「なぜ勉強するのか」「何のために学校はあるのか」

友達と教育談義をしたり、教育についての評論を読んだりしたので、久々に教育について、書いてみます。
これまで同様、結論なんて、あってないようなものなので、それでも、コミュニケーションや、哲学、歴史、そして「社会」など、深淵なものについて、多少でも考えてみたいという方のみ、御覧いただければ、幸甚です。

2001年の出版ながら、文藝春秋『教育の論点』を拝読しました。
背景としては、小泉政権の教育改革が始まる前夜を予感させるもので、言わば「新自由主義」の是非について、両陣の論客たちも名を連ねると言っても、大きくは外れていまい。
とは言っても、私は、そのどちらかに強く肩入れするつもりも、基本的にはない。

「なぜ勉強するのか」「何のために学校はあるのか」という論点は、学校教育が「上手くいかないとき」(社会的に何かしらの指標が明らかに悪くなったとき)に、持ちあがる。
本書の中でも、「旧制高等学校の時代の方が良かった」という論はその典型である。「高度成長の頃が良かった」でも、「松下村塾が理想である」も、基本的には同じ構造である。

そして、「どんな人間を輩出・育成すれば、満足なのか」という問いは、棚上げしたまま、「現場・制度をどう変えたら、、、」という議論のみが交わされる。その上、一朝一夕に結実しない成果、意図と成果が容易に一致しないこと、などと相まって、泥沼に突入する。
「どの指標に問題意識を感じているのか」について、クリアにすること・共有することがスタートラインであるにも関わらず、これが放置されていることは、大きな問題である。これがなければ、然るべくして議論は空転する。

その中で異彩を放つのは、やはり石原慎太郎である。書き出しから、見ている世界の広さと、人間的な肝の太さが伝わってくる。あろうことか、学校教育に対して、そもそも否定的であることをあけすけに語る。こうなってくると、完全に独壇場であり、初めからダブルスタンダードで出発しているがために、どんな結論をもってきても、否定できなくなる。実に巧妙であり、これはある種「優れたリーダー」とされる人の常套手段である。
(私がこれに賛同するかは、敢えて言及しない。)

ソビエト崩壊直前に、危機感を露わにした「アメリカのやり方」を引き合いに出すなど、懐かしい側面はある。そして、この時代に、しかるべきものを選択していれば、もちろん、20年後の現在の姿は、今のようにはなっていない。当然ながら、「その理想が、完全に実現していれば」という前提である。

書き始めたら長くなりそうなので、一度簡単に結論を述べておく。
すべてを否定してもあまり生産的でないこととも照らすと、2人の文学関係者の指摘は、極めて重要である。どれだけ前置きが長かろうが、他の人とのバランスが悪かろうが、彼らの指摘には、大いに価値があるというのが、私の意見である。
それも、残念ながら、バランスに配慮してか、前置きだけ・ちょっとした例で終わってしまっている。

「ウェルビーイングが叫ばれる時代だから」と前置きして解決する問題かどうかもわからないが、教育や、それが目指す理想社会は、極めて多くの要素を含んでいるし、同時に、直観的に理解されるべきものでもある。
場合によっては、この理解こそ、教育をもって実現されるべきものかもしれない。同様に前提ばかりで、誰が読んでもはぐらかしているようにしか、取れないであろうが、ある程度は、実現可能ではなかろうかという方向性のみ指摘しつつ、内容は先送りする。

そうこうしている間に、もっと新しい文献にあたるべきかもしれない。テクノロジーは、20年で、驚くほど進歩している。

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