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生きるということ… 人とのかかわりにおいてもっとも重要なこと

〇 わたしたちは、生きている。


生命とは、自分が使うことの出来る時間のことである。
わたしたちは、
自分の生命を自分自身のために、
どのように使うかを決めて、
そのように使える時間を持っている。

持っているけど、
そのように使っているのかな~
 

〇 理想の生き方


わたしは自分のいのちを、
わたしが出会った誰かのために使うことで、
わたしの幸せが大きく育つことを
知っている。

でも、
わたしが誰かのために使うのは、
その人のためにと思うときと、
思わないときがある。

昨日、
雨に濡れながら
ベビーカーを押して走る女性を見て
運転しているクルマを引き返して
「乗って」と声を掛けたと書いた。

どうして声を掛けたか。

それができる立場にあったから
そうしたかったから
自分を満足させたかったから

決してお礼を言われようとは
夢にも思わなかった。
ただ、
お母さんはともかく、
子どもは濡れたらいけないだろう
そう考えた。
 

〇 なぜ、誰かのために時間を使うのか。


発展途上国で、ペシャワール会の中村哲さんのような志しをもって、
現地の人たちのために尽くした人がおられる。

そのように、歴代の多くの偉大な人たちが
自分のことのように
現地の人の力になった話があるけれど、
わたしが誰かのために、という行動を取る時は
決して自分の心が広く、共感する力が強くてそうするのではない。


今回のベビーカーのように、
自分で意識する、しないにかかわらず、
わたし自身のための行動でしかないのだ。

わたしはそれを、恥じない。
自分中心の考え方での行いだという事を
恥ずべきではない。
それどころか、大いに認めて、人にはそのように告げたい。

その「好意」を受けるか、受けないか
相手が決めることだ。

記事にしたあと、
「乗って来ない」のが当然と指摘されたし、
自分でも
訴えられてもおかしくなかった、
そう考えもした。

断られてがっかりした。
危ない行動だと気づいて、おどろき、落ち込んだ。

わたしと、若いお母さんがそれぞれの責任でしたこと。
誰からも、とがめだてされることではない。

二尋さんから、受け取る、受け取らないは別として
好意を寄せられたことによって、
相手はほっこりした気持ちになったかも知れないよ
そう言ってもらった。

事実は一つだけれど、
そして、感じているわたしは、私だけひとりだけど、
人の言葉によって、
刻々と変化して、
今、わたしの中におさまりがついたところだ。

無謀なことをしたけれど、
やっぱり、自分らしい事だったと
自己満足している。

 〇 自己開示する。


自分をできるだけ正確に知ってもらって
その上で認めてもらうために、
自分について語ることが大事だと思う。

ばっぷくどん二世は、
誤ってアカウントを消した一世に比べ、
3倍近いフォロワーさんがいる。

フォロワー数が増えたのは
プラットフォームになるマガジンへの加盟が大きい。

フォロワー数が増えるのを
わたしは、喜んではいない。
淡々と見ている。

記事の内容が変った。
一世は、過去のわたしの創作物の転載だった。
もちろん、それもわたしらしいことしか書いてない。

しかし、
過去のわたしは、今は居ない。
居るのは、
今のわたしなのだと考えて、
消え去った記事に未練はなかった。

ただ、
ほかのnoterさんたちと交わしたコメント、
書き込んだコメントが消えたことには、
とても寂しさを感じた。

昨日のわたしはいないけれど、
多くの人がそうであるように、
過去の自分をベースにして
今の自分があることは否めない。

そのことと、
コメントを交わした人たちとの関係は
密接な関係があるはず。

〇 残念なことが一つ。


わたし一世をサポートしてくれていた人が
自らのアカウントを突然、
消去してしまったこと。

その人の記事は、サイトは、もう閲覧できない。
もちろん、コメントもない。

アカウントを消すというのは、
こうゆう事なんだと
思い知らされている。

 〇 相手に求める。


わたしが心を開けば、
開いた相手もわたしに心を開く。

でも人によっては、わたしに開けない人もある。

その人は心に錠前を掛けている。
その錠前をこじ開けたら、
相手との関係は確実に壊れる。

わたしは、知らぬ間に、
そういうことをしてしまったのかもしれない。

今となっては、確かめようのない事。

ベビーカーの女性と同じように。
 

〇 合縁奇縁あいえんきえん


この世には縁が実在している。

わたしだけでなく、みんなもどこかでそう信じている。

人はあの世からやってきて、あの世にもどる。
どの時代の、
どの土地の、
誰の子どもとして生まれるか、
どんな人と出会って生きるか、
自分で選ぶと教えられた。
そして、
その環境の中で修行するという考えが
宗教である。

◎ 人生は思い通りにはならない。


わたしたちは、
お互いに迷惑(迷惑ではないですね。負担という程度の言葉がふさわしそうです。12/2付記)かけあって生きている。
なぜか。

それぞれが自分中心で生きたいから、だから必ず衝突する。

その事実は、変えることができない。
過去は変えられないし、
未来はまだ始まっていないから、
今を生きるのである。

できるだけ小さな衝突にとどめて、
折り合いをつけながら一緒に生きることが
しあわせに近づくこと

そう考えている。
 

◎ みんな自己中心の生き方。


自己中心的な生き方をしているから、
誰かのためを考えて生きるくらいで、
わたしにとっても、相手にとっても
ちょうど良い生き方になる。

だから、
わたしの時間を
誰かのために使って生きることを
選びたい。

サポート、ありがとうございます。もっと勉強して、少しでもお役に立てる記事を送りたいと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。