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#21 投稿20回記念特別番組:もう駄目だ

 noteでの連載も20回目となった。毎週月曜日に間に合うように何らか書いてきたが、得た知見があると知れば「流行りものは強い」ということだ。逆に云えば「流行りものでも書かない限りお前の実力ではウケない」ということである。イヤんなる。こういうのを目の当たりにするだけでもやった意味があったのではないか。

 もとい、先行きが不安になってきた。

 当方、人生が幸運なほうで、人の善意で助けられてきた一方、その幸運をわざわざドブに捨てるような選択をしてきたなぁ、と思いいたる。2003年、就職氷河期と呼ばれた時代、自分の師に2月のギリギリに新卒採用(正社員)を斡旋してもらったときもそうだし、縁あって出家修行をしかけたときもそうである。しかけた、ということはイコール「バッくれた」ということだ。

 なぜ人の好意を無にしてきたかというと「この先に待ち受けているものが嫌だなぁ」と思ってしまうからだ。これまでの人生、すべてにおいてそこは共通している。「この崖下のうす暗い職場で社長にせっつかれながら暗くなるまで缶詰になるのは嫌だなぁ」とか「ゆくゆくは上司とか同期になるんであろうこいつらと友だちになるのは嫌だなぁ」とか、行く先を想像したときに生理的に我慢できなくなるのであった。で、なし崩し的に(半ば意図的に自爆する形で)みんな亡いなってしまう。

 で、そういうのを我慢して、耐えてやり過ごしてきた人からしたら「わがままだなぁお前は」ということになる。わかる。

 が、聞いておくんなさいよ。耐えて手に入るものが想像できないのじゃよ。耐えて手に入るものが想像できるんならば、いくらでも我慢できた。印税は安くても単著が持てます、とかそういうのは我慢してきた。セックスのためにはわりと自己犠牲的になれたのもよく知っている(なれた、というあたりが老いだ)。こどもを作ろうと思ったのも、製造責任を考えたら他人事より真剣にできるのでは? という確信があったからだし。これはまぁそこそこやれている。ちゃんと飢えんと学校に行けている。

 「月刊カレンダァ」という、毎月何らかの絵を描いてカレンダーにするやつは1996年から続いている。これは「手を動かし続けないと何もしなくなるわね」という恐怖感から続いている気がする。さすがに25年やっているとなんらかの要領みたいなものが出来てきて、長くともまる一日くらいでできるようになってきた。カレンダァ、少なくともスキャナを導入した2000年の2月からのログは全部残っている。こう、続くものもあるのです。mixi日記も15年位続いてェる。

 するってぇとなんだ、noteはなんだろう、面倒な未来が見えないから続けられているんだろうか。それとも、未知である分、まだ思いもよらないような未来が待ち受けているかもしれない、という期待があるんだろうか。

 そろそろ記事にオチをつけねばならないんですが、「なるようになっていきます」というのも違うなぁ「仕事ください」でいいのかなあ。いやさ「もう少し続けるので面白がってもらえたらいいなぁ」だな。その結果として「お前こんなもん書いてみないか」というのがあればいいなぁ。正確な心情を説明するのにはづいぶんと文章量が要るのでございます。でありますので、ネタが尽きるまで、もうすこし、あと少し。

みなさんのおかげでまいばすのちくわや食パンに30%OFFのシールが付いているかいないかを気にせずに生きていくことができるかもしれません。よろしくお願いいたします。