30代の読書について

 「まず今日は自由に発言して議論を発散させましょう。一旦収束の事は気にせず、それは明日やればいいんです」

何かブレストをする際、大体こんな風に始ることが多い。まずはなるべく自由に発言して出てきた内容をまとめ、一旦出し切った所からまとめの作業を始める、議論の一つのやり方で一般的な光景かもしれない。

 これはブレスト・会議のやり方の一つであると同時に実は人生の過程、最近は特に読書に関しても同じではないかと思う。即ち年齢毎の読書の内容ややり方においても発散させる場面と、その後に収束させる場面が順繰りにやってくるのではないかと思う。

 発散というのは読書の中では所謂「乱読」がこれに当たる。ぼくも20代前半の頃などはブックオフの新書コーナーを歩いて気になった本を、それこそ歴史でも金融でも文学でも自己啓発でも手に取って買っていた。それはジャンルもそうだし、深さもバラバラで、基準は「面白そうか」の一択。全く門外漢の部門でも割とフランクに手に取ってみたものである。

 それからX年、今30代もそこそこ来た中ではその様な本の選び方というのは殆どしなくなった。ブックオフに行けば過去の習慣で新書コーナーに足は運んでしまうのだが、結論としてはそこで何かを手に取る率は激減してもっと言えばほぼゼロに近くなっている。理由は色々とあるのだが、その1つとして殆どの本について
「これらはこれからのぼくの人生にはあまり要らないな」
「この本を読んで得られるリターンに対して、投入する時間や集中力がペイしないな」
と思う様になってしまったことがある。これは累積の読書量がそこそこ重なった中で、タイトルと著者を見て何となく「こういう感じの中身かな」というのが想像しやすくなったこと(悪く言えば偏見をもってしまった)と、もう一つは自分の人生に必要なものは何かを考える様になったのがある。要は必要な読書とそれ以外とを明確に切り分け始めた。

 基本的に本を読むことは多くの人にとって有益だと思う。有益だと思うが万人にとってそうではない。例えば私の前職で一生営業をすることがほぼ決まっていたとすれば、話題としての新書を読む必要はあったとして、仕事という観点では専門書を読むことはほぼ意味の無い。その場合、読書なんかせずに他の事にリソースを投入すべきだと思う。20代は何が必要かが分からないのでそれを見極める為に乱読も一つの必要なメソッドではあったが30代以降の読書というのは自分の人生の現状と将来の展望とに照らして、真に必要と思われる内容・分量で実施するものであって、もし30代になって乱読をしている様であると、それはちょっと健全な状態とは言い難いのではないかとは思う。(もし仮に人生における読書の役割を余暇や娯楽と位置づけていたり、人生の行き詰まりを打破する為に新しい領域を拓こうとしているのであればこの限りではない)

 じゃあ具体的に今何を読んでいるのかと言えば、自分が関連する分野の専門書を読むことが増えた。これは会社の金でこれらのちょっとお高い書籍を買える様になったことが一番大きいが、それ以前に自分に最も必要で興味があるので呼んでいる。これらの本は基本的に読むストレスが非常に高いので、内容に興味を持てない段階でこれらを読解することは正直かなりハードルが高い。ので、20代でこれらを手に取ったとしても恐らくは一章も読み進められなかったと思う。30代になって、集中力等は昔より当然落ちているのだが、「面白いな」「興味深いな」と思う範囲は実は広がった。それにより専門書でも読む際のストレスというのは軽減されている。

結果的にだが20代で乱読により発散させて広げた物の中から、自分が適切と思った物を見つけてその分野をより深める方向に向いたというのが実態。今から20代である程度乱読したことを振り返るのであれば間違ってはいなかった様に思うが、今の狭く深くの読書が結果的に正しいかどうかはまた後日に判断することになる。とりあえずは今の方向性でもう暫く読んでいきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?