ポリコレ日和

ポケモン新作がポリコレに屈したかという話が盛り上がってて、ポケモンをただの一度もやったことがないおかげでポケモンに対する執着が皆無なうちにポリコレについて書いとこうと思う。


多数派が少数派を支援することで多様性を維持促進する欲求が今のポリティカルコレクトネスの根源にあるんじゃないかなって思うんだけど、そもそも多様という維持コスト高いものを何故求めるのかという疑問が、有性生殖の誕生で発生したであろう葛藤と似てて、このフラクタルさすごく面白いな〜っていうのがわたしにとってこのテーマの通奏低音だ。

人権思想とポリティカルコレクトネスと能力差別主義は、今の社会情勢上ほんっとたまたまおんなじ方向向いてるだけで、そのうちベクトルの違いがはっきりしてくるだろうし、特に能力差別主義と人権思想はある時点で戦争始はじめる、これはもう確実にそうなる。実際、ネオリベラリズムと弱者福祉が戦端を開いてもう何年か経つので、この戦いの始まりから終わりまで、とはいかないだろうけどいちばん火勢が強い期間をかなり間近にリアルタイムで生きられそうなのがとても嬉しい。

ついでに言うと人権思想は「人と人以外の境界」という根源的な問題を抱えているし、人権思想がその維持を大きく依存してる自然科学が人との境界にズームインし続ける動きを止めることは不可能なので、人権思想の解体すらありうると思ってる。人権思想側に立つものとして、ナイフエッジダンスも楽しめそうでお得感がある。

話を戻して、ポリティカルコレクトネスというのはその本質が日和見なので、だから、ポリティカルコレクトネスには常に「今の」と但し書きがつくし、冒頭わたしが述べたポリティカルコレクトネスにもまた「今の」がついてる。

たぶんポリティカルコレクトネスに胡散臭さ感じてる人のいくばくかはその日和見さを嗅ぎ取ってるんだと推測するし、で、日和見そのものは戦略の種類であって善悪とは全く独立した概念だからいいも悪いもない。善悪を判じようとするのが見当違いだ。

この辺の、日和見という態度への葛藤諸々について君子豹変小人革面という言葉で 易経でめちゃくちゃ美しくまとめてあって、流石中国四千年の歴史ってなる。人の業について網羅し尽くしていて、勝てる気がしない。

人文というものは、社会が変わっても陳腐化しないものこそが価値だ。何故なら人間社会を構成するのは常に人間であり、人間は人間の限界を越えられないからだ。少なくとも大幅には。
この点が、自然科学の目標が陳腐化することにあるのとは対照的だと思う。自然科学においてエポックメイキングな発見は、メイクされたエポックにおいては陳腐な存在になる。教科書に載り、発明者の個人名が失われ、誰でも当然知ってるただの事実になるのが自然科学の最高到達だから。

4000年前とその魂の根源が変わらない人類が、新しい技術に支援されて、どんな新しい社会を作ってゆくのか。今すごく激動の渦中だと思うので、この先を是非とも見たい。あと40年は生きたい。長生きするモチベーションがまたひとつ上がった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?