狸は二度死ぬ!そして作家は成功する


いつも読み返したくなるフォークロアに、いつも読み返したくなるような力を「再び」与え得る者が作家と呼ばれているのである(作家という存在者が反復しているのである)。
太宰の『御伽草子』、改めて読み返すと傑作ですね(特に浦島さんと舌切雀)。つと、思い返して太宰版の「カチカチ山」を読み返していたのですが、狸が兎という美少女に惚れた醜男だという洞察の後に披露される考察は、芸術家がたどる一般的な運命であるオルフェウス神話、いや、太宰が認識しているように兎がアルテミスなのであるとすれば、彼女の裸体を観ようとして鹿に変えられてしまい、結果猟犬に食い殺されることになった、オルフェウス神話と同様「見るな」のタブーに係るアクタイオーンの神話なのではないかと私は(再)認識したのです(神話が反復されており、反復されるものが神話なのです)。というのも…

狸は太宰をして「陰惨の極み」と称せられる「婆汁」を作成することが原因で兎にカチカチと罰せられるわけですが、児童相手に読み聞かせるに、「婆汁」では都合が悪いのでと、狸の罪を軽くすると、その後狸が兎から受ける仕打ちが重すぎるということから、やっぱり狸は婆汁を作らなければならないことになるわけですが、野山で自由に暮らしていた狸がそんなことになったのは、そもそも猟師に捕まったからで、狸は狸で、必至で逃げ出す中で行ったことなのではないかと太宰は考察しています。
物語が始まる前(始まる前?)に一度死にかけている狸は、物語の最後で本当に死んでしまうのです。私たちが生まれる前に一度死んでいたように、狸は二度死ぬ! 死を理解した時に、そしてその反復としての死を。ジジェクが「汝は二度死ぬ」と言って、マリオの残機が1減るのとゲームを辞めることを対比していますが、狸は死から逃げおおせても、享楽の対象という意味では同じものである(ラカン的)女であるところの兎に沈められて死んでしまう。太宰の狸はお弁当に「鼬の糞を塗した蚯蚓のマカロニ」なんて食っており、彼の趣向に兎は絶句するのですが、狸は料理に拘っています。狸は料理人なのです。だとすれば婆汁は、臨死体験を機に作成した狸の残酷極まる世界認識の作品化なわけです。生まれる前に無限に広がっている無と死んだ後に無限に広がっている無、食う者も食われるという混乱(『ミッドナイト・ゴスペル』日本版第一話や郡司ぺギオのアンパンマンについての考察が思い出される)、死体を使ったインスタレーション。そもそも私たちが生きている世界には生と死の双方がはっきりと分け隔てられることなく同居して存在しているにも関わらず、かつて無に等しかったにも関わらず、今こうして存在していることを確かめんがごとくトラウマ的な対象、生と死の混濁に作家は作品を通じて接近し、オルフェウス的地獄めぐりを行っている。あるいは「婆汁」は、ラース・フォン・トリアーの『ハウス・ジャック・ビルド』と同じことで、最高の家を建てることを望んでいた(その家に住むはずの?恋人をいつまでも選び損ねた?)ジャックがシリアルキラーとなって犯行を重ねた末に、『ヒトラー最後の12日間』でヒトラーを演じたブルーノ・ガンツ演じるウェルギリウスに地獄に連れていかれる話なわけですが(トリアーはマジで馬鹿!つまりこの映画はトリアーの『神曲』であり、『8 1/2』なのです)、地獄に行くまでジャックが死体で作品を作り続けたように、狸も私たちも生きなければならない。私の死の認識(私は死んでいる、私は既に死んでいたと分かるということ)を以て生きた後、本当の死を死ぬわけですが、その死は内在的に与えられておらず、常に既に「書物の閉域」(デリダ)のようにして、私を外から規定するのであり、私はこれを内側から経験することができません(生きているという認識を反対側から複雑に言っているだけです)。

そして、その確認(かつて死んでおり、死を認識したはずの私は死んでいないということの再確認)をすることで、むしろ生きていくわけです。繰り返しますが、こうした作品制作は、死というトラウマ的な対象をバーチャルに体験し直し続けることで、むしろ生きていこうとする依存症の戦略であり、それ自体が快癒のプロセスでもあります。思考の対象は死であり、その疲労が意識なのでしょうか(埴谷雄高的にこう述べることができるだろうか。政治において、核兵器とは意識なのであると)。誕生は死である(ラクー=ラバルト)というわけです。でも、やっぱり、しかし、そして狸は死ぬのです。それは、別な言い方をすれば、時を止まれ君は美しいということによってなのです。そういう意味で、ボルヘスが言うように、詩人たちはやはり同じ一人の人物なのかもしれません。かの名高いダンテ狸もまた詩人に伴われて地獄めぐりをして、天において一人の失われた少女を見出して『神曲』を書き上げたわけだ。しかし太宰が描いた我らの狸は、いつまでたっても「婆汁」以上のものを創ることができないので、いつか兎に追い抜かれてしまうということ、それは地獄から連れ戻した少女の顔を振り返って確認したら腐っていた、あるいは女神の裸体というイデーを見て、無垢な、しかし雄々しい鹿に変えられてしまって、自ら使役していた猟犬によって食べられてしまうということ…。
しかしそれは常に救いがダウンロード中であること、救われていないということによって、むしろ既に救いがやってきているのではなく、いずれ救われるという点で救われていることとも言い換えることができます。何故なら彼女は作家の目の前いるからで、作家には未だ傑作を作るチャンスが残されており、その意味で作家は悪魔的なわけですが(カテコーンとしての、救済を遅延させる者としての作家? 作品制作・読解の「プロセス」?)、必ずや、成功するということが定められているからなのです。神林長平『言壺』の「碑文」でも「我、勝てり」と書いているではありませんか。それがテオレマ(定理)ということ(パゾリーニ)。私が成功しなくても、そんなことはどうでもいいことだ。御伽草子が太宰によって力を吹き返したように、反復されるべき物語は、誰かによって再び語られるのだから。ボルヘスの「内緒の奇跡」は、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」と合わせて読めば、無限にキーボードを叩く試行の果てにシェイクスピアの作品を書き記す猿の話に近づいていきます。無限の本は私を囲い込む360°の背表紙であり読むことができないのですが(「バベルの図書館」)、それは「学問の厳密さについて」における実物大の地図であり、それを読むとすれば世界それ自体である「会議」への参加、サラゴサ写本をめくるがごとく繰り返される今それ自体が、私が読んでいる箇所ということになるのでしょう。すべての創作行為が無限の本からの引用であり、盗作であり、改竄であるとして、では私は何を語るのかといえば、過去の自分を救うために自軍に攻め込むタデオ・イシドロ・クロスのように、あるいは「死とコンパス」に従って、儀式殺人としての我の死を、「反復の瞬間」を語るのであります。そして今日も桜の下には冷たい虚空がはりつめているばかりなのでしょう。

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