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優しさ

私は、心に十分の優しさを満たしていない。
故に、言葉や行動に配慮する。
これは何も、嘆いているわけでなく、年相応の程度と思う。
例えば、母や父、姉や兄を見ると、心の深さが窺える。
これは単に、特別素晴らしい人格を宿しているというより、それだけ私より長く、私のまだ見ぬ世界を既に見ているという側面もあるだろう。

優しさとは、難しいものである。
私は安い優しさを軽視するが、同時に高潔な優しさは、ときに相手の心を癒さず、突き放してしまう冷酷さを伴うのではないかと懐疑する。

はて、優しさとは何だろうか。
強い人は優しい人であろうか。
否、とするなら、弱い人は優しい人であろうか。
疑である。

優しくあろうとすることは、既に優しさであるように思う。

***

ところで、あなたは人は変われると思っているか。
私の答えは、“変われる”人は“変われる”という性質を変わらずに待つ人であり、“変わらない”人というのは“変わらない”という性質を変わらずに持つ人である。
ややこしいが、今のところこの考えは私の中でまだ、負けずに残っている。

もし、ある人が“変われる”性質を発揮することがあるなら、そのトリガーは優しさではないか。

優しさや愛や憎しみや、言い方の差はあれど、あの自己を超えた何かが、人の性質を一段上げるのに援けとなるのではないか。

優しさというのは何だろうか。
優れるとか優るとかとあるように、何かある基準からして高次元のものなのだろう。

孤独の研究に、終止符を打つのは、優しさと見た。孤独は1人では破れない。自己を超えた特殊な糸が、唯一あの闇を打ち破る。

そう、思えてならないのである。

鮑叔館 珠李

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