発達障害×定型コラムに違和感を感じる(個人の主観)

最近、発達障害への理解を求めるコラムやニュースが多く流れるようになった。

多様性を認めることは大事なことだ。
ただ、多くの発信は偏っていて、鵜呑みにする必要はないし、鵜呑みにしなくていいんだよ、あなたが許せないとしても無理に許す必要なんかないんだよ、とカサンドラ症候群サバイバーの「私は」言いたいな、と思った。

たとえば、配偶者が発達障害、自分が定型の夫婦のコラム。

彼らは「発達障害と上手くやっている理想の形の1つ」ではあるが、手本として目指すべき姿なんだろうか?
その話を深く読み込むと、違和感に気付く。

1 発達障害者→定型への興味関心の度合いが違う

あれ?この人の奥さんは、家事はできないしゲームばっかりだけど、旦那の心の機微にサッと気付いて話を聞いてくれるんだ。
私のパートナーはこんな風に、私の顔色やちょっとした態度で何かを察知する能力はなかったし、あまつさえ都合よく無視されていたけれど。
相手が私を粗末に扱うのさえ、定型のキャパでセルフフォローはするのは無理がある。

2 発達障害者の中にもグラデーションがある

Aさん夫妻の旦那さんは、寡黙な職人肌。
Bさん夫妻の旦那さんは、底抜けに明るい起業家。
どちらも発達障害者だけど、特性は違う。

成功例の1つかもしれない。でもうちには当てはまらない。

3 結局は障害とか関係なく、相性だし、相性って日々変化する

Aさんみたいな男性に魅力を感じるか、Bさんに魅力を感じるか、は人によって様々なのだから、パートナーの感じる課題感だって変わってくる。
定型同士のカップルだって、結婚式準備、新婚旅行、妊活、出産、多くのステージで相手の嫌なところに気付くものなのに、相手は発達障害だから定型だけが努力して一生受容しろと言われているように感じてしまった。

4 定型の苦しみには寄り添ってもらえない疎外感

もちろんそんなつもりはないんだろうけど、突っぱねられたという意味で発達障害者は被害者、受け入れない定型が加害者として描かれているのがつらい。

5 結局「イヤな所」と折り合いをつけるのは誰?

これは発達障害者側もカチンと来てる人、いるんじゃなかろうか。

別れたくないから定型が努力した。イヤな所にしか目を向けてないと定型が反省したので、良いところがたくさんある発達障害者を定型が受け入れた。
まるで「発達障害者はバカだから俺達がどうにかしてやったんだよ」と言わんばかりに、定型の努力ばかり取り沙汰されていることがある。
私はある発達障害者に振り回され、カサンドラに陥り、婚約解消して離れた。
でもそれは多くのコラム同様、たった一人の事例でしかない。
発達障害者本人の中には、生まれた頃から周囲との違いを指摘され、時には人が離れていく孤独を感じながら、その人なりの努力や歩み寄りを処世術として身につけた人も多いのではなかろうか。
自分だけはブカブカの長靴で、他の人はサイズピッタリのスニーカーで、同じ100メートルを競走しろと言われているような世界で何とか生きているのを、定型から急に障害者扱いされるのって、違和感ない?


最後に

「私は」こういう背景でこう思ったので、こう書きました。
それはコラムニストも私も変わらない。

ただ、読んだ側として、何もかも受け入れない自分が悪いとは思わないでほしい。
それはこのnoteも同様なので、バル子がこんなこと書いたから発達障害が悪いとも思わないでほしい。

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