見出し画像

変化を恐れることはもう傷つきたくないんだよという叫び

PCが壊れた。

いきなり、青画面しか表示されなくなり、いろんな方法を試しても再起動後の青画面の繰り返しなのであきらめて初期化した。

初期化するということは、音楽も転職用の履歴書も職務経歴書も写真も有料で購入した勉強用動画再生用のパスとPWもコーチングでうけたデータ資料その他もろもろすべて失う。ということ。(バックアップなんてもちろんとってない笑)

んだけど、昔から執着が薄い性分で、ものをなくしたり、壊したり、壊されたり、壊れたりしても、起きたことはしょうがないので、あまり気に病まない。

とても大切にしていたものが割れてしまったりしたときは悲しむけど、思いっきり悲しんだあと、思い返してひきづることはない。

私は生きていて、大きな転換期を迎えるときによくこういう現象が起きる。

大切にしていた財布がなくなったり、携帯がなくなったり、紛失したあとは物事が解決したあと不思議と手元にもどる。(iPhoneなんかは画面がわれて砂まみれになってバッテリーがきれた状態で警察から連絡がきた。笑 充電したらデータが復旧したのは幸運だったと思う。)

なんとなく、深刻にならずに、私はなにかに執着してしまっているのかもしれない。くらいに思いをよせて、それを手放すことを自分が望んだのだろう。と思う。

今回は勉強用動画再生のパスとPWを失ってしまったことが一番ネックと思われた。

毎日その動画を再生して、自分の骨身に沁みるまでとものすごい回数を再生していたので、それはもう必要ないから、次のステップに進めばよろしというサインだったのかな。と思っている。

(というか、数万もするものなので再度購入しようとは思わない。)

心理学とか哲学とかスピリチュアルとか生き方とかその系列の動画なのだけれど、やはり、そのものから離れたら大きな転換が訪れたような気がする。

7つの習慣を読んでいたのだけれど、私はまだときどき自分は神経症なのではないかと思うような症状が訪れていて、7つの習慣は神経症の症状に悩んでいる人には眩しすぎるのである。

そんな風に思っていたところ、ふと「アドラー心理学」のことを思い出した。

「嫌われる勇気」は初版発売のときに何気なく手に取って通読した。

いまから7,8年前ほどだったと思う。仕事のセミナーの往路で、早く着いたので近くの本屋に立ち寄っていたところ、なんとなく目についた本で、セミナーが終わったあと、やっぱり気になるので購入した。

その時の記憶は「なにをきれいごとを言っているのだろう。当たり前のことすぎて響かない。」

当時は、自分が未熟で理解できないなんてそんな謙虚さはなかったので、自分には響かない、私が興味のない本なのだと思った。

数年後出版された「幸せになる勇気」に至っては読んだ気もするし、読んでない気もする。くらい記憶にない。

なので、アドラー心理学とはいかなるものかを原書で読んでみようと図書館へ向かった。

岸見一郎氏が訳している本がほとんどで、使用している言葉は難しいものではないけれど、とことんわからない。笑

ただ文字を追っているだけで「わからない」

次に岸見一郎氏がアドラー心理学について語っている本を読んでみた。

そして、以前通読した「嫌われる勇気」は当時私が未熟すぎて、理解できるところまで自らが達していなかっただけではないのか。準備が整っていなかっただけではないのか。という考えが浮かんだ。

私は「読む」よりも「聴く」ほうがより吸収できる性質を持っているので、amazon audibleで「嫌われる勇気」を購入できることを知り、聴いてみた。

衝撃だった。

7,8年前の私はこの内容を読んで、何も感じず、不要な本としてすぐ手放していたのか。と愕然とした。

そして、猛烈に

「もう傷つきたくない!」

という叫びが私自身から聞こえた。

なんとなく、傷つきすぎてしまったなぁ。とは思っていた。被害者ぶるのではなく、実際、本当に、私の心はボロボロだった。客観的にみても、私はひどい目にあっていると思う。それは、29歳のときに憧れの職業に就くために必要と思い就職した職場で上司から猛烈な人格否定を受けた時から始まったと思う。

私は半年後に憧れの職場に転職することができ、猛烈な人格否定は半年で終わることができたのだけれど、入社後1か月で私の頭は白髪だらけになった。その後全体的に黒髪が復活してきたけれど、左頭部は変わらず白髪が生え続けた。

壮絶だった。私が出社することを上司は待ちわびていて、ときには終日私の真横に立ち続け、電話の内容を聞き続け、私の敬語のどこがおかしかったかをすべてメモし、電話が終わったあと、私がいかにダメな人間であるか、社会で通用しない人間であるかを数時間説教し続けた。お客様の前で怒鳴られることも何回もあった。

私は友達に「わたしのいいところって何?」とメールして聞いていた。私は生きている価値もないし、仕事もできないし、ダメな人間なのかもしれない。とくじけそうになることの連続だった。それでも、念願の憧れの企業で働きたいと強く思っていたことだけが私の一縷の望みだった。

その当時の記憶がバババッ!ズバババババッ!と鮮明によみがえり、号泣した。

もう、あんな毎日はいやだ。恐怖が襲い掛かる。これ以上傷つくことはできない。もう、いやだ。こわい。

あぁ、そうなのか。私はもうこれ以上傷つくことはできない。そう思っているのだな。と、自分が「勇気づけ」を必要としていることに気付いた。

私がこれまで疑問に思っていたことに対する哲人の答えが数多くちりばめており、一通り拝聴したあとはとてもすがすがしい気分になっていた。すべてを鵜呑みにするのではなく、自分なりの見解で反論したいとおもうところもあった。ちゃんと、かみ砕いて、受け止められているな。と思った。

そして、何気に目を閉じて自身を見つめなおしていると、そこには「何もない」があった。無価値、むなしさ、無力といった悲壮感を漂うものはなにもなく、広大な何もない無色透明の空間。そこには新しい考えがたくさん入るスペースがあって、でも、新しい考えもすべて通り抜けてどこかに消えてしまうのだろうな。という感覚。

なんどでもなんどでも聴き入ろうと思う。



無職ながら妥協したら負けだ!焦ったら負けだ!と穏やかに闘っております。おもしろかったらサポートおねがいします。