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失われたレモンを求めて #シロクマ文芸部

 レモンからオレンジ、そしてベルガモット。柑橘系の香水を彼女はよく使っていた。
 匂いと記憶というのは密接な関係にある。嗅覚は大脳辺縁系と直接繋がっているため、特定の匂いが感情的な体験や記憶を呼び起こすことがあるらしい。
 プルースト効果とも呼ばれるこの現象は、作家マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』で描かれた、匂いによって過去の記憶が鮮明に蘇る場面から名付けられた。

 まぁ、このうんちくも彼女から聞いたものだ。彼女は雑学とかこの手の話が好きで、よくお酒を飲みながら聞かせてくれた。でも、元ネタの『失われた時を求めて』を彼女は読んだことがないと言っていた。それならば彼女より先に小説を読んでやろうと思ったが、読んだところで感想をいうべき彼女はもういない。

 居酒屋のカウンターで生レモンサワーを飲みながら彼女のことを思い出してるのは、このレモンの香りのせいだけじゃない。まだ別れて一カ月しか経っていないのと、この店がよく彼女と来ていた場所だからだろう。
 きっとレモンの香りで彼女のことを思い出すのは一年後とか十年後とか先の、ふとした瞬間だろうなと、そんな風に思った。

 ハタチを超えても童貞だった僕は、あらゆることに自信がなかった。恋愛には臆病だったし、将来には不安しかない。得意と呼べるものも、好きだと胸を張れるものもなく、要するに生きることが苦手だった。
 そんな僕が頑張ってなんとか入った今の会社で、彼女は僕を見つけてくれた。彼女は年上で事務のパートだった。外回りから会社に戻ると「おかえりなさい」といつも笑顔で迎えてくれた。その「おかえりなさい」が聞きたくて僕は仕事を頑張った。
 ある日、勇気を出して食事へ誘ってそこから近しくなった。告白は僕からしたけれど、なかなか言い出せない僕のために環境やタイミングをお膳立てしてくれたのは彼女だった。

 付き合ってから「いつも一生懸命に仕事をしている姿が素敵だと思った」と彼女から言われてすごく嬉しかった。それでもネガティブな僕は、彼女によく弱音を吐いていたけれど、それすらも受け止めて褒めてくれた。

「謙虚で偉い!」
「自分のことは低く見積もるけれど、決して他人を貶さないのはすごい」
「一生懸命にやれることは才能だ」

 たしかこの店でこんな会話もした。

「パンダって中国から借りてるけど、そのレンタル料って知ってる?」
 知らないと僕が答える。
「年間95万ドルだって、一年で一億円なんだよ」
「すごいね、生きてるだけでそんなに稼ぐんだ。僕なんて生きてる上に頑張って働いてるけど、そんなには稼げないよ」
「ううん、でもパンダ自身はそんなこと分かってないでしょ、自分のレンタル料なんて。この話の肝はね、生きてるだけで偉いってのもひとつだけど、自分の価値なんて意外と自分じゃ分からないってこと」

 レモンサワーを飲み干しておかわりを頼んだ。
 結局、彼女は去ってしまった。相変わらず弱音ばかり吐く僕に嫌気が差したのだろう。僕に別れを告げた一週間後に彼女は会社も辞めた。別れることも会社を辞めることもだいぶ前から決めていたかのような挙動だった。

 最後に彼女は言っていた。
「私のわがままでこんなこと言える立場じゃないんだけど、どうか変わらないままでいてね」と。

 レモンの香りと酸味、炭酸の刺激を感じながらあの小説を読んでみようと思った。
 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
 なんでも最も長い小説としてギネス世界記録らしい。
 構わないさ、時間はある。
 もう感想を伝える彼女は居ないけれど。


(了)





 今回はこちらの企画に参加させていただきました。
 初恋とかキスの味に喩えられるレモンですが、自分なりに失恋と結び付けてみました。
 よろしくお願いします。


 

最後まで読んでくださりありがとうございます。サポートいただいたお気持ちは、今後の創作活動の糧にさせていただきます。