見出し画像

父記録 2023/6/29【おにぎりと金目鯛】


晴れ、暑い、暑い
店が立て込んで時間ギリギリに病院に駆け込んだ。母はロビーで本を読んでいた。
母の鞄にはいつも本と、新聞の切り抜きが入っている。スマホは持たない。

今日の父は穏やかな顔をしていた。

「金目鯛を上等な日本酒で煮たの。おいしく出来たから、きっとお父さんが好きな味だからともちゃん食べて。」
母が保冷剤で包んだタッパーを差し出した。

「お父さんには煮汁。舐められたらいいんだけど。」
小さなペットボトルに詰めた金目鯛の煮汁。

父は今日もゼロゼロしていた。

「うーん…無理…じゃないかなあ…」
と私が言うと
「…そうね…」
母はしょんぼりとペットボトルを鞄に戻した。切ない。

「ともちゃんがお父さんの仕事で美味しいものを食べたり洋服買ったりできるようになってよかった。Tさんのおかげね。」
夫とはちょうど10年前、父が倒れる直前にゴールデン街で出会った。

「食うや食わずだったんだから。店継ぐのだってともちゃん一人じゃやれなかったでしょう。Tさんが引っ張ってくれたから」

夫と出会って2か月くらい経った頃に父が倒れた。それからひと月後、三日間だけ営業してSTUDIO T&Yは37年の歴史に終止符を打った。
最終営業の日、夫は記録写真を撮りに来てくれた。
その後両親は長野に移住した。
夫はその家のあちこちに手すりを付けに来てくれた。
当時は夫でもなく、付き合い始めたばかりだった。
買い置きのアイスを食べ尽くされても、隠しておいたちょっといいおやつを食べ尽くされてもなるべく怒らないようにしよう、と思った。

「今日ね、Iさん来たよ」
「あー!おにぎりの人!」
母が嬉しそうに笑った。
Iさんは古くからの常連さん。
父がごはんを食べる暇もなく仕事していると
「親父さーん!お腹空いてない?これ、差し入れ!」
とおにぎりを持って来てくれたそうだ。
Iさんはいつもニコニコして溌剌としていて、波もろい。
引退後の父に会うたび、Iさんはニコニコしてニコニコして、そして泣いてしまう。
「Iさん、高円寺の店でお父さんに会うたびに泣いちゃうんだよ」
「明るくて気持ちのいい人よね。うちのお客さんはそういう人が多いわね。」
父はゼロゼロと眠っている。
「じゃあそろそろ帰るわね。Iさんの夢見て寝てね」
母が笑いながら父に声をかけた。
「おにぎりの夢見てね」
私も笑った。

帰宅してから食べた母の金目鯛は優しい味がした。

国立店閉店後(夫撮影)
Iさんと父

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?