ググれば何でも出てくる時代に勉強する意味

 以前、某不登校YouTuberの「ググれば何でも出てくる時代に学校で何を勉強する必要があんじゃい!」という言説に触れて思ったのですが、むしろググれば何でも出てくる時代だからこそ逆に勉強しないといけないんじゃないかなと思いました。

 確かにググれば何でも出てくる時代なのは確かです。例えば総発注額数千万のコンサル資料の中を覗いたらデータ部分は殆どネットで閲覧可能な資料だったりすることもあり、極論データの入手に関してだけ言えばネットに繋がってさえいれば、皆年収8桁のコンサルトとフラットであるとすら言えるのかもしれません。

 ただ、ネットに流れて来る情報は最早氾濫した濁流の様で、何か検索してみても大量の何一つ有効な情報を含まない「如何でしたでしょうか」ブログがヒットしてしまうことからも分かる通り、ただ単に検索しただけでは真っ当な情報はむしろ得難くなっています。まずは濁流の中から目的に照らして必要な、それも真実性の高い情報を取り出さなければなりません。

 そして、その様な情報と言うのは殆どの場合、ただの数字や記号の羅列でしかなく、それ単体では殆ど何の値打もありません。例えば「品川駅の交通量」というデータはそれ単体ではほぼ何の役にも立ちません。

 ところで突然ですが、「品川駅徒歩5分に3000平米の土地をどう活用すれば良いか」をググれば答えは出るか。まず出ないと思います。ここで先ほどの意味のない数字の羅列であった「品川駅の交通量」のデータはこの問いの中に組み込まれれば、突然収益算定のパーツとなり、オフィスとレジとホテルを比較してCFシミュレーションを組んでIRRを計算すれば数十億からの出資金が飛んできて、その何倍もの資金を生み出すかもしれません。

 要は、今や情報とは彫刻家が彫像を掘り出す前の石くれの様なものであって、それ自体は何の意味も無く、中から形を見出して、加工する技術こそが知恵であり、それは勉強せずして得られることはないワケです。石の前で立ち尽くすか、芸術家として賞賛を受けるか、決めるのは自分自身かもですね。

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