よもだそばのこと

その蕎麦屋は銀座のプランタンの近くにある。

名前はよもだそばで、とにかく店が狭い。

うなぎの寝床と呼ばれる奥に細長い店で、入って奥の右側が厨房、左側に10席くらいのカウンターがある。

お客はみんなよもだそばは狭いと心得ていて、入り口の券売機で食券を買ったら、店を出る他のお客やお店の方の邪魔にならないように、身体を小さくして右の壁に並ぶ。

そして店長と思われる西郷隆盛に似た方が「食券、よろしいですか」と声をかけてくれるのをジッと待つ。

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昼食は外で蕎麦を食べると決めてから何年くらい経つだろう。

若い頃は中華屋でレバニラ定食や中華丼を、松屋で牛カルビ定食やキムチ入り牛めしを食べていたのだが、妻と付き合いはじめてから、いつの間にか昼食は蕎麦を食べるようになった。

そう、私が蕎麦を食べるようになったのは妻と妻のお父さんの影響なのだ。

妻のご両親は佐賀出身なのだが、お父さんが法務省で勤めることになり、東京に来てからは生活スタイルを全て「東京風」に変えたらしい。

妻のお父さんの口から九州訛りは聞いたことがない。そして、朝食には納豆を食べるし、晩酌には日本酒を飲むし、もちろん昼食には蕎麦を食べる。

しかし、妻のお母さんはずっと主婦だったせいか、あの可愛らしい九州訛りで喋るし、家族で蕎麦屋に行ったときも、ひとりだけうどんを注文するらしい。

そして妻のお母さんが、蕎麦屋でひとりうどんを食べていると、必ずお父さんが「蕎麦屋でうどんを頼む奴があるか」と言い、お母さんが「うどんが好きなんだから良いじゃないねえ」と幼い妻に言うのが「お決まり」だったらしい。

話は変わるが、私の妻はどんな料理屋に入っても、必ずワインを注文する。洋食の店では当然だが、中華屋でも焼鳥屋でも、寿司屋でも大衆居酒屋でも必ずワインを飲む。

しかし私と妻は蕎麦屋ではお酒を飲む習慣はないので、蕎麦屋でワインを飲んでいる妻は見たことがない。

いつか年をとって、ゆっくりと時間が出来たら昼から妻と娘と3人で、蕎麦屋でお酒を飲んでみたいと思う。

そして私が日本酒でちびりちびりとやっていると、妻が板わさに白ワインをあわせているのを見つけて、「蕎麦屋でワインを飲む奴があるか」と言ってみたいのだが、そんな言葉を妻に言えるかどうかは全く自信がない。

 ※

よもだそばは安くて美味しい。美味しくて安い。

その辺の街の蕎麦屋よりよっぽど良い出汁の味がするのに、かけそばが250円だ。

天ぷらはもちろん目の前で揚げたてで、若いサラリーマンを意識してかボリュームも大きい。

そしてよもだそばは実はカレーが有名な店でもある。周りのお客を見るとカレーを食べている人が多いので、カレーを目当てに来ているお客も多そうだ。

蕎麦屋のカレーと言えば和風だしがきいていて生煮えの玉ねぎが入ったあのどろっとしたカレーを想像すると思うが、よもだそばのカレーは本格的なインドカレーだ。

このあたりの蕎麦屋のセオリーからの外し方や自由さもよもだそばの魅力だ。

そしてよもだそばのお客は誰もひとことも喋らないしスマホもさわらない。

女性のお客も3割くらいいるのだが、女性もみんなハードボイルドだ。

西郷隆盛似の店長の前に食券を置き、「温かいお蕎麦で」とひとことだけ伝え、2、3分で蕎麦をかきこんで、「ごちそうさま」と厨房に声をかけ、さっと銀座の街に飛び出す。

私も最近やっとそのよもだそばのマナーに慣れてきて、西郷隆盛似の店長に「まいど」と声をかけられるようになった。

ところで私は、毎週水曜日は銀座でアロマヨガというのに出ている。

そしてそのアロマヨガの帰りに必ずそのよもだそばに立ち寄るのだが、たぶん身体からラベンダーやビャクダンの香りを発しているはずで、西郷隆盛似の店長に「あの香水臭い男、毎週水曜日にこの時間にやってきて、きつねそばしか食べないし、何やってる人なんだろうなあ」と思われているに違いない。

そんな銀座ならではの謎の人間たちが行き交い集う懐の深さもよもだそばの魅力だ。

東京で食べる蕎麦の美味しさが最近やっとわかてきたような気がする。

#コラム

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この記事は投げ銭制です。この後、オマケで僕のちょっとした個人的なことをすごく短く書いています(大したこと書いてません)。今日は「炭水化物を抜いたランチって」です。

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