理せず、あぁ、心が疲れてるな。と、横になり、般若心経を聞くなり、胸をさすって腹式呼吸するなり、ヨガをするなり、ぼけ〰っとヨギボーにのっかり猫ちゃんのにおいを堪能するなり、アニメをみるなり、BTSを聞くなり、すこし散歩するなり、涙を流すなり、「無理していることに気付いた後のリリース」ができるようになってきた。(いわゆるストレス解消というやつか)
以前
「すべてを失っても構わない。わたしはわたしの心のおもむくままに」という呪文をnoteで紹介したことがあったけれど、この言葉の意味がわかった瞬間があった。
イメージとしては、「私」という個体(光のような感じ)があり、みんなそれぞれ自由な個体(光)であり、お互い執着することなく、それぞれが自由な個体(光)として存在しているのだ。という感じ。
私はこれまで、「執着」していたのだと思った。「執着」しているから、「すべてを失う」という思想がでてくるのだと。
そもそも、「何も所有なんてしていない」のだとわかった。
だから、「すでにすべてを失っている状態」なのである。
すべては自由な個体(光)で、自由意志のもと、愛猫ちゃんは私のそばにいてくれているのだ。
すべては自由な個体(光)なのだから、自由意志で離れたかったら離れればいいのだ。
これが感覚としてふと落ちてきた。
そして、「就職できないのでは」と焦る私の中に存在する「エゴ(なのかな)」の言葉にいつも翻弄されて、痛い目をみてきたことがわかった。
結局、いま、いろいろうまくいかないのは、これまでのやり方を変えないといけませんよ。というシグナルなのだ。
だから、「エゴ(なのかな)」が私の中にあることをちゃんと認めて、ふんふん。と話を聞いて、「でもさー、エゴ(なのかな)さんの言うとおりに焦ってやりたくないことやったら、また同じことが起きんじゃねーの?」って思ってみる。
まだ、いまはエゴ(なのかな)さんとのどうどうめぐり。笑
就職決まってないのでね。
エゴ(なのかな)さんは私が自分の生存戦略として身に着けてきた自分を守る術なので、いたわろうと思う。そして、私が知らなかった、私を傷つけることなく、楽しく、ラクに心地よく生きる方法を模索し、エゴ(なのかな)さんとのバランスをとりながら進んでいこうかな。と思っている。
少し前までは辛くて履歴書もかけなかったし、職務経歴書もかけなかったし、ほんとうに何もできなかった。嫌なことはしないとも決めていたし。
でも、「回復」すると、苦しみを忘れるから、結構できるようになる。(無理やりはしない)
この「回復」からの「忘却」が上達したら人生苦しみから解放されるのではないかな。と思ったりした。
無職ながら妥協したら負けだ!焦ったら負けだ!と穏やかに闘っております。おもしろかったらサポートおねがいします。