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それがしょぼいのか自分自身がしょぼいのか

昨日、X(旧Twitter)にてあるツイートを目にしました。

それは「自己啓発本やビジネス書は本ではない」という趣旨のものであった。

言いたい事は凄く分かる。

読書を学習と捉えるか娯楽と捉えるか。
そもそも本という定義はなんなのか。

各個人によってそれは異なる為、どんなに意見を交わしたところでこの話は平行線を辿るだろうなと思った。

ただその他の引用リツイートに目を通してみても、自己啓発本やビジネス書をディスる内容のものはあっても、小説や文学そのものをディスる内容というのはほぼ見当たらなかった。

なるほど。

これはそういう戦いなのか。

と私は思った。

「自己啓発本やビジネス書を本と認めない」のは小説や文学派の意見であり、逆に自己啓発本やビジネス書が好きな人間というのは何も小説や文学を否定してはいないのだ。

自己啓発本やビジネス書を否定する人間の理由を私なりに考えてみた。

自己啓発本やビジネス書は小説などとは違う、明らかに異質な特性を持っている。

それは読む事で「人生の成功を求められる」という特性だ。

小説は読んで「面白かった」でいいのだ。

自己啓発本やビジネス書は違う。

読んで面白かったじゃ意味がない。

得た知識を実生活の中で活かしたり、人生で成功する事で初めてその本の効能にあやかれる。

それを読んでいる本人も心のどこかで自覚している。

だからこそ「そこから得た知識で実生活を豊かにできなかった人間というのが、自己啓発本やビジネス書を否定しているのではないか?」というのが私が導き出した結論だ。

その点小説はそれを読んでも成功を求められるわけではないから、例え自分が成功しなくても「本を読んでいる」というなんか賢そうなステータスにあやかれる。

自己啓発本を馬鹿にすればするほど啓発される自分自身がしょぼかったって事を露呈する事になるのではないか?

それらから得られる知識で生活を豊かにする事ができた人間ってのは自己啓発本やビジネス書をある時期からは「薄っぺらいな」とは思いつつも馬鹿にはしないと思う。

というのが私の意見だ。

なにをもってそれを「本」とするかは、各個人の自由でいいと思う。

ただ自分が得られなかったものの価値を否定する為に、何かを否定する事という事を俺はしたくない。

おわりに

私は小説も好きだし自己啓発本などの実用書も両方好きだ。

最近読んでいるのは垣根涼介『信長の原理』という歴史小説だ。

天才が故の苦悩や、理解を示してくれる人間が少ない事への苛立ち。

それらがうまく表現されていて読んでて凄く面白い。


年末のお供の是非。

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