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#4 ちからはパワー

 いい天気なのできのこを観てきた。

 というと愛茸家のよーであるが、えーと、源氏名妖怪きのこ、現状井口可奈の個展「ちからはパワー」を観てきた。

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 井口先生との(先生だよな)関係は浅く、古い。自慢だが彼女が小学生の頃から識ってる。まだ当時個人サイトというものが隆盛を誇っていたときに、600字の掌編で文藝修行をしようみたいなサイトを運営していて、その時の参加者にぴんくまはいたのであった。まーたわからない単語が出てくる。時系列を整理すると、井口先生が小中学校のときに当方に参加しており、その時の井口先生の個人サイトが「ぴんくまハウス」であり、もうちょっと成長して大学のサークルで芸人として活動を始めたあたりで「妖怪きのこ」と名乗り始めた。熊から茸へ進化しているので冬虫夏草の一種かもしれない。とまれ、ぴんくまハウス時のハンドルネームは「カナ」でありました。ついでに、学生時代のユニット名は「スキニーかまぼこ」でありました。これも後で使うかもしれないから一応書いておこうっと。
 なにがいいたいかというと、本稿、同業者とか何とかというよりも、遠い親戚のおっさんみたいな気持ちで書かねばならんということなのです。で、書きます。

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 会場は10坪くらいのギャラリースペースで、↑このようにこたつを設置して原稿を書いてはる。手元のカメラではまさに執筆中のポメラの画面が映されていて、左手の壁には今回の作品に至るプロットがピンクの付箋付きで掲示してある。お客さんは写真右端下で見切れている物販ブースでものを買っていいし、センターの椅子に座って小説書きというものを観察することが出来るってぇ寸法であります。なお、

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 作家本人が顔を上げるとこんなふうな風景が広がっておるんでございます。ふっと手を止めたときに何が見えるかというのは大事だよなー、というわけで一枚撮っときました。

 さて、小説書きに限らず、藝術全体の話として「作品」というのはそれぞれのアーティストの思考の終着点なんですが。言葉を選ばずに言い換えれば、思考が体内を巡りに巡った末の「排泄(=作品)」なんですが、井口先生の場合、そうした「創作活動をしている自分」というのも考えた末の「作品」だということになる。それは、スキニーかまぼこなどで(やっぱり使ったNE!)舞台に立った経験も含めた結果「小説を書いている姿を見世物にする」というところに結実しておるというわけです。
 で、その出力された作品を他人が享受することで、また新たなインスピレーションや影響なんかで循環していくんだと思うんですが。この辺の一連の活動に関する市井の人々のリアクションというのは、本人のまとめを見るのが一番面白いんでそっちを読むとよいです。すごいね、「でも無名でしょ?有名じゃないならいいよ」って。見世物である以上に同じ人間だと思ってないんだろうねぇ。

 あと、個人的にすごく面白かったのは、壁に貼ってあるプロットの立て方です。なかなか人がお話を作る過程というのはおおやけにならんのです。なんでならないかというと、秘密にしておきたいという向きもあるかと思うけれど、それよりもなによりも、そこまで厳密に言語化しなくていい部分だからだろうなと思った。それでも人のプロットのメモというのはものすごく面白くて、最初はふわーっと浮かんでいる「文学の感じ」を、なんとか紙の上に力づくで言語化していく作業がすさまじいのであった。吹けば飛ぶようなイメージを紙に押しつけて擦りつけてなんとか印画するような、これを並ならぬ努力と云わずしてなにを努力というのかみたいなのが観られてお得な感じさえあった。個展の帰り道では「今度わっちもやってみよう」とか思ったが、あれは並大抵の集中力で出来るもんではないです。アタシなんぞひどいですよぞ……いまネタ帳観たらいのいちばんに「ミスリルと味噌汁」とか書いてある。こういうところから無理やりでっちあげるようなやり方しか知らんのですあたしゃあ……。

「小説を書いていくところをお見せする」というのは、結局どうなんだろう。どうなんだろう、というのは仮にブームになったとしても「誰にでも出来ることではない」ということだ。「そういう不思議なことをやっている自分」を見せるのか、「普段通りの自分をパッケージする」のか、それだけでも「執筆以外のことを全部やってくれるマネージャを置く」くらいのことは考えていいだろうし、最終的に、いつもどおりの小説がアウトプットできないとしょうがないんじゃないかという気もする。

 どっちなのか、どっちでもいいけど「ただの不思議なイベント」で終わるか、「新しい芸術活動のかたち」になるかの分岐点にはいると思った。
 井口先生がもっと売れてしまったら、根本的なコンセプトが変わってきちゃうだろうしネ。

みなさんのおかげでまいばすのちくわや食パンに30%OFFのシールが付いているかいないかを気にせずに生きていくことができるかもしれません。よろしくお願いいたします。