KENZOのパリを舞台にした自伝

『夢の回想録 ー高田賢三ー』(高田賢三、日本経済新聞出版社、2017)読了。

画像1

2020年、新型コロナの感染で亡くなったファッション業界人。
とはいえ、自身が立ち上げた「KENZO」ブランドは90年代にLVMHグループに買収され、99年にはブランドを離れている。
この自伝を読めばわかるが、ハッピーな引退だったわけでなく、その後もセブン&アイとコラボしたり、ユニクロと組んでオリンピックの代表団ユニフォームをデザインを手掛けたりしていた。そして亡くなられる直近でも、新しいブランドを立ち上げて再(再々?)始動を始めたばかりであった。

この自伝を通じて、KENZOが成功したのはなぜか?がわかってきた。

もちろん、いろいろな要因があった上での成功であることは間違いないが、基本の基本に、高田賢三さんの太陽のような”明るさ”が、チャンスやツキを引き寄せたのだと思う。・・・やっぱり、”明るい”って大事なことだな。

オートクチュールからプレタポルテに主軸が移る60年代後半から70年代にかけてのパリにいてスタートをきれたことが、何より成功の土台になっている。必要な時に必要な場所にいる強運。

しかも既存の西洋のベースでなく、日本、東洋、そして船旅で経験したアジア、中東などオリエンタルの要素を取り込んだ新鮮さを提供できた立ち位置、やっぱり、これも強運ゆえだと思う。

とはいえ、ブランドとしてのKENZOって、その後どうなの?と思うと、いろいろと考えるところがある。この時期に生まれたプレタポルテ系ブランドは、その後ライセンス商売の旨味に目覚め、よくいわれる「イブサンローランの便所スリッパ」のごときライセンス品を多産多量してブランド価値を毀損しながらブランド拡散させていった悪弊を80年代後半から90年代にかけてKENZOも抱え込んでいたことを知る。クリエーションの不完全燃焼とブランドとしての売上拡大。

そう、自分は知っているブランドとしてのKENZOは、確かに日本人がパリでファッションとして認められたすごいブランド、でもなんだかよくわかんないライセンスものもたくさんあるし、「昔はすごかったらしい」という古臭いブランドをイメージに、すでに90年代から思っていた。そんなKENZOブランドを、LVMHがオープニングセレモニーの二人を2011年にクリエイティブ・ディレクターに起用して、ラグジュアリーよりちょい下のアフォーダブルの”若い感じ”のあるブランドとして再生させたものの失速、つい最近も別のクリエイティブ・ディレクターが退任したりと、低空飛行の感が否めない。

・・・そんなブランドの現状を憂えてしまうが、この回想録はもっと賢三さん本人の人間味やパリを舞台にした交友録を味わえる。読んで楽しい、よい回想録である。鹿島茂さんではないが「パリの日本人」を考える際に外せない一人である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?