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伴走者(1/1加筆修正)

遠藤は
イエスが無力であることに
意味があると考えた。

ただ
無力であるが
同伴者として、
苦しむ人とともにある。

それゆえに、
イエスは十字火の死によって
人間の永遠の同伴者となる。

イエスの復活とは
その愛が
人々のなかに受けつがれて
生きるということ。

このように遠藤は、
キリスト教から縁遠い
日本人にも実感できる
復活の意味を考えた。

遠藤周作

もうすぐ
2023年が終わり
2024年が始まる。

一年を振り返り
何を学んだか
考えて居る。

5月3日は
わたしの生涯の
転機となった。

遠藤周作は、


今もなお、わたしの
気づきを待っている。

遠藤はキリストを
同伴者と定義した。
無力であると定義した。

苦しみを
分かち合う者とした。

教師、導師、心理師。


わたしは、期せずして
人々の中に在って
「導く」ことを
生業として来たようだ。

それ故に
何度転生しても
挫折したのではないか
そう思うに至った。

ところでわたしは


学生時代に遠藤の作品と
出会っている。
北杜夫、井上ひさしとも。

わたしは
三者の共通点として
人間性の追求において
笑いと涙という要素を
欠かさなかったことに
注目する。

しかしながらわたしは、
肩ひじを張って、
まなじりを決して、
伝えるという行ないを通じ
より良く生きることについて
伝え続けてきた。

それでは伝わらないと、
今、初めて思い至った。

伴走的福祉


このコトバを
実践出来ずに
理屈として知っていた。

遠藤が、
キリストの無力を考え、
一緒に苦しむことを
愛と考えたことも、
作品を通して知っていた。

今日、
遠藤の同伴者と
わたしが目指した伴走者とが
融合して一つとなり
わたしの中に芽生えた。

ゲシュタルトの祈り


わたしは
誰も助けることは出来ない。
その人自らが
自分をあるがままに認め
愛おしむ中で、
自分で自分を救うのだ。

わたしは、
あなたが苦しむとき
一緒に苦しむことが出来る。
わたし自身の苦しみとして。

たすけることはおろか
支えることも出来ないのに、
なんとか力づけよう
助けようとしていた。

わたしの定義するしあわせの方向に。

助けるとは、
そういうことだったのだ。

あなたの生き方を
わたしの生き方に変えよう
そうすることが
実は
わたしがしてきた
助けたいということ。

あなたの生き方を
わたしがコントロールする。

してはいけない支配を
そうと知らずにしていた。

去年学んだのは
わたしの思い違いが
あなたのしあわせを
壊したということである。

それを認め
考えを、
行ないを改めよう。

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