『おっさんずラブ』に見る「セクシュアリティ」の無効化

『おっさんずラブ』は
セクシュアルマイノリティたちの恋愛模様、じゃない!?

社会現象となった深夜ドラマ『おっさんずラブ』(テレビ朝日)を「セクシュアルマイノリティたちの恋愛模様」と見るのは誤りである、とまず最初に言わせてください。
併せて、「同性に惹かれる人間」を安易かつ短絡的に「同性愛者」とカテゴライズすることもやめていただきたい。
あのドラマのように、「それまで予想だにしなかった相手を好きになる」とか、「思いがけない相手から好きになられたりする」みたいなことは、誰にでも起こり得ることなのですから。

実際、2人の同性を相手にハチャメチャな恋愛模様を繰り広げる主人公「はるたん」こと春田創一(田中圭)は「ロリ巨乳マニア」ですし、そのはるたんに凄まじい勢いと執念で迫り続ける上司の黒澤部長(吉田鋼太郎)には「大恋愛の末に結ばれた妻の蝶子(大塚寧々)」がいました。
つまり、彼らは「同性愛者」ではなく、「たまたまの偶然の果てに同性を好きになってしまった人たち」なのです。

これはBL作品で昔からお馴染みの、
「オレは男が好きなんじゃない! オマエが好きなんだ!!」
というパターンですが、自らを「同性愛者」と称する人間の中には、これを「詭弁」だと毛嫌いする人が相当数います。
「同性愛者に生まれついた者は生涯、同性しか好きになれないんだ。だから『相手を限定した同性愛』なんてものはあり得ない。自分をゲイだと認められない意気地なしが、見え透いた言い訳をしているのに過ぎないんだ」
というのが、そうした人たちの見解なわけです。

彼ら彼女らに言わせれば、「同居人である牧凌太(林遣都)に押しまくられて」という消極的な形ながらも「同性との交際」をはじめた春田も、妻がいるのに部下の春田に激しい恋心を抱いてしまった黒澤部長も、
「ずっと自分の本質(=男好き)を隠蔽してきた『隠れゲイ』だったんだ」
ということになってしまいます。

しかし私は、それに対して「否」と言いたい。

人は皆、「心の中に『ありとあらゆる性愛の要素』を持ち合わせている存在」であり、それを私は、
「EiC(=Eros is Chaos=性愛は混沌なり)」
と呼んでいます。
世の人々は、自身の心の中の「いちばん大きな性要素」を見て、
「あ、自分は異性愛者だ」
「オレは同性愛者かぁ~」
といった具合に自己判断(自己認識)するわけですが、「あまり性急に決め付けすぎないほうがいいのでは?」と私は思うのです。

同性愛/異性愛という「現象」「状態」「行為」は存在するが、「同性愛者/異性愛者という人間」は存在しない。

「自分は同性愛者/異性愛者だ」と信じて疑わない人間であっても、何かのはずみで思慕の対象が反転することがある。

「同性に魅かれること」は、誰にでも起こり得る「さほど珍しくないこと」だから、性愛に関しては「マイノリティ」など存在しない。

私はこう考えていて、それが冒頭の「『おっさんずラブ』はセクシュアルマイノリティたちの恋愛模様ではない」という一文につながるのです。

春田が牧と結ばれる結末には賛否両論あるようですが、昨今よく聞く「多様な性」というのを体現するなら、いっそ春田・牧・黒澤部長・蝶子・ちず(内田理央)・武川(眞島秀和)みんなが結ばれて「ヘキサゴン(六角形)パートナーシップ」とか形成しても良かったかも、と私なんかは思いましたね。
……まぁ、「同性愛」までは需要できるようになった番組ファンでも、さすがにそこまで多様な性愛スタイルは、まだ理解できないでしょうけど。

『おっさんずラブ』は
リアリティの欠落したご都合主義ドラマ、なのか!?

私の持論に最も反発するのは、LGBTを自称する人たちです。
「自分は生まれてこのかた同性しか愛したことはないし、そういう自分にプライドを持っている。お前の『同性愛はあるが、同性愛者はいない』などという戯言は、自分たちに対する冒涜だ!」
というような文句を言われたこともありますが、しかし私も実体験を元にそう言ってるわけですから「ハイ、そーですか」と退くわけにはいきません。

ここでちょっと自分語りをさせていただきますが、じつは私は幼ない頃から「恋愛感情」は異性・同性どちらにも抱くものの、「性交欲」のほうは同性限定でした。
恋愛感情と性交欲を男女双方に抱けたならば「両性愛者」と名乗っていたでしょうが、あいにくと異性には「恋愛感情のみ」だったので、だから少年期の私は、
「じゃぁ、自分は『同性愛者』ってやつなんだろう」
という消去法的結論に至りました。

しかし最近になって性交欲が失せ、同性愛と異性愛が等価となったので、現在では「同性愛者」の看板はおろしています。
こんな結末になるとは自分でも考えていませんでしたが、
「そうか、人間の性愛って流動的なものなんだ……」
と身をもって知ることになった私は、先述の「EiC」という考え方を啓発しだしたのです。

「自覚していなかった性の要素」というのは、心のカオスの中から唐突に浮かび上がってきたりします。
そして、さんざっぱら自分や周囲を振り回したあと、また不意にカオスの深部に沈み込んだりする。

たとえば私は、現時点で「性別違和」は全く感じていませんが、幼稚園に通っていた時分に、
「スカートが欲しい」
と親にねだったことがあるそうです。
そうです、とまるで他人事みたいなのは自分では全然憶えていないから。

肝が据わってるのはウチの両親で、なんと洋裁を習っていた叔母に頼んで「簡易スカート」を縫ってもらい、履かせてみたというんです。
で、私がどうしたかといえば、いっぺん履いたら気が済んだようで、もう二度とスカートに言及することはなかったんだとか。

当時の私が、「瞬間的に性別違和を感じていた」のか、はたまた「女友達がみんな履いてるのに自分だけ履いてない状況を『不公平だ』と思っていた」のかは、今となっては自分でもわかりませんが、
「ま、EiCってのは『性は何でもアリ』ってことだからな。どっちでもいいや」
という感じです。

しかしLGBTという言葉にアイデンティティを求める人は「性愛の流動などはありえない」と断言し、だから『おっさんずラブ』のことも「リアリティの欠落したご都合主義ドラマ」と酷評します。
「異性愛者は、たとえどんなにプッシュされても同性を愛したりはしない。もしも愛することができるなら、それは『異性愛者のフリをしていた同性愛者』なのだ」
と言うのです。

けれども、頑なな彼ら彼女らをよそに、世間はもう確実に「わかりはじめている」のです。

最近はバラエティ番組の中で、
「ジャニーズの△△に会うとドキドキする」
「嵐の△△が好みのタイプ」
「昔、美少年のクラスメートにときめいた経験がある」
みたいなことを平然と語る男性タレント(主としてお笑い系)が増えてきました。
それはいわゆる「おねえタレント」とかではなく、「同性への思慕感情を公にしても何の得もしない人たち」です。
彼らは「異性を愛する自分の中にも『同性愛の要素』はある」という現実をちゃんと理解していて、そのことを少しも「恥ずかしい」とか「後ろめたい」とか思っていません。

また、以前だと「ナヨナヨしてる」「女言葉を使う」といった男子は、問答無用で「オカマ(=フェミニンな同性愛者)認定」をされ、「たとえ女性に愛の告白したところで本気にされない」という悲劇に見舞われがちでした。
しかし、そういう風潮も変わりつつあるのです。

「人気読者モデルの彼氏」というポジションでバラエティ番組に初登場するや、またたく間にメディアの寵児となったりゅうちぇるは、ひと昔前ならばその典型例となったタイプですが、しかしパートナーのぺこと結婚しても、
「性癖隠しの偽装婚では?」
といったアホらしい勘繰りはほとんど聞こえてきませんでした。

これらのことは一体何を意味しているのでしょうか?
「異性愛がメインの人間だって、たまには同性にときめくこともあるさ」
「ジェンダーとセクシュアリティは別モノだよ」
といった「ごく当たり前のこと」にようやっと気づきはじめた証、だと私は思います。

人間を「異性愛者」だの「同性愛者」だのと要らぬ選別をし、セクシュアリティという「窮屈な檻」を作って分断する、みたいな不毛なことは、もういいかげんやめましょうよ。
「昨日は同性に魅かれ、今日は異性に恋する。で、明日は未定」みたいなフレキシブルな生き方だっていいじゃないですか。
同性愛者の看板をおろした私が今後、異性と同性どちらと結ばれるのかわかりませんけど、どっちでもそれなりに楽しめると思いますし、どうなるかわからないから楽しみでもあるんですよ。

『おっさんずラブ』は
誰の身の上にも起こり得る物語、だったりする!?

そもそも『おっさんずラブ』は、なぜあそこまでブレイクしたのでしょう?
ひょっとしたら、「少なからぬ視聴者に思い当たる節があるから」なのかもしれませんよ!?

じつは私にも「はるたん体験」があるんです。

まだ20代半ばでコピーライターとして広告会社に勤めていた頃、やたらと私を口説いてくる営業マン(元・大学ラガーマン)がいました。
そのアタックぶりたるや、黒澤部長を凌駕するほどでした。

「人前ではアタックするけど、2人きりだと何もナシ」というのだったら、こちらも「冗談かな」と思えるんですが、彼の場合はその逆。
どう考えてもマジ口説きなんです。
しかし私は春田みたいに優しくはなく、タイプでなければどんなにプッシュされても落ちない男なので、けっきょく最後までアタックをかわし続けましたけどね。
あ、変な期待を抱かせないよう、こちらに同性愛要素があることは明かさないで。

いま思うに、彼は黒澤部長(=たまたま同性を好きになってしまった男)だったのか、はたまた牧(=同性愛遍歴の中でたまたま私と出会った)だったのか……。
まぁ、そんなのはどっちでもいいことですよね。
大切なのは「形式」ではなく「相性」なんですから。
「いいな」と思えればOKだし、「無理だ」と感じたらゴメンナサイ。
ただそれだけの話です。

『おっさんずラブ』を「他人事」と思いながら観ていた人は多いでしょうが、決してそんなことはありません。
昔の私がそうであったように、誰もが春田や黒澤部長になる可能性を持っているんですよ。
でも、仮にそうなったとしても、あわてる必要なんか全然ないのです。
だって、
「愛情のかたちはどうであれ、ひたむきな想いは見る者の心を動かす」
ということは、あのドラマで証明済みなんですから、ね。

相手の権利を奪うようなものでない限り、誰が誰を愛したって構わない。
少なくとも『おっさんずラブ』のファンならば、それを笑うようなことはしないはずです。
日本も、ようやっとここまでは解放されました。
だからみんな、何があっても自分の心に正直に、怖がらずに進もうよ!

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