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無間道 〜インファナル・アフェアに寄せて〜

この記事は、レビューかもしれないし、レビューたりえないかもしれない。『インファナル・アフェア』についての正しい知識が欲しいのなら、他をあたって欲しい。それでも読みたい方へ。

『九龍ジェネリックロマンス』(眉月じゅん)という漫画がある。そこに、みっちりと建物が詰まった雑多な都市の風景が描かれている。まるで、「あなたが好きにつかっていい土地はここまで。」と線でも引かれたみたいに、その空間を限界までつかって建物を乱立させた様態は、手入れのなっていない雑木林にも似る。いや、手が入っていないというのは誤解なのだけれど、ビルが「育って」できたかのように思える都市の風景が、漫画の紙面にあったのだ。その様子に私は、大変心惹かれた。

調べてみると(調べるまでもなく)その都市の名前は九龍というらしい。九つの龍と書いて「くーろん」か。なるほど。どれ、ひとつグーグル・マップで検索してみる。すると、一定の範囲が示される。(衛星写真モードだ。)この範囲のどこかに、あの「ビルがみっちりと育った」場所があるに違いない…と思って、しばらくスマートフォンを繰ってみる。だけれど、あの「みっちみち」の空間らしきものとしてピンと来る場所は一向に見つからない。かなり似通った場所はあるのだけれど、どうにも、あそこまでの密度が感じられない。幻の都市「九龍」はどこにあるのか。

安易にも、ネットで調べてみる。すると、すぐに答えが出る。あの、みっちりとビルが育った異形の街は、1990年代になくなってしまっていたのだ。サラ地にされてしまって、公園だか緑地だかにされてしまったようだ。そういえば、グーグル・マップでそんなような土地を示す一帯があったのを思い出す。あそこにあったはずのものが、漫画に描かれていた幻想的な密林だったのだ。

今はもうない風景なのだと知ると、無性にもっと見たくなる。私は、かの場所を舞台にした映画なぞないかと探る。すると、いくつかタイトルがあがってくる。「九龍」が冠された作品もある。

「九龍」を感じたい、味わいたいのは正直な気持ちだけれど、少し俯瞰して「香港」全体に及んでもいい。そう思った私が選んだ作品が、『インファナル・アフェア』だった。

この物語は、警察に潜入した反社会組織の構成員と、反社会組織に潜入した警察の捜査官の二人の男を主人公にしたものだ。ふたつの潜入が、香港の街で交差する。

原題の「無間道」が印象的だ。「無」「間」「道」。抽象的な広がりが匂う、三文字の連なり。映画のオープニングも、仏教における偶像のようなもののはざまをうろつくようなカメラワーク。思想的な深みを味わえる作品を期待させる。

映画が始まって少しして、すぐに登場人物が切り替わるのに戸惑った。が、これは物語の上では同一人物なのだと理解する。青年期(若い時代)の主人公を、別の役者さんが演じていただけのことだったのだ。それを知ったうえで見れば、確かに「役者が交替するが、時間が経過した同じ人物」であることを表現したような演出が確認できる。初見時の私は、やや惑わされた。

反社会組織のトップを演じる俳優が味わい深い。彼と、警察のスパイである主人公の関係性に私は好奇の目をやる。また、警察に潜入している方の主人公と、その上司にあたる警視との関係も同様だ。信頼関係を築いている裏で、いつ背信するのか。皮一枚の隔たりの、安心と不安。ちりちりとスリルが音を立てる。

二人の主人公と女性の登場人物たちが、物語に風味の広がりを与える。過去に関係があったと思われる女性と、反社会組織に潜入中の彼が街で再会するシーン。女性の方は子ども(女児)を連れている。主人公が女児の年齢を尋ねると、その女性が答える。二人は会話もほどほどにして、主人公は去っていくのだが、女性が連れた女児が、女性が主人公に告げた自分の年齢は間違っていると訴える。女性が、子どもの年齢を実際よりも幼く答えたらしい。そんな嘘を言ったとしたら、それはなぜか。すぐさま、思い至る。主人公と関係があった時期に授かっていた子だが、その事実を共有せずに別れたカップルだったのかもしれない。女児と主人公は、親子関係かもしれないのだ。なんて憶測を思う。物語に広がりを与えるワンシーンだ。

続編を私は期待しないが、この作品にはあと二作シリーズがある。そちらで、女児と主人公の関係も明かされるのかもしれない。「期待しない」というのは、否定の意味ではない。この作品が良かったし、一作で満足を得ているからそう思う。

(以下にネタばれを含む)

結末として、生き残るのは、警察に潜入した反社会組織の主人公のほうだ。彼のせりふに「善人」として生きることを選んだといった趣旨のものがあったが、そのせりふが私の視界に靄を放つ。ちっとも善人に見えないからだ。人殺しの業を背負った罪人。私にはそう思えた。それでいてなお、警察官として生き続ける道を選んだ。その姿は、(真っ黒かもしれないが)白黒ついていなくて、そう、この作品の原題にあるように、「善」だとか「悪」だとか、そのほかあらゆる二元論にNOを放つような、すなわち二つの極など存在しない、「間(はざま)」「無き」「道」だと体現している。底知れぬ「道」である。

「香港を味わう」ために観た作品だったが、目的を凌駕した。私は間なき余韻の道に放たれた。このきっかけを与えてくれた漫画『九龍ジェネリックロマンス』については、機会をあらためて。

青沼詩郎

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