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【#観劇レポ】心は、魂は、囚われることはない。



形あるものや、体は、奪われたり、失ったり、囚われてしまうこともある。
でも、形ないもの。経験や、知識、そして心は、なにものにも、奪うことはできない。囚われない。縛られることはない。
「踊りたい」という気持ちは、なにものも踏み躙れないし、奪えないし、制することもできない。「踊りたい」と思ったが最後、あとはその人の動き出す体に、すべて任せるだけなのだ。



「好き」が思い余って、『佳人の戎場』サントラまで作ってしまった。内容は、分かる範囲の曲のみだが、それでも、一度聴くとあのシーンの、あの人の、あの踊り、ふとした動きや表情が思い出されて、何とも言えない気持ちになる。切なかったり、楽しかったり、悲しくなったり、元気になったり。
あと個人的には、ファンである某バンドの曲が、分かる範囲で少なくとも2曲、使われていたことに歓喜した。そのときのシーンも相俟って、アガる〜!と1人でニヤニヤしてしまった。
確かに言えるのは、また観たいな、と思っている自分がいるということ。観たいのだ、あの舞台が。観てほしいのだ、色んな人に。




あの時代に戦っていたのは、何も男だけではない。女も、体を張り、命を張り、たたかっていたのだ。
踊りだけでは、生きてこられなかった。だから、体を張るしかなかった。

そんな地獄のような日々の中差した、一筋の光。僥倖。
「あなたに賭けたい」と言ってくれる人がいる、その有難さ。

わたしは、涙が出るほど、その事実が嬉しかった。倭も、その周りの人々も、きっとそうだったろう。
どんな時代でもきっと、「この人の才能、実績。そのものに賭けたい」と思ってくれる人は、きっといる。たとえ身近にいないとしても、きっと、どこかに。
元勝様に向かって叫んだ甚八のように、わたしも今、叫びたい。

エンタメに関わる、全ての人よ!ここにいる佳人たちと仕事をしないなど、全く勿体無いことですぞ!
この人たちほど熱く、「向き合ってくれる人」は、なかなかいないから、きっと。

公式Instagramからお借りした写真。
ね?素敵でしょ?
こうして写真を観ただけで、また観たいな、と
恋しく思う、そんな舞台でした。









ここからは、特筆すべき役者さんについて・家族について書く。

まずは甚八役・平田瑞季ちゃんについて。
いや〜やっぱり素晴らしい。「縁の下の力持ち」、とは、まさに甚八のことである。こういう、「一見お調子者なんだけど、さりげなく周りを見ていて、誰かのために自分の身すら捧げられる人」を演らせたら、彼女の右に出る者はいないだろう。
それは、普段の彼女が「一見お調子者なんだけど、さりげなく周りを見ていて、誰かのために自分の身すら捧げられる人」だから、でもあると思う。多くは語らないが、彼女はそういう人である。明るいが思慮深く、気遣いができる人。普通に接していても、凄いなあ、と思わずにはいられない。
あとはやっぱりダンスが上手い!!!流石である。彼女にしかできない踊りがある。見ていると勇気がもらえる。彼女のダンスは、ヒーローのようなダンスである。
面会時も前と変わらず気さくに接してくれるのが嬉しすぎた。彼女といるとその楽しさの中に巻き込んでくれるので、わたしは彼女に会えるのが嬉しいのだ。


才蔵役・中田有紀さんについて。
初日を観て、ふと感じたのは、立ち居振る舞いの節々が、どことなく、藤原竜也さんに似ているな、ということであった。若き日の藤原竜也さんみたいな。
才蔵さんは壮年の面影と、少年の明るさを持ったような人だった。日々町娘たちに追いかけられつつ、小間物屋を営んでいる。その中で、踊りに生きる人々の苦しみや迷いに触れるも、彼の母のように、明るく、楽しく生きる術を、教えてくれる。人生は、つらく苦しいものかもしれない。でもその中に必ず、楽しいことも、嬉しいこともある。四面楚歌、もう何処にも逃げ場がない、と思うような状況でも、きっと、どこかに、突破口がある。そのことを教えてくれる人だ。
『白拍子』のシーンは、泣かずにはいられなかった。誰かが、誰かのために、一生懸命になって、何かをする。その輪が広がっていく。同じ志を持つ仲間が、同志が増えていく。そういうシチュエーションは、やっぱり感動してしまう。


佐助役・小山ごろーさんについて。
お芝居を引っ張ってくれていたのは、小山さんだとわたしは思った。彼女が物語を引っ張り、転がし、止めるところは止める。安定感のあるお芝居は観ていて楽しいし、観る側の感受性を安心して任せられる。
佐助さんは、開拓者だ。才蔵さんが「突破口を教えてくれる人」、甚八が「障害物を避けて道を整えてくれる人」なら、佐助さんは「突破口を切り開いてくれる人」。彼がいてくれて、よかった。本当に良かった。彼のように、純粋にエンターテイメントのことを考えてくれる人が、まだ現代にもいるから、今の時代の芸能は成り立っている。そんな人が1人もいなかったら、この国で『エンターテイメント』と呼べるものなど、とっくに無くなっているだろう。
彼はパイオニアだ。倭たちの未来は決して、明るく楽しいことだけではないだろう。きっとまだまだ、つらい思いもするし、嫌な出来事に直面することもあるだろう。でもそのたびに、佐助さんが必ず、駆け出してくれる。飄々としていて、その実、踊り子たちの未来を誰よりも考えてくれている、彼が、きっと。


トキ役・鈴谷和子さんについて。
か……かわいい〜!!というのが第一印象。なんだこの、絵に描いたような『後輩』は!!!
倭を心から尊敬し、自分に出来ることはないか必死に探し、糸口を見つけると後先考えずに追いかける。それなのに骨折り損で、何も掴めないこともあるけど……。
才蔵さんを町娘たちに混ざって追っかけた後のゼエハアが、「お疲れさまトキちゃん!!!」と頭をナデナデしつつ声をかけたいくらい疲れていたのが印象的だった。あとその道中で、多分別のことを考えて、その考えを振り払うみたいに「!」とワチャワチャッと手足を動かした(説明が致命的に下手)のも可愛かったです。
純粋に、踊り子として成長したい、と思っているだろうに、イヤに湿った感じのする世間の波に巻き込まれ、すんでのところで倭に助けられたシーンは、胸が熱くならざるを得なかった。ただ、踊りを愛し、踊りに愛された子を、そんな形で搾取させるのは、倭もそうだったとは思うが、わたしも許せなかったから。良かった、倭が、トキちゃんを救ってくれて。


元勝役・高橋美佳さんについて。
イヤ〜〜カッ………コよかった……!!!元勝様の夢女子になってしまった シンプルに
一時の白昼夢のような恋であっただろうが、でも、あの季節、あの瞬間、倭を愛していたのは本当だったんじゃないのか、と、セリフの無い彼の表情や仕草から、ひしひしと思わされた。身分さえ違っていれば、あるいは……と。
気品のある立ち居振る舞い、優しく倭を抱き寄せる手のひら、大切な簪を、大切な女人に手渡す指先。陰でコソコソ言われようと、周りの宮司たちに反対されようと、彼は彼なりに、倭との愛を貫こうとしていたのではないだろうか。
倭の夢の中に出てくるときも、回想に出てくるときも、元勝様は、いつも素敵だった。そりゃ〜そんな簡単には忘れられないわよ……。
なんか洒落た感想を、せめて「かっこよかったです!!!」とか一言でもお伝えできれば良かったのだが、わたしは筋金入りのコミュ障なので、面会時目が合った瞬間、母の後ろに隠れてニヤニヤすることしかできなかった。おそらく相当な変人(変態)だと思われたことだろう。南無三。


そして最後に、くちなわ役・原初音について。
いや〜!!!これ!!!わたしの姉です!!!(クソデカ大声)(良い笑顔)
姉は、強がりだ。嫌なことがあっても、つらいことがあっても、基本愚痴って笑い話にしてしまう。でも、その向こうに、泣き出してしまいたいほどキツい思いを隠していることも、わたしは知っている。
で、足がびくとも動かなくなり、思わず立ち尽くしてしまいそうなほど不安な気持ちとか、真夜中の真っ暗闇の布団の中、泣き叫びたくなるようなプレッシャーに苛まれているだろうな、というのも、わたしは何となく分かる。
前述した通り、彼女はま〜強がりなので、そんなことお首にも出さないし、悟られないように振る舞うし、強気な言葉で隠すけど。
そんな姉が、久しぶりに舞台を踏んだ。
押し潰そうとのしかかってくる不安やプレッシャーをなんとか押し返し、突き飛ばして、その手に初めて握った剣で、見事に真っ二つにした。
同じ日に生を受けた妹として、同じ芸事を志す同志として、わたしは、原初音という姉を、ひとりの女優を、心から尊敬する。芝居もダンスも殺陣もできるとか、わたしの姉、強すぎんか???なあ???これ、わたしの姉です!!!(2回目)(クソデカ大声)
千秋楽の日、わたしと母と、妹と、父で観劇した。普段あまり舞台を観ない父が、わたしたちの会話で爆笑して、泣いていた。きっと父も、舞台そのものに感動し、そして姉のことを、「大きくなったな、立派になったな」と思っていたに違いない。
姉の悪役を、初めて観た。ただの『悪』ではない、その下のバックボーンや、感情すらも透けて見えるような『悪』だった。彼女なりに研究と稽古を重ね、仲間たちと頭を寄せ合い、総監督である正安寺さんに師事し、くちなわを作り上げたのだろう。この舞台と、『くちなわ』というキャラクターが彼女の財産の一つになったのが、わたしはとても嬉しい。

画像左・妹、中・わたし、右・原初音(姉)。
この写真の姉、クッソクソクソカッコよくて
お気に入りです。









その他・好きなシーン等。

南座番頭・座頭の「ムリ!」「いいね?」は言わずもがなだよ!?!?妹もあそこのフレーズはお気に入りで、観劇後思わず一緒にやってしまった。あれいいな〜。小気味良い。初日と千秋楽を観劇したが、やっぱり千秋楽のリズム感は半端なかった。あの小気味よさ、クセになる。
番頭さんの、ギャルっ気溢れるダルそうな喋り方もめっちゃツボです。千秋楽の「酷いこと言うんです〜」の言い方とか、めっちゃギャルの喋り方で笑ってしまった。
北座の座頭の、普段の姿と佐助を叱るときの姿の違いのギャップがかっこよかった…。締めるところはしっかりと締める姿、すごくかっこよかったです。


佐助「嘘です」甚八・トキ「嘘かい!」からのトキ「もういい!」
ここかわいい〜〜!!!!!
佐助+甚八+トキ=かわいいなんよ これは方程式 実に面白い(ガリレオ)(湯川先生)
もうそこずっと仲良しでおってくれ ワチャワチャしとってくれ ズッ友でおってくれ 一生一緒にいてくれや(三木道三)
とまあこんな具合に語彙力が欠如するくらいには可愛かったです ハイ


『牡丹の季節』は、恋の甘さ・楽しさと、それが崩れ落ちて指の間からボロボロと溢れ落ちていくような喪失感・悲しみに、観ていて苦しくなった。
踊りだけで、台詞のないナンバーだったが、音楽の持つ力と、それぞれの役者さんの表現力が相乗効果を発揮して、かなり印象的なシーンになっていた。
そりゃ忘れたくもなるし、ふと思い出すと何とも言えない複雑な気持ちになるよね…。元勝様も、倭のように、日常のどこかで、あの頃を思い出したりするんだろうか。それとももう、何もかも忘れて、新しい恋をしていたり、仕事に打ち込んだりしているんだろうか。元勝のその後は出てこないので、さまざま考えさせられ、また割り切れない心境になる箇所でもあった。


トキのために、倭が女将に抗議するシーンも胸を打たれた。
女将もきっと、好きでこんな商売をやっているわけじゃない。きっと、昔は女将も、ただ、踊りが好きで、自分の踊りたいときに踊りたいと思っていたに違いない。倭のように、「なぜ自由に踊ることはできないのだろう」とも思っていたはずだ。だが、今となってはそうも言っていられない。経営者たるもの全体のことを考えないとならない立場だから、きっと相当苦しんだだろう。みんな、好きに踊らせてあげたい、という理想と、だが金を稼いでもらわんことにはどうしようもない、食っていけない、という現実。
理想と現実のせめぎ合いは、現代でも同じく、日々起こっている。最終的に、そのどちらが勝つかは分からない。でも、女将や客の侍の姿をした「現実」に、もはやここまでと追い詰められるまでは、わたしも、倭やトキたちと、理想を踊っていたい。







この舞台は、踊りに始まり、踊りに終わる。

作品の芯になっているのは、勿論「踊り」である。踊りそのもの、そしてそれに対する人々の考え方、想い。それら全てを、「踊り」で表現する。
久々に、体を動かしたくなった舞台だった。踊りとは、今も昔も、やはりそうでなくてはならないものではないか、と思う。色んな意味、使命を持った踊りがあるだろう。が、「見ている観客も踊り出したくなる」という一面もあるのが、「踊り」ではなかろうか。

わくわくさせてくれる、自分を奮い立たせてくれる、「自分はまだ戦えるぞ」と思わせてくれる、背中を押してくれる舞台だった。


そして、側から見ていて、なんだかこう、とても、特別で、プレシャスな座組であった。その感覚が伝わってくるような。こんな素敵な座組、そしてこんな素敵な舞台には、観客としてはなかなか出逢えない。

何よりスタッフさんがこうしてホワイトボードを
描いてくれるの、プレシャス以外のなにものでもない。
隅々まで、なんだかほっこりする。
そんな雰囲気が伝わってくる舞台でした。



最後にはなりますが、この舞台を支え、造ってくださったスタッフの皆様、この作品を全力で駆け抜けてくださったキャストの皆様、そしてこの物語を現実のものとしてくださった、正安寺さん、素晴らしいエンターテイメントを、ありがとうございました。本当にお疲れ様でした。
またどこかで、皆様の勇姿を見られる日を、心から待ち、楽しみにしております。



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