さよならの手紙
果たしてここまで赤裸々に自分のプライベートな事情を吐き出すことが良いことかわからない。ただ、もし私の心が想いが痛みがそしてまた愛おしい思い出がいつか誰かに寄り添うことができるならば、それを断る理由も、また、ないのである。
これはある特殊な事情を持った少年が、ごく一般的な家庭に生まれた人を愛し、その愛ゆえに(幾つかの年月を経て)さよならを告げる話である。
この先に目を通すのも良し、さっぱりわからぬわとnoteの街の隅っこの方に置いたままにするも、これまで通りあなたの自由である。
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さよなら、大好きな人
私は貴女が好きだ。ええ、愛しているとも、この地球上の誰よりも。これからそれを塗り替えないといけない、あるいは塗り替わり得ることに恐怖感を覚えながらしっかりと貴女を思い出の女(ひと)にできるように向き合ってみるよ。
貴女は私のなんだと問われれば、友達であり、片想いの人であり、恋人であり、つまるところホームズにとってのアイリーンのような人と言える。だがここでは、貴女との思い出にあるように「仲良しちゃん」と答えることにしよう。
私の青春を語ろうとすれば貴女を語ることになり、貴女との思い出を語ろうとすれば青春を語ることになる。大袈裟にいえば、怨讐であり、天使であったあなたの存在は私をより人間的に苦しめ同時に幸福の味を覚えさせた。毎日、ひとりの人を想うことが楽しく苦しいことであることを身をもって体験したのだ。
なぜ手紙を書くのかというと、貴女を思い出にすることが私にとって困難を極め、身を削るような思いのする作業であるからだ。それにこれは長く引きずるべきものではなく、互いの最も大切な人のためにもケジメをつけておくべきだからだ。
さて、何故困難であるかについてだが、それは簡単で私が貴女を好いているからである。だからこそ貴女の一挙手一投足が愛おしく、連絡が来れば胸が高鳴り、一つの返信を考えるのに百考え、昔の甘い記憶を辿ると、突然それが失われることを意識して寂しく思ってしまう。いわゆる恋煩いのようなものでいやはやどうしたものかという具合である。
おそらく一番手っ取り早い思い出化の手段は、連絡を断つことだろう。そうすることでそこそこの期間私はつらい思いに浸りしっかりと思い出にできよう。はっきりと失って悲しむことが荒治療であるがたしかである。
ここで考えてしまうのは、ただの友達にはなれないのかということだ。
私が思うにそれは無理だ。不可能である。おそらく友達として私と貴女は成立し得ない。恋心の呪いかもしれない。どうしても想いが湧き上がるだろうし、そうでなければ趣味が合うわけでも温度が近いわけでもない貴女といかように友情を交わすのか。腹を割って話す間柄ならば可能かもしれないが、悲しいかな私は貴女の心の声がついに聞こえなかった。最早、打つ手なし、である。
すなわち、貴女にできても私には到底できっこないのである。
ここで私はある一冊の思い出の本を参考にしてみようと思う。
“私は何も失っていない。ただ、貴女との6年間と愛を得ただけである”
と。
6年間、私は貴女の恋人になれなかった。何故なら、貴女を本当に愛してしまったのだから。
貴女を愛するゆー坊より
追伸
私は貴女を特別にしすぎた。他の誰よりも貴女と話すことで癒されたし満たされたしそんな自分がとっても好きでいられた。だからこそ貴女さえいれば強く優しくいられると本当にそう思ってしまうのだ。
きっと、私たちの関係というのは私たちの人生において必要な役目をおえたのだとおもう。
またいつの日か、違った形で出会えることを祈って。
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でもやっぱり、次に誰かを愛せるほどボクは器用じゃないかなぁ。
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