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【少年野球】「かりそめの清々しさ」が問題点をチャラにしてしまう

 夏がやってくる。
 球児たちの暑い夏も始まる。
 夏が「青春」と結びつくのは、照りつける太陽と抜けるような青空、そして期間限定の暑さが人々を「今この瞬間」に集中させ、思考停止状態に追い込むからだ。涼しくなってふと振り返ってようやく感情が動く。「ああ、夢中で良い時間を過ごしたな」と。

 少年野球(学童野球)はこの構図に非常によく似ている。
 親も子も期間限定の「少年野球」という活動に夢中で取り組むから、卒団の際に小さかったわが子が初めてユニフォームを着た日をようやくしみじみ振り返り、「ああ、夢中で良い時間を過ごしたな」と清々しい気持ちになる。
 
 それはそれで素晴らしいことだ。しかし、そうしたかりそめの清々しさが少年野球(学童野球)の改革の妨げになっているのも事実だ。

 卒団していく親子は最終的に「理不尽な経験も含めて良い経験だった。良い時間を過ごした。」と指導者たちに感謝して何も言わずに去ってしまうからだ。

  こうしたかりそめの清々しさは、結局指導者たちに都合良く利用される。 
 「不満そうだった親子も最終的には感謝しているではないか」「目に涙を浮かべて「お世話になりました」と頭を下げているではないか」と自信を深める。子どもたちの一時的な犠牲もまた青春の1ページであり、振り返ればそれも含めて「良い経験だった」と言わせることができているではないかと指導者たちは本気で考えてしまうのだ。指導者たちに「変わらなくて良い」口実を与えてしまっているのだ。

 結局、少年野球の現状を内部から変えることは非常に難しい。
情熱を持って変えようとする人がどこにもいないのだから。
 
本気で変えたいと願う人は一体どこにいるのかと考えると、野球人口の減少が直接収入に結びつくような職業の人か、それとも本当に野球を愛している野球ファンか。

 では、私がここでこれほど熱心に「少年野球の問題点」を訴える理由は何かと言えば、非常に個人的な正義感にすぎない。
 私のような個人的な正義感は何の力も持たない。何の力も持たないが、それでも何もしないよりマシだと信じている。同じように考える人が同じように発信してくれることをただ祈るだけだ。

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 
 

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