春節と芽生えと愛
おはようございます、coucouさん。
コメント欄に書き始めると、
思いのほか長くなりそうなので、
わたしの記事を起こすことにしました。
きょう2月10日は、特別な日です。
本日のcoucouさんの記事、
「960.そう、我慢なんてしない。…」のテーマは『愛』、かな。
与える愛。
自分の再構成
わたしは昨秋、アイデンティティ崩壊に陥り、
このnoteのアカウントを消去してしまいました。
すぐに、あらためて新しいアカウントを作り、
同じタイトルばっぷくどんを書き始めました。
ばっぷくどんに「自分について」というマガジンがあります。
崩れ落ちた自分というパーツを拾い集めてもう一度
自分を再構成する試みであり、同じような苦しみの人に残す足跡です。
十二月、いや、恐らくは十月の終わり頃から
自分の中の空気が替わって、
知らぬ間に自分を見つめることを放棄していました。
今日まで
見捨てられ不安
coucouさんの960によって、
この間の自分を振り返る作業を通じてわたしの中にある、
共依存的な一面を思い出しました。
そもそものきっかけは、
わたしの大切な人からの指摘です。
その方は自らが共依存であり、自助グループに参加し、
脱却する事にチャレンジしていることを聴いていましたから、
当然のこと依存症、共依存についての知識がある方でした。
指摘されてわたしは、大いに驚きました。
自分としては、
物事を客観的に、論理的に見ているという自覚がありましたから、
自分は単に、共感する力が強いだけだと思っていましたから。
しかしながらその方から、
共依存の特質のひとつとしての
境界線を明確に引けない一面がわたしにもある、との指摘を受けたのです。
つまり、
必要以上に対象に感情移入をしていながら、それに気づいていない。
自分の課題ではない事柄までも、わたしの課題として捉えて、考え、
一生懸命に結論を出そうとする一面が、境界線があいまいだからそうなるのだと指摘されたのでした。
しかし、そのように指摘されても、わたしはピンと来なかった。
ジワリジワリと、自分がそうであるかも知れないと自覚するまでに、
二か月以上かかりました。
つまり、自分なりに自分を見つめる作業を自然休止一した後に、
ようやく自覚するようになったわけです。
そう感じた後、自分に「共依存」的な側面があるのなら、と、共依存についてあらためて調べ始めたのでした。
インナーチャイルド、アダルトチルドレンについても。
よみがえった記憶の内容
その結果、3歳児の夏の数ケ月、
母親が脊椎カリエスの手術のため長期入院したことが頭をよぎりました。
もしかすると、その時の寂しかった経験を、
引きずっているのかも知れません。
小学校高学年の頃、
何の前触れもなく母親が亡くなることを考え、
とめどなく涙が流れることがありました。
母親が亡くなってしまったら、
自分はどうなるのだろうかと思うのでした。
ただそれだけのことでした。
人に依存しているだけで、誰の役にも立っていない自分。
それに対して、何一つ報いていないことを恥じ、
日曜の午後、書き置きをして家出を企てたことがありました。
遠くまで歩いて、
夕方が近くなると怖くなって帰宅し、
書き置きが読まれていないのを確認して
ホッとしたことがありました。
そのようなことと、
捨てられ不安との間に関係があるのか、ないのか、
わかりませんが…
もしもこれが、
わたしの心の中に埋まっている不安の元だとしたら、
その後のわたしのアイデンティティという樹の成長のすべてに、
影響しないわけがないわけがありません。
愛着形成(アタッチメント)
愛着という用語から連想される「愛」について、
アリストテレスの三つの愛について調べました。
この情報からは少なくとも
「愛は友人、恋人、親子、師弟、仲間など、幅広い対象に向けられる」
男女間のLOVEのような限定的なものではない。
そして
「友とは愛する他者、共にある他者のこと」であり、
単なる友だちのことではない、
そう言えるようです。
それ以外については、愛の種類についての情報もありました。
親子間の愛について、
子は、親の愛に応えることで子として成長してゆきます。
親も、子の愛に応えて親として価値のある人間であろうとします。
「子育ては、親育ち」という理由は、ここにあります。
愛は一方的でなく、双方向で影響し合うものを言うわけで、
押し付けの愛は、愛とは呼べないものになります。
研修での記憶(知識)
さて以前、愛着形成アタッチメントについて研修を受けたことがあります。
アタッチメントの説明として、掃除機のアタッチメントが例示されました。
親から子への愛情は、子どもの様子に合わせて変化するもの
そのように理解しました。
愛情にはペアの存在が不可欠ですから、
愛着形成についても、相互関係、交互関係の相手が必要なわけです。
わたしの場合、
わずか数カ月ではありましたが、二歳から三歳に至る間に、
母親との間での交互作用がなかった。
そして、
発達課題の自覚があることから、
その辺に根っこが掛かっているのかも知れず、
そんなことはないのかも知れませんね。
わたしはすっかり、そのことを忘れていましたから。
足元に埋めてしまっていたのか、
置き忘れただけなのか。
愛着形成と発達障がいと
わたしは人と群れることが苦手であるとか、
興味があるものにこだわって、
拘束された時間が苦手という特性があります。
これらに関して、SSWという仕事上の印象として、
わたしには発達課題があるようです。
愛着形成は親との間でだけに行われるものではなく、
信頼できるおとなとの間でもなされます。
しかしわたしの場合は、
愛着形成の不全は、じゅうぶんに補われなかった可能性があります。
わたしの小学生時代には、
自分の感情で子どもに接する教師が多かったように記憶しています。
今でも忘れられない、先生たちからのハラスメント経験がいくつかあり、
当時のわたしに「教師にだけはならない」と決意させました。
そして、信頼できないおとなたちのことばには、
子どもには伝えずに隠している裏がある、と確信しさせました。
そしてそれらは後に教師、SSWという仕事にあって、
内なるエネルギーとなり、
個人としての教師の在り方へのこだわりを作り上げたようです。
もしかして共依存か
”ひねくれ”ていたのかも知れません。
小学生時代の通知表の裏には毎年、
「協調性がない」と書かれていました。
わたしのことを理解してもらえなかったのでしょう。
友だちからも、先生からも。
すべてがそうだったわけではありません。
とくに、四年生の担任や理科室の先生たちは、
わたしと同じような発想をされ、
四年生の一年間や、理科室で過ごす時間は、
とても楽しかった。
中学入学後は、
さまざまな個性を持った教科担任の授業が面白かった。
でも、先生たちは友だちではない。
これまでの生涯を通じて、得られた友だちの数は少なく、
ひとりでいることを、ずっと好んでいます。
孤独を愛し、半分孤立していたいと思うわたしがいます。
ということは、
なかなか愛情の対象を持てないということです。
16パーソナリティー特性から考えられること
わたしはENFJ、主人公タイプに分類されています。
さらに、弱点についても言及されています。
共感性の高さは、教師、僧侶、SSW、
どれも相談援助者として機能する分については、
わたしが就いた職業にとってはプラスでした。
しかし、
わたし自身が共依存に陥ってしまうと、
仕事にも生活にも
支障が生じるわけです。
これから
原因が分かれば、対処法も分かるものです。
自分が課題を抱えているという自覚がない場合、
自覚しても原因が判明しない場合、
なによりも、
課題を解決しようとする意志がない場合、
課題を抱えたままで生きなければなりません。
わたしの場合は、
この仮定が正しければ、自己受容を進めて行くことで、
多くの課題が解決していくだろうと考えられます。
noterさん方、助言がありましたら有難く頂戴いたしますので、
お願いします。
サポート、ありがとうございます。もっと勉強して、少しでもお役に立てる記事を送りたいと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。