『制度論の構図』盛山和夫著.1995

超有名な名著の中で、割と参考になる解説部分だけを抜粋。


9章 制度の概念

9‐4 解釈

この点、法の解釈をめぐるドゥオーキン[Dworkin 1968]の理論には傾聴すべきものがある。ドゥオーキンは裁判におけるハード・ケースを例に取り上げて、法が真に規定していることは何なのかという問いへの答え方を検討する。ハード・ケースがハード・ケースであるのは、それに適用されるべき法の規定内容が多義的で明確でないか、解釈が分かれるか、矛盾しているように見えるか、あるいは法体系そのものに不整合があって一義的な法の適用が困難にみえるような場合である。かれが実際例としてあげているものの1つは、遺産相続をねらって祖父を殺害し服役中の孫が、その祖父の遺産の相続を請求して起こした訴訟である。争点となるのは、殺害の相手の財産を当の殺害者が相続する権利があるかないかということであったが、当然のことながら、成文法のなかにそれについて直接的に規定した条文は存在しない。むろんこのようなハード・ケースに限らず、すべての法的判断は何らかの「法の解釈」を伴っている。そうした法の解釈とはいったい何なのか。

法実証主義的な立場では「裁判官が下した解釈が法の解釈だ」というかもしれないが、裁判官が自由に法を解釈してもよいわけではないし、実際になされた解釈が「正しい」解釈であるとは限らない。逆に、自然法論者であれば、個々の法およびその解釈と適用は、自然法という普遍的正義の法によって裏付けられており、かつ裏付けられねばならず、法の解釈とはそうした自然法的規定を探求することだ、と答えるであろう。あるいは、「法の解釈は、その法を制定した人たちの制定意図を明らかにすることだ」という著者意図論もしばしば存在する。さらに、最近の批判法学であれば、法とは結局のところ支配の道具であり、政治的な現象であって、その解釈と適用は一種の権力現象であるとみなすだろう。

ドゥオーキンからみると、このような主張はいずれも法というものの自律的存在性を否定するものである。自然法論者は法をその背後にあると想定される道徳や正義に従属するものとみなし、法実証主義者や著者意図論や批判法学は、法を特定の個人やその集合や政治状況に従属するものとみなすのである。

ドゥオーキン自身は法をそのような他に対して従属する存在としてではなく、独立した価値を持つ自立した法的世界を構成しているものと考える。それは、「法解釈」というものの自律性とその自立した原理を主張するものである。絵画や文学やテキストの解釈も、同様の問題にさらされており、つねに何らかの「従属節」――社会や政治や著者自身の意図など――が登場してくるが、一方で、それぞれの対象に固有の自立した価値を見出そうとする解釈的立場が消滅することは決してない。それは、解釈されるべき対象を「その最良の光をあててみる」[Dworkin 1986 : 49]ことによって意味を見出そうとする営みである。ドゥオーキンはそれを「構成的解釈 constructive interpretation」と呼ぶ。「構成的解釈とは、対象や実践に、それが属するとみなされる形式やジャンルのなかでできるかぎり最良の事例となるように、その目的を課するものである」[ibid : 52]。

あきらかにこの立場は解釈学の独立性と客観性を主張するガダマー[Gadamer 1986 ; 1990]に通じるものであり、実際ドゥオーキンはガダマーを援用しているのである。構成的解釈とは、対象についての人々の解釈からは独立しており、対象それ自体が有する意味を対象のなかに見出そうとするものである。「解釈者は、共同体の作法が要求しているものについての集合的意識の意見と、その作法が本当に要求していると彼が考えるものとを、区別しなければならない」[Dworking 1986 ; 65]。では、そうした構成的解釈を支える原理は何か。それをドゥオーキンは対象のインテグリティ integrity だという。しかし、このインテグリティの概念についてドゥオーキンはくわしくは説明していない。辞書的にいえば、それは「完全、無欠、そっくり元のまま」であり、また「正直、高潔、誠実」である。アメリカ社会で人格的価値の最も重要なものがインテグリティであることはよく知られている。インテグリティがないと疑われている個人は、人間としての基本的な価値を有していないとみなされ、政治家にとっては失脚の十分な条件となる。内田貴[1988]はドゥオーキンのこれを「誠実性」と訳しているが、法のインテグリティを表すものとしては必ずしも適切な訳語とは言えない。むしろ「内的一貫性」という表現の方がよいだろう。ただし、一貫性といっても単にすでにあるものとの斉合性ではなく、それによって全体としての存在がより完全なもの、より価値の高いものになるような全体的な一貫性である。

いうまでもなく、法をどのように解釈することによって法によりよきインテグリティを与えることができるかについて、あらかじめ明らかなわけではない。解釈者は実際上はそれぞれの見地から解釈を行っているのであるが、それは各人のまったくの恣意でなされるのではない。それぞれはそれぞれの見地から法に良きインテグリティを与えるような解釈を求めているのであり、そして、そうした解釈はまたより高次のインテグリティの観点によって査定され、新しいインテグリティへと展開されていく。

ドゥオーキンが示唆している法的世界の運動形式は、ポパーにおける科学的認識のそれに酷似しているといってよい。後者は「真理」を求める永遠の運動であり、外的世界についてのよりよき理解を探求していくプロセスである。何が「真理」であるかがあらかじめ分かっているわけではないし、真理にいたる確実な方法や道筋が与えられているわけでもない。真理は1つの理念的存在であり、現実に存在する科学的な営みはそれをめぐる経験的な諸行為にすぎない。経験的であるがゆえに、それらはしばしば誤ったものであり、政治的であったり、個人趣味的、名声志向的であったりする。そうした現実にもかかわらず、真理という理念を想定することによってそうした経験的な諸行為およびその産物としての発見やそれを記した論文、出版物に、意味が与えられる。そう考えることによって、現実には種々の「雑音」が介入してくるにもかかわらず、科学的世界を自立したものとしてみなすことができるのである。

法解釈におけるインテグリティの概念は、現実に存在する諸解釈の性質ではなく、理念的に存在する解釈の性質である。ドゥオーキンはそうした観念を想定することによって法的世界の自立的存在性を確保しようとしたのである。

ただし、次のことを付言しておかなければならない。それは、ドゥオーキンを含めて法の解釈という営みはあくまで共同体内部の視点すなわり一次理論のレベルのものだということである。すでに引用したように、ドゥオーキンは「

解釈者は、共同体の作法が要求しているものについての集合意識の意見と、その作法が本当に要求していると彼が考えるものとを、区別しなければならない

」[ibid : 65]と述べているが、共同体の作法が本当に要求していることは何であるかという問いを立てそれに答えようとするのは一次理論の視点であり、その点では集合意識も法律家の解釈も同じレベルに属す。それに対して距離をおいた外的視点の観察者にとっては、そのような問いを立てて答えを求めようとする集合意識や法律家の営みが分析の対象であって、何が正しい作法であるかへの答えを求めようとする集合意識や法律家の営みが分析の対象であって、何が正しい作法であるかへの答えを求めることではない。

「内的懐疑主義」と名づける立場――公正と正義に関して中立的な観察者が依拠しうる客観的な基準は存在しない、というもの――や批判法学からの法への懐疑論に対するドゥオーキンの反論にやや弱気が感じられるのは、彼の『法の帝国』が確立しうる地平=一次理論と、法的世界の外部からその動態を分析しようとする地平=二次理論との境界に気づいていないからである。批判法学がめざしているものは法の社会学ないし政治学であって法学そのものではない。それは、クワインやローティのめざしているものが科学の心理学ないし社会学であって認識論ではないのと同様である。いずれにしても、一次理論であることは必ずしも二次理論よりも劣った何ものかであることを意味するのではなく、ただ単にある「社会にない属する」視点からの理論であることを意味するだけである。両者の間に何らかの優劣をつけることはまったく無意味だということがこのような例でもって了解されるだろう。


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