最高の結婚スピーチ  

【概要】 
バルドー姉さんの実話に基づいたエッセイです。 余りにも面白いネタを、我が両親から頂いたので腕まくりして書いてみました。 
サプライズ!
こんな生々しい結婚スピーチ、世界中探しても多分無いかもー?!
バック転3回覚悟してね!


享年95歳、主人はクシャミで息を引き取った。
大往生だった。
自宅にある8畳間の寝室で1週間だけ寝たきりになったが脳は極めてハッキリしていた。
床に就いても私の将来を案じ、穏やかな瞳を向け、「生まれ変わったらお前を一番に探しに行くからな」と、ロマンチックに囁いてくれた。
二人で肩を並べ、我が家の窓から眺めた神戸の花火大会が終わって16日後に、35年連れ添った愛おしい主人は天に召された。
その後、3年経って母を看取り、2年過ぎた頃、父を悼んだ。
一人息子は36歳。
立派に自立している。

 一人暮らしになって早3年。
思い起こせば、ウェディングドレスも着る事もなく婚姻届にサインしただけで65歳の主人と結婚したのが25歳。
盲腸炎を陣痛と間違えて、帝王切開で息子を産んだのが27歳だった。
40歳も年の差のある結婚って?
いかがなもんだったのか?
それがそれが、以外や以外。
主人は最高のパートナーであり生涯に渡り一度として嫌いになった事のない相性抜群の男性だった。
毎日が、笑顔溢れる夢のような日々だった。
ある面、皆が憧れる御伽噺、シンデレラ姫に引けをとらない素晴らしい人生を、主人は私にプレゼントしてくれた。
サマージャンボ最高賞金額が35年間、夢幻のごとく当たり続けたかのような結婚生活。
狼の遠吠えを、毎日3回真似して叫びたいくらいアメージングだった。

 私は、ともかく愛され慈しまれた。
アホウ鳥が身体に憑依するほど幸せだった。
ナンノコッチャ?
しかし、結婚に至る迄はそれなりに山があり谷があった。

 主人との恋愛はマジでヤバかった。
下手したら、背中に何箇所か穴が空いていてもおかしくなかったと、今更ながら背筋が寒くなる。
21歳の私が愛した相手は61歳で1000億円を右から左に動かす事の出来る大金持ちだった。
お金だけではなかった。
時の総理大臣さえ動かしていた。

ー知らんがな!ー

 都会に憧れ、7000円だけ持って家出してきた貧乏育ちの田舎娘が、人の素顔や懐を見抜くだけの度量などあるはずがない。

ーそりゃそうだ!ー

 当然ながら、彼には60歳の妻と33歳の一人息子がいたし、30年間寄り添ってこられた最愛の愛人様もいらした。
若い彼女さんもいたし、彼の財力に縋りつく人間模様は男女問わず24色の絵の具では描き切れなかった。
この相関図に登場する人間一人一人が抱く様々な感情を解読するには一生かかっても私には無理だ。

 そんなこんなをかくゆう私も、彼の財力に縋り付く25色目になった訳だが。
愛人
不倫
泥棒猫
年寄りを騙しこむ強かな女
全てのワードに当てはまる人間に成り果てたのだ。
こんな不義理な恋愛関係に暖かなお日様は決してあたらない。

ーと〜うぜんだ!ー

 両親や友人、親戚に大手を振ってこの歪んだ恋愛を語ることは憚(はばか)れる。
幸せな想いを聞いて貰いたくとも忍耐あるのみ。
貝になるしかない。
特に、倫理観に人一倍目敏い父や母に対する背徳感には、かなり悩んだ。
唇をとんがらせて不満な顔を知らぬ間にしていた。
その当時の写真は、やはり嘘つきの顔をしている。
可愛い一人娘は、都会に行って真っ当に秘書として朝から定刻まで働き、その労働に相応しい給料を貰っているものと信じて疑わない両親への嘘、ウソ、うそ!
これはキツかった。
あっという間に噂が広まる田舎で、人の目を気にしながら真面目一筋に生きてきた二人。
後ろ指、白い目を何より恐れ、暮らしていた両親。

「あのね」
「私、社長の愛人やってるんだぁ〜」
「とっても優しくして貰ってるのぉ」
「お金もいっぱい貰ってるんだ」

 そんな真実を言おうものなら、仁王像の様な形相の父の足蹴り、母のシャックリを伴う狂い泣きは間違いない。

ー恐ろしやー

 ともかく穏便に事を運ばなくてはと、冷静に考えた挙句、私はある作戦を決行することにした。
社長のイメージアップ作戦だ。
日経新聞に社長の事が掲載されたり、経済誌に会社広告が出ていたら一目散に両親に読ませ、如何に社長が立派な人物かを力説した。
生まれた時から父の居ない貧しい環境に耐え、凄まじい戦争を潜り抜け、全国展開の会社を立ち上げ大成功を遂げた器の大きさや、天から与えられた強運について語った。
信仰宗教の勧誘に負けない勢いで、両親を洗脳していった。
そのたゆまぬ努力の甲斐あってか、滅多に人など信用しない父が、真っ先に社長を教祖とする新興宗教の熱狂的な信者になってくれた。 
母も遅ればせながら、社長を教祖として敬い始めたのだ。

ーシメシメ!ー

 この調子だと、案外スンナリと私と社長とのただならぬ関係を許してくれるのではなかろうか?
そう高を括っていた。
社長との交際期間も5年が経ったある日の事。
思いがけず、社長にプロポーズをされたのだ。
到頭、両親にカミングアウトする時がやってきてしまった。


「さあ〜」
「果たして?」
「どうなるか?」

 初めて真実を打ち明けなくてはならない。
もう野となれ山となれだ!
私は唇が腫れ上がるのを覚悟して両親にブチマケタ。
打ち明けた後、両親が見せたパフォーマンスには、流石に私も面喰らった。
遥かに私の予想を上回るリアクションに、私は口を開け唖然とするしかなかったのだ。

 38年経った今でも、その時の強烈な思い出は記憶にまざまざと残っている。

ーマジでひっくり返ったー

 その思い出話を告白する前に、この逸話を私から聞いた、凄腕マダムのリアクションを皆様にご披露致しましょう。
私の両親のぶっ飛びのトピックスが、よっぽど面白かったのか?
顎が外れそうなくらい大きな口を開け、笑い転げたチャーミングなマダムの顔を、今でも鮮明に覚えている。

 私より10歳上の、その友人は交遊関係が呆れるほど広い。
超一流の芸能人から経済界の名だたる人達、平凡に暮らす主婦から路地裏に半畳だけの店を構えて、傷ものの野菜を何十年も売って生活の糧にして生きてきた人まで、様々な人脈を操るメスドラゴンだ。
そんなマダムに気に入られてからと言うもの、びっくりするような人達との夕食会を、年に数回、催してくれた。
その席で、アルコールが入りご機嫌麗しくなると、マダムは、必ずと言っでいいほど、私の両親のあの話を演目に上げ、得意気に落語調で扇子を打ち鳴らす。

「ヨッ!」
「男前」

 夕食会に集まった一癖も二癖もありそうな人達でさえ、その漫談を聞き終わると身体を仰け反らせケッタイな軟体動物の動き方を真似、驚いた。
それほど、その "結婚スピーチ"   たるや!
ぶったまげ談義だったのだ。
私達は、堂々と結婚式をあげれる体裁ではなかったので式とか披露宴などは一切しなかった。
そのせいで、正式な両親からの結婚スピーチを聞く事はなかったが、このトピックスこそ私達夫婦に捧げる、今は亡き両親からの最高の結婚スピーチとして大切に心の中で奉っている。

ー確かにそんじょそこらには無いオモロイ話だー

 話は少し逸れるが、私達、歳の差40のカップルがどのようにして誕生したか?
興味深い方々もいらっしゃる筈。
人の道を外れた結婚。
正直に暴露致します。
闇に塗れた私の過去を。

 そう、20歳の頃、私は両親の反対を押し切って7000円だけ持って家を出た。
人口5万人しか居ない寂れた町に夢を抱ける筈もなく、海の向こうにある見た事も無い国々に輝かしい未来を委ねた。
添乗員になる為、大阪北新地のど真ん中にある専門学校に2年間通った。
その授業料の支払いや、月々の家賃、食費、遊戯費用のお金がどうしても必要だった。
そこで、知人の紹介で秘書の面接を受けた。
しかし、その面接は真っ当ではなかった。
とある貿易会社の社長秘書として雇われはしたが、実質は違った。
田舎者で社会を知らない小娘は、大人達が仕組んだ罠にまんまとハマってしまったのだ。
同情を訴えることは出来ない。
いくら小娘と言ったところ、20才は超えていたのだから。
その罠にかかった私は、愚かにも道義上に反する道、愛人という獣道に突き進んでしまったのだ。
大金持ちで心優しい社長も、その罠の犠牲者だった。

          「?」

 信じられないことだが、社長の周りを取り巻く強かな人間に、一杯、喰わされてしまったのだ。
その策略にまんまとハマって、私と社長は男女の仲になってしまったのだ。

ーちょっと!ー
ー何言ってんのか、わかんなぁ〜いー

ー分からない?ー
ー無理もありませんー

 まぁ〜、結果、そのおかげで災い転じて福となすだったが。
世の中は一転二転、最後までどうなるやら分からない。
わかりやすく野球用語で例えるならば、社長には、彼のお金に群がる外野手達が大勢いた。
彼らにとって、社長は福の神。
銭のなる木だった。
つまり20歳の私は、その福の神に差し出された、言うなれば祭壇に祀られるお供え物にされた訳で、
茶のお供、饅頭やせんべい扱いされてしまったのだ。

ー貢物?ー
ー生贄!ー
ーってか?ー

 本来なら一夜限りで終わるものとニヤケながら頬杖をついていた外野手達は泡を吹いた。
当人同士が、本気の恋に落ちてしまったのだから。
晴天の霹靂?
40も年齢が違う男女が愛し合うなんて!
外野手達は慌てまくった。
まさかの坂が起きた訳だ。


 勿論、社長の周りには、彼の人格に惚れて付き合っている仲間達も数人見受けられたが、そんな人の良い人間を蹴落とすくらいは、お茶の子サイサイの忍術に長けた策略家共が、悲しいかな、社長の至近距離の席を陣取っていた。
外野手の中でも、一際社長に執着を示す、空恐ろしき男性がいた。
私と社長との関係も絶対許さない人間だった。
その男性から私は脅されたのだ。

ーええっ!ー

「これ以上、社長に近づいたらお前の両親の命の保証は無いからな!」

ーオットォ〜ー

 映画みたいなシーンに金縛りに合い、私は恐る恐る後ろを何度も振り返りながら、肩を落として田舎に帰った。

ー都会をなめとったわー

白髪混じりの両親に、もしかの事があったら自分の責任だ。

ーもう、絶対、社長に会ってはならない!ー

 そう思い、社長との連絡を一切絶った。
1週間が経った頃、都会への夢を諦めかけた時だった。
社長から直々、実家に電話があったのだ。
しかし、本当の気持ちを告げるわけにはいかなかった。
社長の周りを取り囲む人達がともかく怖かった。
電話の向こうから関西弁で話す温和な声がした。

「どうして神戸にこんのんや?」
「何かあったんか?」
「何でも言うたらええんやで」

 泣けてきた。
鼻が詰まった。
「社長さん、私」
そう言いかけて、黙り込み、鼻水を啜った。
社長に心配かけては申し訳ない。
ハワイにまでファーストクラスで、私の友人2人も連れて行って下さった人に、あまりにも失礼だ。
脅しをかけて来た相手は社長の親しくしているゴルフ仲間だった。
この脅しに屈すると、一生後悔する気がした。
両親の顔がチラついたが、意を決して真実を話した。
すると、社長は大笑いをし、電話の向こうで私の頭を犬猫みたいに撫で撫でしてくれた。

「そうか!」
「そう言う理由があったんか」
「心配せんでええ」
「こっちで、ちゃんとしとくから神戸に来なさい」

「本当に両親に手を出さないのですか?」
「本当に、私は神戸に行って良いのですか?」

「大丈夫」
「来たらいい」

この社長が発した10個のひらがなで、私の将来は決まったのだ。

 この時から、冒頭に記した社長を取り巻く相関図に私が仲間入りすることとなった訳だ。
もう一度、社長の曼荼羅図、相関図について説明した方がいいだろう。
絶対に忘れてはならない人を紹介しなくてはならない。
社長の投げる魔球を、何千球も、しかと受け止め、円を描くようにそのボールを返す名キャッチャー役がいた。
芦屋にある豪邸に永年鎮座されている奥方様だ。
正妻である。
背番号は当然 "1" だ。
その背番号 "1"   に張り合うべく30年以上ファーストベースを守り続けてきた女性、月の如き怪しい光を煌かせてきた影の立役者の存在も皆様に知っておいて頂きたい。
この女性、社長から妻以上に寵愛されてきた旅館の美人女将だ。
お妾さんだ。
背番号は控えめな彼女にピッタシの "2"  だ。
そして、新参者の愛人として将来を多いに期待され、背番号  "3" の重積を与えられたのが、うら若き21歳になったばかりのこの私だったと言う訳だ。


 そのピッチャー役の福の神、N社長とは一体どんな人物か?
個人情報を暴露しましょう。
大正9年生まれ。
5月5日の鯉のぼり〜生まれである。
私と知り合った当時は60歳だった。
21才から29才までの青春時代を銃弾が飛び交う戦地と過酷な収容所で過ごし、熱帯のジャングルでムカデや蛇と一緒に寝起きし、日々生死を分ける熾烈な戦いの中、生き残った稀有な人間。
四国は丸亀の出身で、社長の父親は当時世界的に流行ったスペイン風邪で亡くなっていた。
まだ母親の胎内で指を咥えていた頃だった。
つまり、父の顔も声も見たことも聞いたこともないまま社長は育ったのだ。

そんなひとかたならぬ苦労を乗り越え、全国展開の会社を創業した強者である。

 実際、私にも社会の厳しさを教えてくれた。
労働の厳しさ、お金の大切さを学ばせてくれた師匠でもあった。
タクシーは、自宅近くになると料金メーターが上がる前に必ず降りて歩いて帰る人だった。
めちゃくちゃお金にシビアだった。
僅かながらだが、こんな私でも秘書として、そこそこ働いてはいた。

   ー働かざる人、喰うべからずー

 主に海外出張や接待時には、私がスケジュール管理からミーティングの手配、料理屋の予約や確認、時には取引先とのアポ取り迄こなしていた。
年に数回、重要な案件を処理する事もあった。
咄嗟の判断力や対応力、明るさを買われ、接待の場ではいつも声が掛かった。
英語力は拙(つたな)かったので、英語圏ではないロシアとか中国に限って、時たま観光を兼ねて通訳の真似事をした事もあった。

 こうした公私に渡る時間を、必然的に二人で共有した5年の歳月は、互いを深く知る上で充分すぎた。
私と社長との絆及び信頼関係は知らず知らずのうちに揺るぎないものとなっていたのだ。

 社長の奥さんや旅館の女将をしている愛人さんは、私より38歳も上だった。
だからか?
2人の女性の存在を疎ましく思ったことは一度もなかった。
寧ろ、私は彼女達を敬い重んじた。

「まさか?」
「私が社長と結婚なんか!」
「奥様や永年社長に尽くされた愛人を差し置いて、結婚する事なんかあり得ない」
「断じてしてはいけない!」と自分を律してもきた。

 何故なら、私の育った田舎には霊媒師を信じる長老の村人が結構いたからだ。
そんな環境に20歳まで育ったせいか?
女の呪いとか、祟りが異様に怖かったからだ。

だから、背番号 "3"   の生活は、そんなチビリの私にとって極上の立ち位置だった。

      ーディスタンスー

私なりにこれ以上、入り込んではいけない境界線を意識しながら過ごしてきたつもりだった。

 しかし、25歳の初冬のある日、運命は急展開した。
予想外の事件が起きたのだ。
その日は、証券会社の偉い人からの接待があった。
神戸は竹葉亭と言う鰻専門店が、JR三宮高架下にあり、そこで社長と支店長と私との3人、たわいない雑談を交え、ご相伴に預かっていた。
接待も終えて、私は借りていたマンションがある新大阪にタクシーで帰る事となった。
社長は白い息を吐きながら、寒い中、コートを手に持ち、私がタクシーに乗り込むのを見届ける為に、わざわざ見送りに来てくれたのだ。

 私はその社長の姿を見て涙を堪えきれなくなってしまった。
5年もの交際期間が、如何に幸せだったか!
絶対、失ってはならない人。
この男性こそ、私の愛すべき人。
その答えが一瞬で分かったからだ。
社長への慕情が、初めて湧き出たのだ。

「慕情!」
「ぴったしだ」

悲しいから、泣いた訳じゃなかった。

寂しいからでもない。

 彼の優しい声かけ、眼差しに慕情が募り居た堪れなくなったのだ。
私を本気で心配してくれていた彼の顔を、38年経った今でもしっかり覚えている。

「大丈夫か?」

 タクシーに一人で乗り込んだ私に声をかけてくれた彼の言葉は絶対忘れてはいけない宝物だと感じた。

幸せの涙が流れたのだ。
感謝の涙だった。

彼への尊敬、憧れ、愛しい気持ちから思わず溢れてしまった涙だった。

「離れたくない!」 無意識に、心の中で私は叫んだのだ。

 その涙を見せない様に慌てて前を向いたが、彼は夜の街並みに輝くネオンを映し出す、私の涙を見逃さなかった。

 その日から3日後、社長と京都に遊びに行った。
鈴虫寺に参拝に行き、秋でもないのに「チンチロチンチロリン」と鳴く声をBGMに名物和尚の愉快な説法を聞いた。
行きつけの割烹屋で夕食を頂き、いつもの様に京都駅から新幹線に乗り込んだ。
その車内で、社長は私達の人生を左右する重大な質問を2つした。

私は、新大阪で降りる。
社長は、いつも通り新神戸だった。

 この5年間、当たり前のように違う駅で別れてきた。
後、5分で新大阪だった。
社長は、私に真剣に尋ねた。

  ー離れ離れは、辛いか?ー
  ー1人でマンションに帰るのは寂しいか?ー

私は素直に答えた。

「違う駅で降りる時、何でだろう?って思う時があります」

社長は頷いた。

「そうか!」

2週間して、社長は私に正式にプロポーズをした。

「一緒になろう」
「家内と、愛人とは別れる」
「もう、別々の駅で降りなくていい」

 社長の突然の結婚申し込みにびっくりした。
素直に嬉しかった。
しかし、私は深呼吸を2回程して冷静に断った。
奥様や、永年の愛人の方に対し遠慮したからだ。
それに、私は結婚なんかしなくても良かった。
したいとも思わなかった。
出来る立場では無いと思ったからだ。

人を悲しませてまで、自分が幸せになるなんて、嫌だったからだ。

 社長に正直に話した。
私の考えを静かに聞いてくれた。
そして、誰にも言った事の無い本音を40歳も離れた私に語った。

「俺は、ガムシャラに働いた」
「負けるもんか!と、歯を食いしばって働いて来た」
「戦争にも9年行って生死を彷徨い日本に奇跡的に帰還できた」
「戦死した仲間の顔を今でも覚えている」
「お母さんと、死ぬ前に泣きながら呟いた20歳前後の若者達だった」
「アイツらの代わりに、俺は精一杯、日本を元通りの国にする為に、アメリカに負けた悔しさをバネに微力ながら尽力してきたつもりだ」
「それが、若くして戦死していった仲間の供養だと信じてやってきた」
「65歳になった今、俺は、これからは自分の人生を歩みたい」
「そう思うようになった」
「後、どのくらい生きれるか?」
「わからん」
「だが、一つだけ、神様に願い事を叶えてやると、言われたなら?」

「それは何か?と神様に聞かれたなら迷わず言いたいことがある」
「残りの人生を、お前と歩ませて頂きたい」
「それだけが願いだ」

彼のたった3分間のスピーチは、私が25年間生きてきた時間より確実に重たかった。

私は、とめどなく涙が溢れた。

「この人の為に、この人が日本の為に頑張ってくれた恩返しをしなければ!」
「私みたいなモンで喜んでくれるのなら、彼を幸せにしたい」
「彼は幸せにならなくてはならない人だ!」

 心からそう思えた。
やっと、彼の真意が分かった。
奥様や愛人の方々への償いとして「彼女達が満足いく事を、これから俺が出来る限りしていくつもりだ」と言って私を安心させた。

「ふぅ〜」と、私は大きく息を吐いた。
祟りや、怨念が異様に怖い私はひとまず安心した。
彼に敬意を持って頭を下げ、一言だけ告げた。

「宜しくお願いします」

 私と彼は一緒になった。
愛人さんとは、流石に一悶着あった。
主人と一緒に住む様になって1週間。
夜中に電話があった。
30年もの永い間、子も作らず主人に尽くしてきた63歳の女性だった。
主人が最も愛した女性。
私よりずっと愛した女性だった。
彼女は酒に酔い「主人を出せ!」と電話の向こうで叫んでいた。
びっくりした私は、主人に慌てて電話を渡した。

私は「彼女が気が済むまで、一緒に居てあげたらいいからね!」と本心で告げた。

 主人は「分かった」と私を労い、深夜、マンションから出ていった。
主人が我が家に帰宅したのは明け方だった。
かなり憔悴した様子で私に謝った。
「もう、大丈夫だから安心したらいい」と、しっかりした口調で私を気遣った。

 その日から、永年、彼に尽力されて来た愛人さんからは一度も我が家に電話がかかる事は無かった。
主人はどんな魔法を彼女にかけたのやら?
知らなくていい事は、知らない方がいい。
"知らぬが仏"を、主人が亡くなる迄、私は貫いた。

 主人との結婚の報告をする為に、広島の実家にドキドキしながら帰った日が懐かしい。
その時は、私はまだ幼かった。
25歳だ。
両親は、私と主人が男女の関係がある事を5年間知らない振りをしていたんではないか?
知っての狸?
何もかも知った上で、私の嘘に付き合ってくれていたのではないか?
あの頃の両親の年齢になってやっと気がついた。
多分、そういったデリケートな問題には触れたく無かった筈だ。

「自分達が大切に育て上げた娘が、社長の愛人かどうか?」
「耳を塞ぎ、目を背け、口に手を当てたかったのだろう」

 勘繰っていたとは思うが、口に出して私に問いただす様な両親では無かった。
娘が大変お世話になっている、立派な会社の社長様だと言う事実だけ信じたかったのだろう。
気のいい両親は、人を悪く思う人間ではなかった。
感謝の気持ちを何より大切にする人だった。
邪推で、社長のイメージを汚したくなかった筈だ。

 新聞や経済誌に、社長や会社が掲載されれば、1番に両親に見せた。
父も母も喜んで、自分の身内の様に目を輝かせて記事を読んでいた。
結婚報告するには、年齢的にいい頃合いだった。

25歳。

「クリスマスを過ぎたら何とか?」
「女の値段も下がるとか?」

 田舎育ちで、真面目一筋に生きてきた両親は一人しか居ない子、私を溺愛していた。
私が「社長から、結婚を申し込まれた」と、真剣に話しをしたら両親は暫く何も言わなかった。

「そうなん?」と母。
「そうか!」と父が言った。

 拍子抜けするくらい控えめなリアクションだった。

「そうか!」
「良かったなぁ」

 微かに期待していた慶びの言葉。
それは無かった。
二人とも、何も聞かなかったかの様にテレビに目を向けた。
彼らの背中を見たくなかった私は、風呂に入り2階に上がった。
寝室のベッドに横になって、暫く本を読んでいた。

すると父が私の寝室のドアをノックし「入っていいか?」と珍しく控えめに言った。

「ええよー」

私は、優しく答えた。

父が枕元に座り込むなり、開口一番、私に言った言葉はまさにセンセーショナルだった。

「おみゃあーは、でかした!」
「世の中は、金じゃけぇ〜のぅ」
「社長さんは、そんじょそこらにはおらん立派なお方じゃ!」
「ワシらみたいなサラリーマンとは違うて、沢山の従業員を喰わして来られたお人じゃ!」
「生きていくには金と知恵がいる」
「社長さんはその金と知恵をそりゃあ〜いっぱい持っておられる」
「お前も、その金と知恵を貰って賢い人間になれるじゃろう」
「父さんは結婚に大賛成じゃ!」
「社長さんを大切にしてあげなさい」

 そう言うだけ言ったら、さっさと寝室から出ていった。

 呆気に取られている間も無く、今度は母がドアをノックし入って来た。
母は、父とは打って変わり寂しそうだった。
幸せそうな父とは全く違っていた。
誰か?知り合いの人でも亡くなったかの様な顔をしている。
母は静かに私に告げた。

「世の中は、金じゃあ〜無いんよ!」
「金で買えんもんもあるんよー」
「社長さんは、ええ人じゃと思う」
「感謝もしとる」
「でも、明日が分からん年齢よー」
「介護できるんか?」
「段々、歳を取りセックスもよーせんよぉ〜になるんよ!」
「女盛りになった時どうするん?」
「我慢できるんか?」
「母さんはこの結婚には反対じゃけぇ〜ねぇー」
「よう考えんさい」

そう言って静かに寝室を後にした。

 この二人の結婚に対する考え方は真逆だった。
どちらも間違って無い。
私は、素直にそう感じた。
ただ、私は主人と一緒に歩む人生を選択した。

「幸せになるか?」
「ならないか?」

そんな先の事なんか誰もわかる訳ない。

 縁あって導かれた2人、高齢な主人が、明日、もしかしたら私の前から居なくなる事だってあり得るのだ。
私達に残された時間は限られている。
明るい時間を出来るだけ作って、2人一緒に歩くしかない。
主人を信じていたし、彼以外、私みたいな野心家で、破天荒な人間を寛容に許し応援してくれる人などいない。

「人生一度きり」

やり直しは効かない。

 40歳違う主人と出逢い、5年間の交際を経て結婚をし子供を1人もうけた。
彼と20歳で知り合い、35年間、主人を嫌いになった事は一度もない。

 仲の良い夫婦だった。
笑いが絶えない家族だった。
労り、励まし、支え合ってきた。
主人は、亡くなる2週間前、私にある事を告げた。

 神戸市主催の花火大会を、我が家の和室から2人手を繋ぎ観ていた時だった。
夜空に煌めく、美しい光のイリュージョンに息を呑み、歓声をあげたり拍手したりしていた。
主人は私の方を急に向き、私の名を大玉花火が弾ける際に響く爆音に負けない声で呼んだ。

「生まれ変わっても、お前と一緒になりたい」
「必ず、お前を探すからな」と、突然、声を上げたのだ。

その時の主人の瞳は潤んでいた。

 その美しい漆黒の水面の様な瞳には、花火が弾け飛んで一気に編み上がる模様や様々な色彩が凝縮して映り込んでいた。

本物の花火より数倍美しかった。
言葉が出ないほど、私の心は震え感動した。

「うん」
「父さん、私も絶対探す」
「私も、父さんと生まれ変わっても一緒になりたい」
「ありがとうね!」
「父さん」

 毎年30年欠かさず二人で鑑賞してきたこの花火大会は、今年が最後になるだろうと私は腹を括っていた。
寂しさは不思議となかった。

それを、主人も知ってか?
知らずか?

 30年ぶりのヘビー級の口説き文句には参った。
短い会話ではあったが、人生最高の瞬間だった。
交際期間5年を入れれば、主人との年月は35年。
その間で1番心に残る記憶を私にプレゼントしてくれた。

      ーありがとう 貴方ー

 63歳になった私は、つくづく両親の寛容さに頭が下がる。
思えば、あの日、あの時、真逆ではあったが父なり母なりの率直で貴重な結婚スピーチを、私は確かに頂いたのだ。
初めて、結婚の報告を聞いた両親はさぞや驚いたであろう。
親子以上の年齢差がある二人が結婚?

「さぞや、ぶったまげただろう」
「考えられなかっただろう」

 しかし、私達の意思を尊重してくれた。
2人を祝福してくれた。
結婚後も主人が亡くなるまで、父は認知になっていても私たち夫婦に寄り添い気遣ってくれた。
母も、私達夫婦と一人息子を全身全霊で応援してくれた。

 認知の父の面倒を見ながら大変だった筈の母は、自分の苦労など一言も漏らさず私達の心配をしてくれた。
主人の介護に疲弊した時は、必ず私に手を差し伸ばし、励ましてくれた。

 ひっくり返る程、真逆の結婚スピーチを、あの夜、25歳の私にしてくれた両親。
私達は、敢えて結婚式はしなかった。
結婚衣装も結婚写真も着ないし撮影もしなかった。
結婚指輪も交換しなかった。
主人は「結婚式をしよう!」と言ってくれた。
しかし、私は断った。

 私は、奥様や愛人さんの気持ちを鑑みたのだ。
だから絶対しなかった。

 私は後悔はしていない。
だって、この世で1番最高の結婚スピーチを私の両親から頂いていたからだ。
それだけあれば充分だった。

 誰もが、腹を抱えて笑う両親の結婚スピーチ。

落語にしてもいいくらい、面白い。

 父は「世の中は、金だ」と言い切った
かたや、母は「世の中は、金じゃあー無い!」
と言い張った。
両極端な視点を持つ父と母だが、彼らは心底、私の幸せを願ったのだ。
正直に嘘偽り無く私に叱咤激励をしたのだ。

「悪いことは悪い!」
「良いことは良い!」

と、私を教育して下さった。

 貧乏な中、めげずに明るく必死で私を育て上げて下さった。
彼等なくして、人様に対しての感謝や優しさや、寄り添いの気持ちは私には育たなかっただろう。
主人があの世に先立ち、両親も天に召された。
今更ながらに、彼等の存在の偉大さに敬服している。

一人息子は36歳。

 つい、この前迄抱っこして乳を飲ませていた感覚なのに、いつの間にやら少年から青年、青年から大人の男性へと成長している。
車で30分ほどの場所で1人気儘に暮らしている。

「さてはて?」
「彼にとって、両親や主人の様な存在に私はなれるのだろうか?」

自問自答する日々だ。

 暇な時間が増え、ペットを飼った。
白と黒のハツカネズミだ。
朝日より夕陽に魅せられるこの頃。
主人、両親の写真に向かって、時たま、思い出を話す。
我が家で飼っているハツカネズミのチコちゃんにも「おはよう、おやすみ」くらいの挨拶や、幼稚園児に語りかけるみたいにたわいない話題を喋ってみたりする。

チコちゃんが我が家にやってきて早、半年。

洗面所の横にある台の上で、小さな虫籠を我が城と思い、厳かに暮らしているチコちゃん。

 紙タオルを細く千切ったのを入れてやると、アーティスト顔負けのドーム状の寝床を器用に口と前脚を使って創作する。
なかなか、知恵のある動物だ。

 寝てない時はチョコチョコ動き回り、餌を両手に持って可愛らしく食べたり、後ろ脚だけで立ち上がり両手を合わせ静粛に拝むポーズをしたり、キュートな顔洗いポーズも披露してくれる。
ウンチやオシッコは、決まった場所で必ずしている。

 最近「チュチュッ チュチュッ」と、私の独り言の声に反応し可愛い鳴き声を発する様になった。
私が一方的にチコちゃんに話すだけだったのだが、やっと会話が出来そうだ。

 チコちゃんは、日本語を少しずつ理解しつつあるみたいだ。

 それに比べ、ハツカネズミ語を全く理解出来そうに無い私は、もしかしたらチコちゃんより語学力は劣っているのかも知れない。
否、語学力だけではなさそうだ。

「何だか?」

 私の起伏に満ちた感情やだらしない習慣迄、見透かされている気がする。
私に向ける視線がなんだか?
批判的な時と好意的な時、無関心な時と3段階に分けられている気がしてならない。

「あっ!」

 そうそう、いやにセクシーな時もあるのだ。
私の思い違いだと思うが、100%断言出来ないもどかしさと格闘している。
一つだけ断言するならば、私自身の変化だろう。
洗面所に行く時、確実に弛んだ顔がやや引き締まる。
これは間違いなく、チコちゃんパワーだ。

 我が家での話し相手は、今やハツカネズミのチコちゃんだけとなってしまったが、髪の毛がボサボサで破れたパジャマを着ていたり、自堕落な雰囲気な時、何と無くチコちゃんは私を軽蔑した態度を取っている気がしてならない。

チコちゃんは、とってもきれい好きだ。

 いつも、暇さえあれば、顔や身体や尻尾のお手入れをこれ見よがしにしている。
 私がお洒落した時に、声をかけたら私を見る目がニヒルに   "キラッ"   と光っている気がする。

「錯覚か?」
「思い違いか?」
「ボケてきているのか?」
「ええい!」
「もう、どうだっていいじゃないか!」

「本音を言おう!」

大きな声で叫びたくなった。

「キンタマが、異様に大きな男盛りのチコちゃんを63歳の女が意識して何が悪い!」


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