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望郷と精神的自傷

ふと、青春ヘラの記事を読んでいる時に思い出した。僕は田舎に青春を持っていないのだ。
オタクならおそらく一度二度は夢想したことがあるだろう、田舎。
セミの聲と夏の日差し。麦わら帽子に延々と続く田んぼ、それから可愛い幼なじみ。
みんな大好きで、どこにあるかも分からない理想郷だ。
けれど実際に行ったことがあるのは何割程度なのだろうか。
僕は前述の通り無い。祖母の家は両親ともに住宅街で、大祖母の家に至ってはホテルである。いや、ホテル暮らしとかではなく、ホテルのオーナーだったのだ。そもそも、幼なじみでさえ数度の引越しで存在しないのだ。我ながら悲しい人生だと悲観する。
そんな訳で田舎に縁は無い。けれど何故か想像するたびに掻き毟るような辛さだけがある。
困惑と納得が渦をまく混沌。
よくよく分析すればそれは田舎に対する憧れでも、幼なじみとのイチャイチャ願望でもなく、ただの青春の思い出不足だった。
より残酷に解剖するならば、それはカサブタを剥がす瞬間の気持ちに近い。ぐちゃぐちゃに膿んだ、15からの3年間。その掻き毟るような辛さはおそらく後悔とか、青春に対する憧れとか、SNSで視覚化され自分が経験できなかったあらゆる物に対する憎悪とか、そういう感情が混ざりいつしか自傷行為として現れていたのだろう。自己愛は気持ちがいい。
田舎というイメージで現れたのはおそらく最も安易に優しく現れる青春のイメージだからか。

望郷、憧れだ。田舎はきっと、たどり着けないからこそ美しく見えるのだ。スノードームみたいなものだと思う。アニメのような優しい田舎はきっと十代でしか体験出来ないもので、二十を過ぎれば田舎は、グロテスクな側面を見せて子供の幻想のテクスチャを剥がして貫通してしまう。
特に最近はSNSでの比較が容易なため、魔法はあっさりと解けてしまうだろう。

そんなどうでもいい話だ。僕は青春ヘラを外側から観測するだけの部外者だし、どちらかと言えば青春の終活をして墓に押し込もうとする側だ。
もう、終わりでいいと思っている。殺意と悔しさを持って、青春なぞクソ喰らえと嘘を言って誤魔化す人間だ。
それこそが、這ってでも前に進む方法だと信じて。

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