2年前に書いた個人的な話です

※土曜日は読む人が激減することが判明したので、個人的な話を。

内田樹がこんなことを書いています。

>コナン・ドイルがシャーロック・ホームズの連作を書き続けたのは「書いてくれ」という読者の強い要請があったからです(本人はもう書くことにうんざりしてたらしいです)。でも、書こうと思えばいくらでも書けるから、それが際だった才能だということにコナン・ドイル自身は気がつかない。それよりは、心霊主義の伝導の方を「神が定めた自分の天職だ」と思っていた。「天職がある」という信憑は、かの天才の判断さえ曇らせたのです。

>天才でさえ勘違いするんですから、われわれ凡人が「本当にしたいこと」や「自分の天職」で勘違いすることはまず不可避である。そんな「内面の声」に耳を傾ける暇があったら、まわりの人からの「これ、やって」というリクエストににこやかに応じたほうがいい。たいていの場合、自分の能力適性についての自己評価よりは、まわりの人の外部評価のほが正確なんです。「これ、やって」というのは「あなたの例外的な潜在能力はこの分野で発揮される」という先行判断を含意しています。そういう言葉には素直に従った方がいい。

長い引用ですが、最近はやっぱりそういうことなのかなあと思ってます。

僕としては「柴田元幸周辺」な雰囲気で、文学や音楽について語ってみたいなあと思っているのですが、僕のところに取材の依頼が来るのは「女の子とキスする方法」とか「不倫とバーって?」とかなんですよね。

そして自分がコナン・ドイルと同じと言ってるわけではもちろんないのですが、やっぱり、みんなに「キスの話をして」と求められて、それににこやかに答えることが「僕の能力を発揮する」ことになるのかなあ、と思い始めてます。

そうかあ、コナン・ドイルってシャーロック・ホームズの話を書くことが全然、喜びや「俺って天才!」じゃなかったんですね。

ということは、「シャーロック・ホームズを生んだ男」として自分の名前が歴史に残ることってコナン・ドイルにとっては結構、屈辱なのかもしれないですね。

佐野史郎さんが「自分が死んだら、あのマザコン役の冬彦さんのドラマのシーンが流れるんだろうなあ」というような意味のことを言ってたことがありました。

僕は死んだら「ボサノヴァのバーの人」って言われるんだろうなあって思ってたのですが、最近はもしかして「キスの話とか面白い人」になってしまうのかなあと思ってます。

若い頃、親しくしてた友人が「40代になったら、雑誌で『最近の若い女の子の恋愛はね~』とかって語るのが夢だなあ」って言ってたことがあって、「おまえ、そんなのが夢なの? バカ~!」とか言って、二人で大笑いした覚えがあるのですが、はっと気がつけば、僕が今やってることって、あいつの夢だったんだって思いました。夢なら早く覚めればいいなあ。

#コラム

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