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ウルトラマントリガー最終回からニュージェネを考える

伝説の作品。その縮小再生産が本項で語るウルトラマントリガーという作品の総論となるだろう。非常に肯定的に見られていたように思う。しかし、おそらくそれはニュージェネという作品群の中でという話に限定される事は自明だろう。本作の物語のベースとなったウルトラマンティガとは作品としての質、具体的に言えば各キャラクターの掘り下げやSF設定。そして物語全体をミステリーとして語る面白さそのどれもが非凡な状況と言わざるを得ない。

現在のニュージェネレーションヒーローズという枠組みを解説しつつウルトラマンティガ トリガーの作品としての位置付けを考えたい。
ウルトラマンティガにおいて最終回に向けてエモーショナルな展開は過去のオムニバスと思われていたエピソードの積み重ねが集結する展開にあった。
ウルトラシリーズは大きく分けて3つの時代があると考えている。昭和期 平成期 ニュージェネレーション期だ。
昭和期は第1期(ウルトラQ ウルトラマン ウルトラセブン) 第2期ウルトラシリーズ(帰ってきた〜ウルトラマンレオ) とウルトラマン80までとする。これはファンがまだ作品の制作に入っていない時期で時折子供から見ても変なエピソードが入っていたりとムラがある状態だ。その中で沖縄 戦争 冷戦 差別などのテーマが下敷きにある作品群に感銘を受けたものたちがのち平成期の作品を手がける事になる。ウルトラマンティガ(1996)〜ウルトラマンガイア(1998)までの三作はSF設定の面白さや時折考えさせられる回(オビコをみた 悲しみの沼)を入れるなど昭和テイストを意識的に踏襲しつつウルトラマンの姿が変わるフォームチェンジを導入やウルトラマン=宇宙人という設定を変えるなど昔の作品との独立性(別別の世界観の物語)を作り上げた。
そしてウルトラマンメビウス(2006)では昭和要素(ウルトラ兄弟や過去の設定)と平成要素(フォームチェンジや2人のウルトラマン)を全てぶち込み、ウルトラマンで描けることを描き切ってしまった。
その結果、この後のウルトラシリーズは過去の要素を使いつつ新たな物語を模索していった。
怪獣の力のこもったカードで装備を変える仮面ライダー要素を活用したウルトラマンX(2015) 科学によって生み出され戦う事を仕込まれるもその運命に抗うウルトラマンジード(2017) 未知のテクノロジーをベースとしたロボットで怪獣と戦う防衛軍の戦いを描きエヴァンゲリオン要素を逆輸入したウルトラマンZ(2020)と続いてきた。


そしてトリガーの元ネタであるウルトラマンティガにおいて最終回に向けてエモーショナルな展開は過去のオムニバスと思われていたエピソードの積み重ねが集結する展開にあった。

いわゆるウルトラマンメビウスまでの作品(正確にはティガ ダイナ ガイア メビウス)の最終3部作といわれ過去回に出てきたキャラの登場などアツい展開が繰り広げられる。
しかし本作においてはその積み重ねが全くない状態でティガの真似をされても響くものは何もないのである。
特にティガ51話の「暗黒の支配者」にて世界中の人々がティガの映像を見ていて一度は敗北したティガに大人たちは絶望する。ティガが力を失い本来の石像の姿で海中に沈んでいくシーンが最終話の1話前である本話のラストシーンとして絶望感たっぷりに描写される。しかし子供たちは諦めなかった。子供たちのティガの勝利を信じる心の光によってウルトラマンは再び立ち上がるのだ。
ティガはこれに加え人々の思いがティガを救うという描写を第25話「悪魔の審判」で行っている。
この話ではキリエル人という一団が地球の守護神を名乗りウルトラマンと対立。その後二度目の登場を果たしたこのエピソードではウルトラマンを悪魔だとテレビで扇動し自身らが天使だと語るという今でいう陰謀論の様なことで人々の心に挑戦する。このエピソードの終盤ティガを物理的な光(車の照明やビルの光 ライト)で本当はティガを復活させる意味などないが人々のヒーローを信じる心が再び彼を立ち上がらせるのだ。
そして50話ではウルトラマンでない普通の人間でも光になる事が出来るのだという示唆が入る。
さて、ではトリガーでは何が起こったか。こういった描写を全てすっ飛ばしてウルトラマンが負けそうになる(石像に戻る もしくは次に変身したら死ぬなど対して絶望的な状況も踏んでいない)→子供達が応援→パワーアップして勝つ
という部分だけを描いてきたのだ。
そう、ウルトラマントリガーという作品の最もよくない点である必要な描写を省略するという部分がここでも発揮してしまっているのだ。

唐突にこの展開だけ持ってこられてもカタルシスがない。そういった積み重ねをトリガーではことごとく無視しているのが最終話で特に効いてきている。
その1つが各隊員のエピソードの欠如。これは作中でずっと感じていた違和感だ。主人公以外に5人の隊員がいるのだがキャラクターとしての掘り下げがない為 この人は筋トレキャラ この人は隊長キャラとキャラ付けだけとなっており何か良い風なセリフを言ってもキャラ同士の関係性の描写も希薄なため心に響かない。本話の最後にウルトラマンである主人公との今生の別れが訪れるがそのシーンも普通のシーンの様に通り過ぎてしまうほど何も感じない。これに対しといってしまうのは可哀想だが(現在のウルトラシリーズは以前の半分の話数しか作れないため)ティガの場合は各隊員の日常描写や掘り下げるお話がしっかりと作られていた。イルマ隊長であれば別居している息子とのエピソード 科学部門のホリイ隊員なら道を踏み外してしまった科学者仲間とのエピソード 副リーダームナカタなら仕事人としてのかっこよさやいかつい見た目にも関わらず酒が飲めないなど個々の物語がしっかり描写されているのも正反対の印象を受ける。

極め付けがトリガートゥルースの存在だ。本作に途中から登場する闇の巨人トリガーダークからその力を譲り受けた最後の形態になるのだが過去の要素のリファレンスだ。ウルトラマンガイアにおいて主人公と対立するもう1人の戦士アグルの力を持つ光を託す。彼はガイア理論的に人間撲滅を考えていたが真の敵にその思想を歪められていた事に気づきその後一旦作品から退場する。
ウルトラマンガイアは赤と銀の姿だったがアグルの力を手に入れて以降は黒いラインが入ったガイアV2となる。
もう1つはウルトラマンメビウスフェニックスブレイブこれも2人のウルトラマンの力が合わさり最終回にしか登場しない形態だ。
これが強いという意味がわからない。
22話ラストゲームで闇の巨人でも光の力を使える描写はある。しかしタイムパラドックス状態の為2つが本来1つだったという説明は納得度は低い。ティガでは光は光で闇は闇 同居は出来ずどちらかであると正義と悪の2項対立だったが、そうでない可能性を与えたという点では前進したといえるだろう。スターウォーズにおけるバランスの考え方とも重なる。だがアツい展開の力任せなストーリーの動かし方の為、光と闇合わさったら凄い力生まれそうじゃん という雑な脚本と言わざるを得ない。この点は光と闇という物語の根本の設定を最後までぼんやり使い続けたツケがまわったのだろう。
ティガの設定や見ていることを前提とした説明の省略はティガこ文脈を踏まえた中でしかトリガーを楽しめない様にしてしまった一種の枷となりSF設定や隊員達のドラマは壊滅的だ。
もはやこのウルトラシリーズのコードを編み込んでおけばファンは喜ぶと製作側に思われている様で正直馬鹿にされているように思う。そしてソーシャルメディアではこういった目配せに見事に肯定的に捉えられている。
ニュージェネシリーズはメビウスで描けることがなくなった中で平成作品の要素を入れつつ新たな物語を模索した戦いだったが残念ながら再び後退してしまったようである。

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