バー・ムーン・ビーチ 序章

月に「静かの海」という名前の海がある。

場所はうさぎの耳の付け根あたりだ。

私の国ではあの月の模様を「うさぎ」だと考えている。月にはうさぎがいて、餅をついていると昔は信じていたそうだ。

月で餅をつくうさぎ。

うさぎはいったい誰のために餅をついていたのだろう。月旅行にきた人達にわけていたのだろうか。それともうさぎが自分で食べていたのだろうか。しかし、うさぎが食べるのは確かニンジンだったはずだ。きっと月には餅を好きな誰かがいたのだろう。その誰かのためにうさぎは餅をついていたのだ。

誰かのために月の上で餅をつくうさぎ達。

窓を開けて夜空を見上げてほしい。月の表面の右のあたり。時計で言うと2時から3時までのあたりに二本の影があるのはわかるだろうか。それがうさぎの耳だ。そしてそのうさぎの耳の付け根あたりに静かの海がある。

静かの海はとても暗い。世界中の夜を閉じこめたように暗い。

世界中の夜を閉じこめた海。

 ※

昔、世界中の夜を集めさせた王様がいた。その王様は夜を愛し昼を憎んだ。真夜中に書いた愛の詩が朝になると魔法が消えてしまうのを憎んだ。

王様は家来達に世界中の夜を集めさせた。集められた夜は王様の部屋に運ばれた。王様の部屋の中の夜の闇は日々濃くなっていった。王様は暗闇の中でたくさんの詩を書いた。

その詩を盲目の美女に歌わせた。盲目の美女にも王様の部屋の闇が毎日濃くなっていくのがわかった。

夜の闇が濃くなると王様の詩は自由になれた。王様から言葉はあふれだし、盲目の美女がそれを拾い集め歌にした。

ある日、王様の詩は翼を得て部屋の外にまで飛び出した。驚いたことに王様の詩は外の昼の光にさらされても魔法は消えなかった。王様は本物の詩人になったのだ。

国民は自分達の王様が本物の詩人になったのをとても誇りに思った。

国民は王様が世界中の夜を集めた部屋から出てくるのを待った。しかし王様は昼の世界には出てこなかった。王様は夜の闇になってしまった。

王様が書いた詩も夜の闇になった。王様と詩が闇になった後、闇は部屋の外に溶けだし、世界中に王様の詩は流れた。

世界中に流れた王様の夜の闇の詩。

 ※

目の前には世界中の夜を閉じこめたような暗い海がある。

静かの海はその名前が表すようにとても静かだ。波の音も潮風の音も聞こえない。試しに静かの海に向かってあなたの名前を大声で叫んでみる。

「  !」。

叫んだはずのあなたの名前は静かの海がすべて吸い取ってしまう。

私は何度か咳をした後、もう一度あなたの名前を静かにつぶやいてみる。

「  」。

また静かの海が私の声を吸い取ってしまったのだろう。あたりは何億年も前からそうであるようにいたって静かなままだ。

私はあなた以外の別の人の名前を呼んでみようと思うが、誰の名前も思いつかない。静かの海は暗くてとても静かだ。

この静かの海の浜辺から東の空を見上げると青い地球が夜空に浮かんでいるのが見える。乾いて何もない月から見ると青い地球はまるで生きている宝石のようだ。淡く輝いたコバルトブルーの石の表面には刻々と変化する白い模様。

私はあの青い地球を指輪にすることを想像してみる。やっぱり青い地球は少し熱いのだろうか。それともただの石だから冷たいのだろうか。

私はおもいきって手を伸ばし、青い地球に触れてみる。

青い地球は少し熱いが手で持てないほどでもない。私は青い地球をコートのポケットの中にそっとしのばせる。ポケットの中で少し熱い青い地球が息づいているのがわかる。やっぱり地球は生きているんだと実感する。

いつか地球に戻る日がきたらあなたにこの青い地球をプレゼントしようと思う。宝石師に頼んで指輪にしてもらおうか。いやネックレスにしてあなたの笑顔の下にこの青い地球が光るのも良いかも知れないと私は想像してみる。

ネックレスの紐は星でつくろうと思いつく。私は手を伸ばし、夜空の星を触ってみる。こちらも少し熱いが我慢できないほどではなさそうだ。

私は夜空の星をかき集めコートのポケットの中に入れる。地球がなくなり、星も少なくなってきた夜空はどんどん暗くなり始める。私は夜空中の星をかき集めポケットに入れる。すると月には本物の闇が訪れる。

暗闇の中の静かの海の浜辺はとても静かだ。

その時、月が自転する「ギシリ」という音があたりに響く。さすがに静かの海も月の自転する音だけは吸い取れないようだ。

 ※

静かの海の浜辺に小さい一軒家のバーがある。バーの名前は「バー・ムーン・ビーチ」。月の浜辺にあるからバー・ムーン・ビーチ。単純で覚えやすい名前だ。バーの名前は単純であればあるほど良い。

バー・ムーン・ビーチは煉瓦造りの小さな一軒家だ。小さい頃に読んだ絵本の中にこんな家が出てきたと思う。

 ※

少年はまるで吸い込まれるかのようにしてその暗い森の中に入っていきました。さっきまで明るかった太陽の光も森の中までは届きません。少年はとても不安になりました。何かわからない動物の泣き叫ぶ声が聞こえます。大きい木もこちらを見て笑っているように見えます。

少年は引き返そうかどうか悩みましたが、どちらが来た道なのかわからなくなっているのに気づきました。少年は心を落ち着けてそのまま真っ直ぐに歩くことに決めました。

前の方に明るい光が見えてきました。少年はその場所まで走りました。たどり着いてみるとそこだけは木が生えていない小さな広場でした。頭の上には太陽が見え、高いところでヒバリが飛んでいるのが見えます。

その広場には小さな煉瓦造りの家がありました。その家の窓からは何か良い匂いがしてきます。少年は自分が朝から何も食べていないのに気づきました。少年はその家に近づいていき、おもいきって大きい木の扉を叩きました。すると……

 ※

バー・ムーン・ビーチはそんな森の中にぽつんとあるような小さな煉瓦造りの一軒家だ。

木の扉は大きくて重い。その扉をおもいきって開けると右手に古くて厚い木のカウンターがある。椅子はそのカウンターに六脚あるだけだ。カウンターも椅子もそうとう古そうだが頑丈でとても安定感がある。天井は高い。バーの天井は高い方がお客様の心に広がりが生まれるからだそうだ。

席に座ると目の前にバーテンダーがいて、その後ろに酒瓶がずらりと並んでいる。

その酒瓶の向こう側が透明のガラス張りになっていて、外が見えるようになっている。

バーは深夜にしか営業していないからそのガラスの向こう側はいつも真っ暗な闇だ。そして、運が良いときにはそのカウンターの席から青い地球が見える。

そのバーテンダーが私だ。

青い地球を眺めながらグラスを傾ける。旅人は青い地球を見て「そろそろ帰ろうかな」と思い、理由あって地球に戻れない人は懐かしさでいっぱいになる。

客の誰かがこういう。

「あの地球をオン・ザ・ロックにしてカルヴァドスをもらえるかな」

私はこう答える。

「お客様、ああ見えて地球は冷たくないんです。オン・ザ・ロックの氷代わりには使えないと思いますよ」

バー・ムーン・ビーチがオープンしてから何度も何度も繰り返されたつまらない冗談だ。

私たちはあの懐かしい地球の話に戻る。

#小説

この記事は投げ銭制です。この後、オマケで僕のちょっとした個人的なことをすごく短く書いています(大したこと書いてません)。今日は「この小説は」です。

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