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うわさ

「へっくしょん!!」

と家族の誰かがくしゃみをすると、必ず母は
「どこかでうわさされてるね」
という。

なんだか、こういういかにも現代的でない、発想だとかが私は大好きだ。

それにこれが本当なら、たぶん、うちの母はたいそう人気者だったんじゃないかというくらい、よく噂されている。

アメリカなんかで、くしゃみをするとどうなるのか。
父によると、「BLESS YOU!」と通りすがりの人や、乞食に声をかけられるらしい。なんでも、くしゃみしたときに魂が抜けちゃうのだとか。
あまりに良いタイミングで声をかけられたので、九州男児、心は江戸っ子の父はニンマリと微笑みながら思わず寄付(チップとでも言うべきか)をしたらしい。

文化というのは、ときに形骸化し、その中身を本質をちゃんと継承しきれなかったりする。
それはそれで、とってももったいない気もするけれど、上にあげたような、誰も本気でそうは思ってないけれど、思わずニンマリしちゃいたくなるような、そう、言うなればとっても粋な文化に心惹かれる。

反対に、つまらないこと、野暮なことを言う、と思うこともある。
もちろん、キチキチと細く気を配ることは大切だけど、それをしてしまうと、なんというか美学が損なわれることもある。
私の好きな話はある音楽家の話だ。
ピアニストである”彼”は、一曲引き終えると、ある記者が「さっきの演奏はどういう意味が込められているのですか。もしかして〇〇についてでしょうか。」と尋ねると、”彼”は再びピアノの前に座り直し、またさっきと同じ曲を演奏し直したのだ。

世の中には、もちろん分解することで、理解しやすくなるものは多くある。
わからないことは、ブレイクダウン(細分化)することで、捉えやすくなる。
そう、困難は分割せよ、だ。
でも、一方で、わからないことをわからないもの”X”としてそのまま捉えるということもまた、重要なことだ。
兎にも角にも、まず、”X”とおくことによって、解決の糸口が掴めることも多い。
おそらく、大切なのは、わかるものとわからないものとを”分ける”ことなのだろう。

さて、我々の人生には様々なことがある。
そのときそのときでは、もっとも正しいこと、またはそれに次ぐことを選んでいるつもりでも、後から振り返ると、ダメダメなだったなんてことはよくある。
物事の正しさ、なんてものは”時代”が決めるのである。
つまり、そのときそのときは最善と思われても、まったく見当違いでしたというのは、致し方のないことなのだ。

それでは私たちはどうするべきなのか。

より、美しいものを選ぼう。

これに尽きる。そういう形である種の納得感を持って生きるのがいい。
だからこそ、科学者が宗教を信奉することは決しておかしなことではないし、反対に科学的で合理的な宗教家がいてもいいのである。

そのために私たちは”美しさ”を学び追求するのだ。
その一つの形としての”道徳”や”正義”が生まれる。
もちろん、他者のそれと自分のそれが激しく衝突し合うことはある。
残念ながらそれは”致し方のない”こと。
故に、互いに”尊重”し合うことが”美徳”として必要不可欠なのだ。

多様性というのは、単に自分の中に多様を許すことではなく、各々が傑出した平均と比較すると異形であること、これを社会として受け入れるということ。
そして、それらが衝突・一体化・分離を経てさらに高次元の生成物を導くこと。
そう、私は捉えている。
衝突が殺戮を伴わなくても済むように、”尊重”し合うのだ。



それでは、紅茶を淹れてビスケットでも浸しながら、大好きな家族の話でもしましょうか。

鮑叔館 珠李


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