祖母の道ゆき

2023年8月、祖母の訃報が入った。
今年の2月に90歳を迎えた祖母については、いつ何があってもおかしくないからと、できるだけ(年2~3回)会いに行っていて、そのたびに「これが最後かもしれない」と思っていたが、実際にそのときが来ると、「あれが最後だった」という奇妙な答え合わせをしている気分だった。

最後に会ったのは2022年10月だった。
去年の夏、生後6ヶ月の次男との密室生活を持て余していた私は、息抜きを兼ねて着付けを習おうとしていた。
和裁の学校を出た叔母が呉服店に就職した縁で、祖母の家には訪問着や小紋が何枚も眠っていて、誰も着ようとしないそれらをいつか着てみたいとずっと思っていた。
しかし育休中とはいえ、当時6歳4歳0歳の育児に追われていると、着付けなど習っている余裕はなかったが(実際ほとんど自宅で着付け練習できず相当しんどかったが)「5年後や10年後だと、祖母はもうこの世にいないかもしれない(着物が借りられない)」という理由が私の背中を強く押した。
まさか翌年亡くなるとは露ほども思わずに。

私が着付けを習うこと、そのために着物を借りたいことを申し出ると、祖母は「うちで一番いいやつ」という訪問着と袋帯(「いいやつ」なのにシミだらけなのが大雑把な祖母らしかった)、小紋と名古屋帯(こちらは綺麗だった)、肌襦袢や腰紐や帯枕といった着付け道具も全部出して、「借りる」と言い張る私をじっと見たあと、少し笑って「あげる」と言った。
当時89歳の祖母に、もう着るつもりがないことは明らかだった。
結果として、そのときもらった訪問着などは祖母の形見になった。私は祖母の相続人ではないので(相続人は母)、死後に着物のことを言い出すのは少々気が引ける。着付けを習うか悩んだ末に、「ばーちゃん、5年後はいないかもなあ……」と行動に移した自分グッジョブである。

着物を借りる、もとい、もらう目的で、2022年の夏から秋にかけては、かつてないほど頻繁に祖母に会いに行った。毎月のように行っていたと思う。
目まぐるしい日々の中で、着付けの稽古が順調に進み、なんとかやっているよという報告をしたのが10月だった。
私が子供たちを連れて会いに行ったあと、祖母は入院し、手術を行い、リハビリをして施設に入り、そして亡くなった。

同居していた叔父が言うには、「良いときに来てくれた」らしい。私が見た祖母の最後の姿が、病院でも施設でもなく、いつもの自宅だったことが、良かったのか悪かったのかはわからない。
会いに行こうと思えばいつでも行けた。それを「忙しい」と先延ばししていたのは事実だった。
2022年10月の時点で、私のことはわかっても、私の娘や息子の判別は怪しかったし、入退院を経た祖母の記憶が3分もたないと聞いて怖気づいてもいた。

祖母に会うためには、車で往復2時間かけて行く必要がある。
育児に仕事に忙殺されながら、貴重な土日を半日使って、「あんた誰だね?」と聞かれるために行く気力が私にはなかった。
私が好きだったのは、昔かたぎの広い家で「よく来たね」と出迎えてくれる祖母であって、病院や施設に面会に行く祖母ではなかった。
ちなみに、「あんた誰だね?」は、15年ほど前に亡くなった父方の祖母の最晩年の口癖で、面会に行くたび言われていた。「孫だよ!」と元気よく返しつつ、こっそり傷ついていたことを覚えている。

ただ、祖母は(今回亡くなったのは母方の祖母だ)、私と私の娘のことはどうやら覚えていたらしい。
通夜の席で、喪主の叔父から「会いたがっていた」と聞かされて愕然とした。そういうことは早く言ってくれ。会いたいと伝えていてくれたらすぐに行ったのに、なぜそこは遠慮するんだ。
叔父いわく「まさかこんなに早く亡くなるとは思わなかったから」言わなかったらしい。私から連絡を取らなかったことが、返す返すも悔やまれる。

とはいえ時間は巻き戻らない。
いまさら「もっと会いに行けば良かった」とは思わないが(今までも結構がんばって会いに行っていたので)、「病院か施設に面会に行けば良かった」とは思うし、欲しがっていた曾孫の写真(特に娘の写真)をもっとあげれば良かったとも思う。祖母の訪問着を着た姿も見せたかったが、叶わなかった。
私の経験上、この手の「やろうと思えばできたのに、面倒でやらなかったこと」は長く苦い後悔になる。ごめん。

言い訳にしかならないが、8月に入ったら会いに行くつもりだった。
面会の約束をする前に訃報が届き、まず思ったのは「間に合わなかった」だった。
死因は老衰で、突然だったらしい。前日の夜までは元気だったから、翌朝亡くなるとは誰も思わなかったと聞いた。
祖父も脳出血からの急死だったので、夫婦揃ってピンピンコロリを体現したことになるが、残された側としては、急にいなくなられるのは寂しい。
まあ、少しずつ弱っていくのを見るのも切ないから、どうしたって悲しいのだが。

祖母はたくましい人だった。
たくましすぎるがゆえに、90歳直前まで自宅で過ごし、ほとんど人の手を借りずに暮らしていた。
同居するバツ2の叔父に子供はおらず、祖父は20年前に急死した。本家でもある祖母の家は、叔父が死ねば断絶することが決定している。

自分の家に未来がないことを、祖母が嘆いたことがあった。
幼い曾孫(私の娘や息子)を眺めながら、「うちには嫁さんも子供もいない」と悲しげに言う祖母に、20年以上前にわかっていたことでしょうと内心で呆れもした。
当時80代後半の祖母が、60代後半の叔父をまだ若い息子だと思っているのが滑稽でもあった。
祖母の子供は3人いて、私の母、叔父、叔母と続く。跡取り息子の叔父を、祖母はわかりやすく溺愛した。そして、母はそれを苦々しく思っていた。よくある話だ。
余談だが、祖母の孫も3人いて、私、妹1、妹2と続く。叔父も叔母も子供に恵まれなかった。初孫の私を、祖母はわかりやすく溺愛した。妹1はそうでもないが、妹2からは「私が行っても、ばーちゃんは喜ばない」と認識されるほど露骨だった。面倒見のよい祖母だったが、無関心を隠さない人でもあった。

しかし、祖母からの溺愛は、私が結構がんばって会いに行っていた最大の理由でもある。
私は両親と反りが合わず、何をやっても否定されてきたわりには自尊心が高い。それは無条件に甘やかしてくれた祖母のおかげだと考えているので、恩返しのつもりで会いに行っていた。
勉強やスポーツができなくても、何者にもなれなくても、存在しているだけで喜んでくれる人が1人でもいるというのは、心強いものだった。

祖母に会いに行く道のりは、近年は誰かと(主に娘や息子と)必ず一緒だった。
通夜は私だけ参加したため、車のハンドルを握り締めて、幾度も通った道をひとりで駆けた。この道の先に祖母がいないことが不思議だった。火葬前なので遺体はあったが、魂の抜けた器はもはや祖母ではないと私は思う。
翌日の葬儀は家族全員で参列し、夫と共に7歳5歳1歳を連れて、祖母の亡骸を荼毘に付すのを見届けた。焼き場の待ち時間は曾孫たちが揃って賑やかだった。

7人いる曾孫の中でも、会う機会の多かった私の娘を、祖母は可愛がってくれていた。
「この子はシマノ顔だ(祖母の旧姓はシマノ(仮)という)」と嬉しそうに話していたと聞く。家の断絶が決定している祖母にとって、自分に似た顔の曾孫の存在は救いだったのかもしれない。
まあ、私に言わせれば、娘の顔は夫に激似なので、シマノ顔かと言われると首をかしげてしまうのだが。祖母がそう感じていたならそれでいいのだろう。

葬儀の翌週、かつての祖母の家に行った。
当たり前だが、祖母はもう「よく来たね」と出迎えてはくれない。遺影と遺骨に手を合わせ、叔父と祖母の話をした。今はまだ鮮明な記憶も、年月と共に色褪せて、20年も経てば漠然とした懐かしさだけが残るようになる。
20年前に亡くなった祖父を思い出すとき、真っ先に浮かぶのは遺影の顔だ。祖母もいずれそうなっていく。

私にとって祖母は都合よく甘えられる人だったし、祖母にとっての私も都合よく溺愛できる孫だった。
その都合のよさが祖母の入院によって失われたから、面会に行くことに私はあれほど消極的だったのだと思う。
血は繋がっているが家族ではなかった。お互いに都合のいいところしか見ていなかった。だからこそ私は祖母が好きだった。

都合のいい外孫にできるのは会いに行くことぐらいで、祖母亡き後もそれは変わらない。
祖母に会うための道のりを、祖母の死を確認する道のりに変えて、叔父が死んで家が廃墟になるまで続けていく(できれば廃墟になる前にどうにかしてほしいが)
祖母の家の断絶が、来年なのか20年後なのかはわからない。20年程度なら、無理のない範囲で細々とできるだろう。正月には祖母の訪問着を着て、「見せに来たよ」と墓前に報告するつもりでいる。
まあ、行くのはたぶん年1回だ。そこはどうか許してほしい。


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