ある映片の思い出

https://twitter.com/iamReina_xy2/status/1171267033784172546?s=20



お前の面影は空しく私に会いにやって来て
私の中に入ろうとするが、私はただお前の面影を映し出しているだけ
お前は私の方に向き直るが、そのときお前が私の眼差しの上に見つけるのは
私が夢見ているお前の影、ただそれだけ

私はまるで鏡のような不幸者
映し出すことはできても、見ることはできない
私の眼は空っぽで、鏡のように
お前の不在に取り憑かれ、何も見えない

ルイ・アラゴン「対旋律」
(ラカン『精神分析の四基本概念』「フロイトの無意識と我々の無意識」からの孫引き)

 幻想狂気系フラッシュとか…要は「例の」雰囲気を作り出すための形式化、その果てへ、その崩壊? 階梯を登って無に至りつくまでのお話…? 確かに、他と区別される「それ」はあるのだ。でもそれは何か…?
(だが、あまりの恣意性にくらくらする…スィリアック・ハリスの理路ある狂気の堅牢さとは異なる…。デビッド・リンチならば、その馬鹿馬鹿しさも含めて「わかりやすい」時がある。要は儀式、つまりは形式なのだが…)。
だから私はあの映片について語りたい。無限に豊かな水面について…

ある映片とは?
https://x.com/iamReina_xy2/status/1171267033784172546?s=20

部分-移行対象とは何か


 たった数秒の映像に膨大な情報量である。
 ところで情報理論において情報「量」とは、処理速度と等価であるという(今から私は概念を務めて破壊的に使用する、コラージュする)。映片には膨大な情報が溢れている。実のところ映片には、彼女の微笑が映っているだけで、それを繰り返すのみだ。しかし例の如く何故なのか、与えられるままに高速で展開される事物の提示に、その仕草に、我々は様々な情動を投影してしまう。つまり起きていることは反対で、対象に曖昧さがあるのではなく、情報を受け取る側が未知の、解読不能な信号を受け取るので、解読のデコード、表情を読み取る(あるいは読み取らないために)我々の側のファイヤーウォールが作動してしまうのである。作動してしまうのは我々のほうなのだ(ここで笑い転げることができたら、先を読まなくてもいい)。彼女の微笑は文字通りの微笑なのか? しかし「文字通り」に、リテラルにテキストを読み込むことなど不可能で、私たちは先行するテキスト、コンテキストを当てにすることなしにテキストという氷壁を登ることができない。ましてや図像や映像など…まさに目が滑ってしまうのだ。頻出する単語ほど、その効能は多様で=便利で(なので頻出する)、経験を参照しないと解読することがいよいよもって不可能、短絡的な登山者は解読の山頂にたどり着けない。では私の中でどんなプログラムが作動してしまったのかと言えば、やはりドゥルーズなのである。

 ドゥルーズは『マゾッホ紹介』で、寄る辺の無い現実を生きる方法を提示していると敢えて壮語する(破壊的に…)。それは現実界に対して打ち立てられるフェティッシュ、部分対象を論じることによってである。フェティッシュは、母にはファルスがない、大地にはファルスがないことを否認して、ファルスがないことはないと言いながらハイヒールを舐める、そうした欲動の凝集点があるとすることから生じる。ラカン的に言えば「対象a」の発見である。つまりはマクガフィンをめぐる冒険の始まりだ。これは多分に偶然の出会いを基礎にしている(ラク―=ラバルトが述べるように「原風景」は推敲されるのだ。『シュルレアリスムの射程』所収「誕生とは死である」)。あるいは、お気に入りのぬいぐるみを介して我々は世界に参入する。このような対象が、イマジナリーフレンドその人であるような移行対象である。そして移行対象であるようなぬいぐるみや毛布は、下唇に当てると安心する、心地よい…という仕方で部分対象的な、抗いがたい魅力を持っているのである。
 ロッククライミングする時に、たまたま足掛かりにする岩の出っ張りを考えてほしい。それは同時に大地からすれば私の足もまた足場であり、翻ってそれは私の手をかけるポイントである大地の肌理、尾根なのだ。そして踏破された道のりを振り返ると、ここに来るまでに必要な道程だったことがわかる。意味は常に遡及的に与えられるというわけだ。信仰は信仰告白よりも前に成立しているのである(旧約の神様だけが言えるセリフ「私を見出していないのならば、私を探し求めたこともないのだろう」ということだ)。フェティッシュの対象は、反復を構成するに必要な最初の項だったことになる(力を与える側と与えられた側という二元的な表象が間違いで、冷たい手の暖かさが、私に額があることを鏡のようにして教えるように、力のやり取りは一つの事態であり、狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なりというわけで、落ち込んでいるから元気がないのか、元気がないから落ち込んでいるのかを問うことは不可能、二つのモードのやり取りもフラクタルにどこまでも遡及でき、つまりは巻き込み、渦であるということだが、そのような諸平面という把握においてある(超)平面では、口と肛門は一つであり、男性器は裏返しにされて巻き込まれ女性器となる。DGは「オルガスムは、自身の権利をあくまで追求する欲望にとっては、むしろ邪魔になる現象でさえある。すべてが許されている。大切なことはただ、快楽が欲望そのものの流れであることだ。つまり<内在性>」と述べていた。だから早きに達して言葉を絶するにはまだ早いのだ)。私とは私の道行きであったとするならば、「かつての私」とは何であるか、反復の初項を訪ねることになる(以上、この問がテーマとなって何度も演奏されることになります)。

 微笑の氷壁に対していかなるアプローチが可能か。それはやはり氷壁に対し欲望を、つまりはそこへ行くことをアフォードする肌理を認識することである。超現実的に言えば部分対象的に生じている突起に「磁化」(ブルトン)していくことである(覚えがある人間には明らかだが、この説明は「現象学的には」記述であり、それ以上遡及できないトートロジーである)。
 映片に戻ろう。映片では彼女の顔は分割されていく。それはたとえば、三つ編みが互いを支えにして成立しているところに、軛であるヘアゴムが解けてしまえば、それは髪の毛の無数に多様な運動に分解されてしまうように、である。彼女の顔が砕けるという赦し難い事態に、むしろ彼女の顔貌の魅力はどこなのかという問がもたげてくる。彼女の顔貌の中にあるはずの凝集点、部分対象。無数の運動の中にそれはあるのか。例えば絵画は、多数の線で構築されている(ある絵画のある部分が異様に美しいということはよくある)。このことをまずヒントにして映像を見る。

輪郭の両義性、二元論の解体(が二元論を経由すること)

 
 (と言っている傍から語り出す、作動してしまうのは私であるが)ドゥルーズはそのフランシス・ベーコン論の中で、輪郭の役割を両義的に語っている。曰く輪郭は「分離し結合する」。これは言葉というアーティキュレイションを旨とするデジタルによって、アナログなきめ細やかさを持つ質を論じる際に被る言語の限界の表示でもある。また、おそらくこれが「意味」と呼ばれる単位である。意味は他から区切られて成立するが、他の何物も意味しないような意味はない。差異を含んだ同一性であり、より抽象的な同一性である。もしくは反復的な差異である。またもドゥルーズであるが、「同じ」であることの意味とは、差異について、異なるものの間で言われることである。意味は運ばれて意味を成立させる。映像でもビットレートを軽減するために人間には容易に区別できない色彩を、デジタルな数値を切りそろえて同色にしてしまうことで圧縮を行う。抽象とは処理速度を高めるための圧縮なのだ。輪郭はアナログな連続量を切断するデジタルな手続きであり、それにより対象を切り出す仕方なのである。結局ここで私は世界ではなく世界を認識する主観の側の問題を扱っており、超越論をするしかないように思える。しかし、私をこのように躓かせる世界があり、そして問題は「作」品なのである…。
 分離と結合という二項によって世界を映し出すしかない言語は、翻って自己矛盾を起こすことで、限界「からの」景色を語りそこなうことによって、むしろ限界について語り得るとも言える(フーコーがルーセルやカントについて語っていたことである)。分離かつ結合という矛盾的なものが、世界それ自体なのだ。
 そしてあらゆる芸術において問題になるのは、移行状態の指示、ゾーンによってゾーンそれ自体を通過することである(『千のプラトー』でも、プラトーとは「移行的形成要素」であり、リズムである)。ドゥルーズのベーコン論でもまた、本質から偶発時へ、古典からオランダ絵画へ、ベーコンの絵画における様々な移行状態が問題となる。遠近法も分離にして結合である。前面と背景を繋ぎつつ分離する。パースの導入が翻って奥行きの次元のフィクション性を告げ知らせつつ、隠蔽する(実際には奥行が知覚される)、つまり表面という深みの発見である。それを可能したものは、絵画史においては遠近法=光学的組成による把握に当たる。そして静物画はオランダ絵画において、偶発時の表現でありながら本質の提示となって、「基礎づけられた現れ」となるのだ。
 しかし哲学が単なる形而上学に留まることができずに、形而上学批判と超越論哲学を始めてしまったことに似て、絵画史の旅は、アンフォルメルにおいて実物大の地図に達してしまい、現代芸術はアクターネットワーク的な記述を是とし、作品の存立条件の開示もまた作品となった。つまり事態は現れ方それ自体、現れさせているものそれ自体(インスタレーション)への提示へと至ったのだが、それにもかかわらずそれが作品としてある…。作品の存立を明かすトリックの開示が作品となっているのであり、それ自身を基礎づけとするのである。
 あたかもそれはバタイユが発狂していると評するヘーゲル『精神現象学』や『大論理学』における、記述が記述自身に自己言及しながら精神の発展をたどる様を想起させる。『精神現象学』では哲学書に序文は必要か?という序文で始まる。内容が形式を否定することを以て、語りはエンジンを得て次のテキストを紡いでいるのだ。そしてそれはコミュニケーションの不可能性をコミュニケーションによって伝えてくる狂人を思い起こさせる。コミュニケーションってできませんよね? でもあなたはいまコミュニケーションしているのではありませんか? マネを論じたバタイユを参照するデリダが読むヘーゲル。あるいはバタイユからフーコーに受け継がれた、そこにおいてマネは絵画史上初めて絵画が「描かれたもの」であることを表現することになったということである。我々はエルゴン(作品)よりもパレルゴン(作品を補助するもの)に魅せられているからである。この魅せるトリックに興味を注ぐのである(そしてなおも作品は蠱惑的なのである)。主題ではなく衣服の襞に。そして支持体が、パレルゴンがなければ作品はないのだ(そしてそのこと自体が作品に描かれているのだ。先ほどのインスタレーションの話と同じになったわけだ)。
 ドゥルーズのベーコン論においても、感覚のセリーの運動を宙づりにして鑑賞可能にすることそれ自体が作品の一部となっている、そうした表現―多重的な縁取りであるオレンジ色の楕円や背景のくすんだピンク―、すなわちダイヤグラムが論じられている。ダイヤグラムはむしろ絵画の内容そのものですらある…

存在と無という二元論を介して超越概念を見出すこと


 しかしあなや、氷壁を人が登るとすれば、それは頂上からの絶景を望むためなのであろうか。そこに至っては、私が如何にして氷壁を踏破したのかということは、どうでもよさそうなことではある。では実際の映片の衝撃に耐えるべく(衝撃?それはなんであろうか。むしろ世界それ自体が存在することの驚きを告げ知らせる、驚きが存在する世界それ自体といったような…)、むしろ映片を何度も見つめ返そう。(と、言いながらまたしても作品ではなく、作品を見つめることについて語り出すわけであるが…)、見返すという行為の課程は、死であるところの現象界の開けを知ってしまって、すべてのアーティキュレイションが解ける「無限運動」を自己の消滅としてのみと(誤)解した場合に患うタナトフォビア、すなわち死-恐怖症の症状を呈するだろう。死者の写真を見つめ続けることで、むしろ写真はすべて過ぎ去った過去なのだ(AはAなのだ、現実とは現実なのだ…)と諒解するまで見つめ続けるかのごとく。むろんこれはあらゆるトラウマ的な症例のプロセスである。
 トラウマとは、ある事態において何らかの変質を被った、つまり死にかけた後で、しかしまだ死んでいないことを何度も確認し、その事態のフラッシュバックに苦しむことそれ自体を快癒のプロセスとすることである。私はその時ほとんど死んでいたが、未だ生きている。その奇跡を再確認したくなるほど我々は弱っているので、むしろ最大の試練をもって、すなわちもう一度、何度でも、当の経験に立ち返ることで回復しようとする欲動の、なんとも鮮やかな仕組みなのである(エロスとタナトスはどちらも我々の本能なのである、いや、どちらも同じものである。例えばDG的には、どちらがより内的であるとかそういうことではない。アレンジメントの形成が問題なのであり、アレンジメント次第では危険な発露、表現になるということだ)。大きな金額を賭けで失った時に感じる、物質的なとも言い得るような戦慄。あるいは物質的恍惚(ル・クレジオ)。自己愛を完璧に失うことが教えてくれる死の感覚(語義矛盾だ。自己愛を持っているから未だに生きている。いや、まだ死ぬことはないという僥倖を以て自己愛としている…私は死なない。私が死なない限り。そして私は死ぬことがない…)。輪廻とは質量保存のことであり、魂とは物質のことである。唯物論。何も感じない(のではない)。死は騒々しく、私たちの感官という遅延装置を失うことで、ダイレクトな変化の感覚が、記憶という蓄積無しに体験されるということではなかろうか。そういう吐き気をもよおすための感官もない吐き気。だからつまり何も感じない…ここに矛盾はない。何もないし、すべてが潜在的にはあるからである。こうした経験を超えた出来事の超越性に対し、何かをつかみえたなどということはそもそもなく、超越概念(例えば死という全き外部)を世界の中のオブジェクトにしてしまうから、そういうエラーとしてしか認識できないのである。超越論的なものの構成。あるはラカンが言うに「実際、満ち足りた全き信仰などというものがないのは、その信仰がそれによって明らかになるはずの最終的な次元と、その信仰の意味が消え失せてしまうような契機とが、厳密に一致するということを根本的に想定しない信仰など存在しないからです」(『精神分析の四基本概念』)ということなのであろう(つまり価値の中心部は無意味という意味で、無価値ということであり、形式化の向こうにはただ別の問が、他の価値へのジョイントはあるだけなのであろう)。存在者について語るための語は、「語りが語り出されたもの」(ハイデガー)であり、語りとは「理解可能性の分節」である。そしてこの解釈学的な(トートロジックな)構造は、ラカンが「もの」は事後的にしか現れない、再発見される仕方によって現れるということと同一ではないだろうか(ラカンはハイデガーのブレーメン講演を参考にして自身のものの議論を構築したらしい)。ハイデガーの『ブレーメン講演』では、芸術作品の典型としての水差しを例に、例の四方界が語られている。天空と大地、死すべき者どもがおり、水差しは空であり、そこに注がれた水が神々に捧げられる。ラカンはこれを物自体に結び付け(ハイデガーにおいてはon(希)、ens(羅)と同等の意味を持つding(古独)の用例をエックハルトに寄せて語ることで)、ろくろによって作り出される芸術活動のトートロジーさについて述べている。「もしあなた方が水差しを、私が今しがた推奨した<もの>と呼ばれる現実界の中心における空虚の実在を代理表象するためにつくられたひとつの対象とみなすのならば、代理表象の中に現前するこの空虚はまさに「無nihil」として現れています。だからこそ、陶工は…その手でこの空虚のまわりに水差しをつくります。つまり、神秘の創造者とまったく同様に、「無から(ex nihilo)」、穴から、それを創造するのです。…シニフィアンを形成することと、現実界にある裂け目、ある穴を導入することは同じことなのです」(『精神分析の倫理』)。つまり作品制作、ポエティカ(詩学)とは、穴を穿つ方法であるということだ。穿つことによってむしろ、作品の構造を開示しながら、それ自体として作品として存立させようとすることである。私の手口がわかってきただろう(問題は、では価値の源泉とは何かということである。また同じことを言っている私のこのループ!)

問いとは何か、否定とは何か


 しかしこれではいつものとおりの否定神学ではある。「問とはトートロジーである」とドゥルーズ述べていた。疑問文それ自体が前提を発生させてしまうことに目配せしつつ、逸れていくことで未だ語り尽くせぬことについて語り続ける。つまり問うから、それがあるようになる問の開けが、問うから問えるというトリックと知りつつ、何か、ではなくて如何に、誰がなどと問うことによって、つまり方法や権力の問に逸れていくことで、何かの正体を知らずに内在的に語りが可能になる(ライプニッツ!襞である)。だからブラックホールを見つめ続けてはいけない。問うから問えるということを真面目に受け止めては、最も騒々しいリズムと沈黙が同じものかもしれないと感じる眩暈に幻惑されるのみだ(それは芸術家にとり浴すべき大海での海印三昧の心地であるが、ここに留まることは危険である)。そこから帰ってきた作家にとって、芸術と反芸術としての自然、または制度について言えば、アール・ブリュット、バッドアートなどなど、二項対立の消滅はいつもの如く必定なのである。対して反復によって無限同一性に差異を打ち立てるということがDGの要諦である。それはドゥルーズが、画家が加えるよりむしろ追い払うことによって描くと主張していることにも関わることであるが、ここではまず反復を理解することである。
 芥川龍之介の保吉ものに登場する堀川保吉は、作家自身がモデルとされる。モデル。抽象と反復だ。保吉は幼少期、共に風呂に浸かっていた父親が風呂から出ていった時に死というものを一挙に理解する。死とは、すなわちもう二度と父親が戻らないということである。むしろ父の喪失を反復的に思索する時、反復の最初の項として風呂の思い出が思い出されたということだろう(私は同じ話を繰り返している)。反復においては、第一回目は第二回目の反復を以て初めて、反復の項であったことが明かされる(かつて私もまた二駅離れた天使幼稚園に母に連れられ登園し時、彼女が去るのが悲しくて、ついに私の黄色い鞄の定期入れには、母の写真が入れられるということがありました。私もまた予め反復を予期しているというのか…それは私の勇気の無さであり、予感に対する激しい怒りでもある、あるいは写真になってしまった母を既に知っている勇気は、無尽蔵の怒りと同じものか…私には何もわからない。いつも)。青い鳥である。永井均が述べるように、青い鳥は最初から青い鳥だったのでも、旅をすることで家の鳥が青くなるのでもない。青い鳥「だった」ことに「成る」のである。
 映片は泡が分割していくように、格子状にひび割れゆき、彼女の微笑を覆い尽くしてしまう。その中で、確かにアーティキュレイトされた実在のヴィサージュは見えるのだが、彼女の唇が崩壊していく様、反射し合う破片は、無-限の様相を呈する。無でありながらすべてが可能なスクリーン。むしろこの無-限を微分することで、変化率としての二元論的な二つの傾向が形象として取り出せる。色彩の値がじょじょに減っていく。映像の粗さがシャイニーな印象を与えてくる。それは唇や頬の属性が翻ってそれ自体の本質のように見えるからだろうか。その光景は塗りつぶされてビットレートが落ち、高速で私たちの認知を揺さぶる。ビットレートを落とすようにするだけではなく、砕けることでプリズム化し、映像は映像が光の点滅であるが故に既に輝いているのに、それよりもむしろ輝いている「かのよう」なのだ。抽象化されることでむしろ光の作用に似る。なぜなら光は物体の、あるいは少なくともありとあらゆる色の抽象化かもしれないからだ。なんとも絵画的な経験ではないか。これが、ラカンが語る「もの」が事後的に表れること、パラフレーズすれば超越概念が媒介的に認識されることと同じことなのであろう。それは内在的だが共に支え合う価値についても同様であると言える。例えば明度は彩度を通じて色相に媒介的に効果をもたらしていると考える時、色相においては各カラーのセリーを比べることで生じているある一貫した変化を抽象化しなければ本来色相環に居場所のない黒と白を見出すことができないだろう。やがて分化した価値があまりにも微視的で我々の価値観を震わせることのないような、微細な振動に変わっていくだろう。やがて二値に、存在と無の点滅にたどり着くかと思われたが、しかし実際にはそのような二元性に到るかなり手前でぎゅるんと緩急をつけて雲間が晴れ渡るように元の像が回帰し、彼女が笑っている。ブロックノイズは、そのようにして映し出されたものが映像であり、しかも壊れた映像、バーチャルなものであることを示すことで、ただ唯一の「この世界」の存在に気がつくために敢えてこの世界を相対化する戦略と言えるだろうか。しかしその「平等主義」(世界が複数あるかもしれないこと)を潜在性として内在化して存在論的に保つか、可能性として外在化して論理的に保持するかによるが、どちらにしろニヒリズムを経由する危険性を孕む(それは私が愚かにも見返すことを通じて写真を念頭に死について語ってしまったように、白だの黒だの述べたように、だ)。その危険は操作の危険である。バタイユについて語るデリダを参照するに「至高の操作はなんらかの仕方で絶対的危険を偽装し、この偽装を笑わねばならない」。この絶対的危険とは抽象的な否定、すなわち死である。つまり死(ぬから生きているということ)を笑わなければならない。しかし、私たちは回帰を知っているので笑うのだ。笑いとは、笑いの対象とは反復である(ここに意図的な混同がある。そのことで私たちもまた微笑し得る)。一度目の彼女の表情が、反復される項となって、それだけで根拠づけられる。ここにてむしろ、無を囲い込むトートロジーは、ラカンが述べるような(しかし彼の理路のある部分を強調すれば、当然得られる結論と言えるが)「無からの創造」というより、反復されて「語り出された語り」(ハイデガー)を都度、根拠なく根拠づけることになるのではないか。それ自体を根拠として? つまり芸術とはやはり自己言及であり、自己原因なのだ。そして自己原因とは原因がないということと同じである…(論理において、理由を示す言明の形式が必ずしもそれ自身を正当化しない例をノージックは挙げてはいるが、芸術は「論理」ではなく、論理的なものであり、そういう意味でマジカルである)。プルーストもまた、芸術の中に芸術の故郷を閉じ込めることで、自ら芸術になることによって示したのである。生の全てがネタだと気がついて、時の全てを抱きしめること…つまりどんな作品も『8 1/2』であるということ。私は私に、彼女は彼女になる。そして映片の中の彼女は、彼女だったことに成るのである。

作られたもの、制作とは何か

 
 生のすべてが作品である。なるほど、当然だ。しかしこの時、作品は自らであると告げながら、作家にとって自らを為した後で、他となる。作品はあらゆる語りを許す謎となりながら、語りは奔放に諸展開を繰り広げる。とは言え、故に/つまり作品には制作過程がつきものである(話は堂々巡りをしていることに聡明な方々は気が付き飽き飽きしているはずだ)。本質を取り出そうとした瞬間にその問いは反転して、逆にその本質から現れを基礎づける活動に反転する。超越的なものが問われていつの間にか超越論になってしまう。その時の媒介行為である問は、例えばコペルニクス的転換的に、現象学的還元のように、それ自体としては、消える。「時間の蝶番が外れた」(『ハムレット』=ドゥルーズが論じる)カント!的な時間…。哲学とは、ど、ど、吃りなのだ…。制作的な制作物が作品なのである(もしアリストテレス『詩学』が、ルクレティウス『ものの本質について』のように韻文で書かれていたとすれば…)。
 デッサンの経験がある者は、白い画面に振り下ろされた最初の線の寄る辺なさを頼りにして、徐々に形を立ち上げる、その不安を知っているはずだ。映片が可能になるための条件を選択することは、創意としてはあまりにも単純だ。しかし手段に理由がなくとも、対象を、表情を選び取る判断力は必要だ。そして、相変わらずそこで彼女は笑っている。この一瞬の、いな、無限の時間は何であろうか。いないいないばあのようにして(やはり私たちは笑う、赤子のように笑えてこそ、この映片を楽しめるのだ)、不在と存在が繰り返されるようなこの時間は。なぜ砕けるのかという問は不適切である。いや、むしろこの無限の時間を耐えるために、我々が発するアッハ…とかぷふい!とかいう意味で、そうした不適切な問は適切であるかもしれない。つまり、その問は問ではなく、感嘆でしかないということだ。つまりは相も変わらず我々の側で起こることである。問とはトートロジーである。問は寄る辺なき渦である作品に対してマニピュレートする一つの方法論であった。ここで孤独な独身者は、寄る辺なき思考を繰り広げるためにさらに枚挙という反復に従事する。消尽もまたドゥルーズがベケットを例に語っていた方法であった(あるいは「独身者の機械」の働きである。それはあえて言えば痛みを待つためのものであり、痛みによって遡及的に、しかし常に既に失われた聖なるものを抱こうとすることである。しかし同時にそれは、苦しみを過ぎ越した後では何の魅力もない拷問器具でしかない、そういうものとも言えるだろう)。

痙攣的なもの


 そうして一連の映片群に考察の対象を拡散させれば、ただ瞬きするだけだ。だがなんとさりげなく、しかしドラマチックなのだろうか。むしろ目をつむった刹那の沈黙が無限に続くことなく、素早く見開かれた目が我々を刹那に不安にしたかと思えば、もう我々は安堵しつつ、再び不安になる…なぜなら同じ動きを繰り返すことは痙攣であって、「美とは痙攣的なものであり、さもなくば存在しないだろう」(ブルトン)のであったとしても、それはやはり生きている者とは思えず、いやむしろ生と死がまさに交錯した麻痺状態でしかありえず、そのサスペンションにやはり安堵することができないのだ。というより、安堵を理解するためには不安が必要と言っているのである(同じことだ。痛みによって本来存在しない存在することの意味を自らつかみ取ろうとする…)。芸術とはジャクソン・ポロックの絵画やリカルド・ヴィラ=ロボスの音楽のように誇張法なのである(そしてそれはデカルトをしてレヴィナスの言う誇張法なのである)。そもそも瞬きそれ自体が孕む緊張を伝えるのだ。瞬きの緊張に比すれば、むしろ眠ったように死んでいる姿は、諦めという安堵をもたらす。死者がなおも恐ろしいとすればそれは蘇るかもしれないからで、そして死が「絶望していないことが絶望的」という意味で恐ろしいのは、やはり死者は蘇ることがないということである。
 髪の毛を肩越しにかきあげるだけの映片や、唇の蠱惑的に蠢く様、ネミッサ(デビルサマナー)よろしく粗いノイズ交じりの映像の中で、わずかに口角を吊り上げる映片など、常に微笑に等しき曖昧なある瞬間に至る課程を表現するためのトリックが無数にある。認識において枚挙は展開であるが、反対に作家の制作活動においては極度の不毛地帯である。結局は(反復的本質の発見、であると同時に繰り返しのトートロジー、つまりそこに症候として固執することで生存しているということでもあるような)いないいないばあなのである。エロスとタナトスが快楽原則の彼岸において同じものであるように、活動力能の増大が我々自身を解き、棄損するほどに力に開かれるように、「いない」も「ばあ」も、無-限の中で、不在も存在も、どちらも享楽的なのだ。ニーチェは、快と不快という功利主義的な二項を、ただ唯一存在する、力への意志における単なる随伴現象と認識していた。赤子程度の認識しか持たない私たちを満たし、そのことによって新しい渇きを与えるには、一端覆いを被せてから取ることで本来覆いなどないと解らせなければならないし、怠惰な受動者である私たちはすぐさま驚嘆に慣れてしまう、慣れることで耐えようとし、そのことで存在することに倦んでしまう愚か者なので、複数の方法によって教えなければ、むしろ叩き込まねばなるまい。そして勉強が退屈であるように、バリエーションは教育的であり、やがて誤概念が形成されて次のパースペクティブにお前を引き渡して崩落する橋として役に立つのであって、その退屈さは機能の一つですらある。お前は存在する。睡眠は死ではない。母親は存在する。お前が母親でいないことによって。お前は母親ではない。お前はお前である。お前はお前自身のために、お前をケアしていく必要がある、お前は母親ではないが父親である、「エスがあったところに自我がなければならない」、「女は男の症候」云々…一連の教育課程が始まる。エスを解釈する自我がいつの間にか我となっているのだ。しかし存在と非存在を、常に既に成立している事態を事件化して理解することは大人であっても難しい。ましてや私が常に既にして私であり、さらに父であったなどと気が付くことは。あるいはそうではなく、今もって少女であるということが。そしてその少女は存在しないということが(「ローラはもうここにはいないわ。いるのは「私」だけ」『ローラ・パーマー最後の七日間』)。繰り返すが、二項によって立つ世界の概念的な把握は、ある種のフィクションであり、むしろそのことによって語る/騙ることが可能になる、そういう理解の方法なのである(ベルクソン-ドゥルーズはこの二項対立的な認識の仕組みを、その極点における「純粋」なものについて権利上のものであるということによって、カント以降も哲学を為しえたのだ)。デリダが言うように「自ら自分に与えることのできるものを見させる」ためには、「私-標記」である図像を消去することでむしろ可能となるのだ(またも繰り返しだ。そして繰り返しが二重になって、ずれていく)。したがってそこに謎はなく、だからこそ私たちはそれより前に進めない(これが、ウィトゲンシュタインが論考の最後に書いていることである)。そしてそのことは阿部嘉昭が「「空位」の時間のなかにいる者が最終的―宿命的に出会うものが必ず「平面」であるという詩的事実」と述べていることを思い出させる。この先行き止まり。私ではない者、他者の存在が告知され(それを示すものが、超越の徴=貨幣である。婚姻という、一人の人間ところの無限を受け渡した出来事を記念した、そのことによって永遠に結ばれた出来事を記憶するモニュメントである)、その立て看板に恐れをなして退却し、思いめぐらすしかない(そして枚挙、類例の発見、情報伝達のための圧縮が始まる…)。ある出来事から引き返して、あれは何だったのだろう?と思案する。それを繰り返すことで、いつも私はそのことを考えていたということに気が付く。反復された項に気が付いて、それが常に既にそうであったように思える。青い鳥。サルトルが入眠時幻覚について語っていたこと。それより先に行くには折れ曲がって別の渦に巻き込まれ、例えば絵画史の話をするしか、ドゥルーズの絵画論の話をするしかない。ドゥルーズとガタリは芸術をまずもって、立て看板であり、鳥の巣であると理解した。トートロジーについては笑うしかなく、ここから先は行き止まりなのである。しかしそれは、同時に巣であり、差異に耐える反復的様式を以て立つ巣は、敵を避け、パートナーをおびき寄せる、異なる働きを同時にこなす。語りを語り出すことは、むしろ語り得ないことを語るために、語り直すことによって可能なのか。ウィトゲンシュタインが哲学は終わったと豪語した後に、早速アウグスティヌス『告白』第八章では~と語用についての哲学史的なコメンタリーを始めざるを得なかったように。
 ゆえに/だから/しかし阿部嘉昭がブロック状のモザイクについて語っていることも参照に値する。このモザイクは、普通卑猥なものを覆い隠す際に用いられるような形をしている。故にこの形についての参照項として『AV原論』がやはり呼び出されるのだ。「いつも何かが剥離していると感じられるような瞬間の連続、だが、そのことによりAVは、みずからへと鑑賞者を誘い込む「牽引力」を有することができる―それがモザイク模様などによってぼかされたAV的局部の魅惑でもある」。そしてそのぼかされることで得る未決定性こそが、牽引力なのであるとすれば、そしてそこでは「「決定」と「未決定」が、正確に分別できない」ので、本書が述べる通り「推移の差異を計算に付すことで、見失ったものを想像裡に結像させ」ることができれば、「その向こう側に近づけるかもしれない」のだ。
 平面にぶち当たってもなお、平面の部分を、他の平面よりも抽象化された面を語ることが必要であったかのごとくである(「表面がよってたつ表面性を克服せよと挑みかけてくる」のであるから)。部分対象であるメトニミーについて語る。唇や髪の毛について。鼻や瞳について。そしてその向こう側で蠢く無数の平面、唯一の平面について。心と顔の区別のない、その人について。あるいは逸れてしまい、形式それ自体について。形式が反復されることによって広がっていく平面の運動について。作品の効果、映っているものであると同時に映っているものを実現するパレルゴンについて語る。ボルヘス『バベルの図書館』の偉大。それは法則や記号がなければ経験が叶わないという理解の完全なるアレゴリーである。だから周期的なのだ。

 

写真を眺めるように


 映片(に映りこんだ彼女)を理解しようとしてビットレートを落とし、処理速度を上げる、しかし想像すべき細部は無限に増えていって、作品をとらえそこなえそうなほどに曇らせる。しかし分割がある程度に達した瞬間、それは晴れ渡り、始めの瞬間に戻っているともいえるのだが、分割が実在の細やかさに至って彼女の顔を再び見出すようなそういう反復の仕方とも取れる…何度も言うがトリックは簡単だ、4秒をループさせるだけである。しかしトリックがもたらす情報は単なる自画像以上にエコノミー(バタイユ‐フーコー‐リオタール)的に優れたプレゼンテーションだ。私が見たかったものに達した時、むしろ私の想像、認識は費える。トリックは初めから開示されているので、何も認識したことにならない。俺の書いていることが終わる。
 制作学を見出そうとして、私は再び足場を見出す必要がある。ニーチェについて田島正樹が語るように、哲学者の健康とはあらゆる徴候である形而上学を逍遥する旅にある。私自身の経験と記憶を糧にふと見やれば、次なる大地のふくらみがあり、その不思議さについて語りを続けることができる(私もまたこの文章を書きあげるという不可能事を可能にし得た、そのためのトリックを開示している)。ここでこの映片に対して、映画論ではなく絵画論を以て語ってきたように写真論を接続することも可能であろう。
 バルトは写真論『明るい部屋』の中で、ストゥディウムとプンクトゥムを区別して論じていた。まさに彼女の「顔」を映している点において、この映片はストゥディウム的であるが、プンクトゥム的なものになっていく過程を示しているともいえるだろう。プンクトゥムは部分対象であり、かつ理由がないものである。つまりは説明し難い、なんだかよい感じの萌芽、そのはかない対象を、私の認識だけが見つけ出したのではないかという慄きだ。この映片は、ミニマルに砕け散る様を反復させることで、映像がプンクトゥムになっていく過程を説明してくれていると言えよう。そして映片は、トリックが明かされているにも関わらず惹かれるというという点で輪をかけてプンクトゥム的である(魅力的な写真は、それが何の写真なのかわかったところで何もわかったことにはならない汲み尽くせなさがあるということである)。バルトはこのことを知っていたし、いつも語っていた。魅力とは理由がないのにただ惹かれる際に感じる一種の謎なのだ。
 そしてこのミニマルな反復は、写真の本来の時間性を明らかにしてもいる。写真では本来極小の時間が引き延ばされてあるのだ。佐々木中がバルトの写真論に触れながら述べていたことであるが、写真を成立させるために暗室に光を取り込む時間は限りなくゼロに近づいても、永遠にゼロにすることはできないから、むしろ写真とは時間芸術なのであるという。逆説的に写真とは刹那の映像なのであり、私たちは初めから瞬間を超えたものの描像を、写りこんだ残像を見ているのである。こうした点について、映片はgif形式の身近な映像であるため写真よりも分かりやすく、わずかな時間像であることが理解しやすい。しかし冗長かつミニマルな単位である。一小節分しかない音楽の繰り返し。繰り返しは繰り返しであることを認識すること、最小のセリーに本質を求めることで圧縮される。
 バルトはまた、写真についての現象学を打ち立てようとした。つまりその本質学を打ち立てるということである。しかし、それを宣言したその瞬間からその不可能性について述べている。つまりなんらか本質的なものを写真において語ることが困難であることをはじめから理解しているのだ。それは、写真が偶然的であることに由来する。偶然が写真の本質である。しかし偶然に介入しようと、勝とうとするのが、好運をつかもうとするのが人間だ。人は鍛え、待ちわび、構え、応じる。シャッターチャンスである。そして世界は続く。現実もまた様々な微視的な運動の抽象である(それはそのただ中で「私」が認識することと現実性が結びついているからである)。一般意識。此性もまた、一体何が本質的なものなのかという問の外延を作り出しているだけ、限界的な答えに他ならないように思える。すべてがすべてである時、何を表現すべきか。常に既に表現している、私について再び人は描こうとするだろう(その最初の規定はあまりにも直接的であるがゆえに、直接性の規定をもって媒介的な認識となって、消えていく)。またも周期的だ。

 『明るい部屋』の後半でバルトは、亡くなったバルトの母親がまだ若かった頃撮影された写真について語っている。既にして亡くなっている人の、若く生き生きとしている瞬間、その時間とは何なのか。もちろんそれは過ぎ去った時間に過ぎないということもできる。しかしそれが在ったということを確信させるという。と同時に、もういないその人の、若き日々という、今の時制から永遠にたどり着けない時間を垣間見てしまうことの不思議をも語っている。映片に映し出された美しい彼女が存在したこと、彼女が今日まで見つめ続けた己の顔貌を、それを反復の対象としたことに創意があり創造がある。そしてそれは失われたものである。写真である限り、映片である限り。しかし/そして作品は反復する。死はまさに媒介として消えてしまう(死は存在しないという古来からの、哲学が成し得た究極の発見)。映片においてすべてが曇るかに思われた瞬間が現れそうになりながらも、その緊張が高まった瞬間に彼女の微笑が戻ってくる。微笑を見つめ続けるとまたしても微笑を見失う。しかしその認識が従う二重分節的な、しかしフラクタルなオルジック(≠オルガニック)さを以て敷き詰められていくブロックノイズは、すべてを書き消そうとしてむしろ自ずから消え去る。消し去ること自体が消し去られる(「無が無化する」)。図り難い微笑がまたも現れる。そして再び認識は、またその作品の近寄り難さに従って作品を抽象的に理解し、そのことで作品は耐えがたいほどに曇り、しかしその先に作品のトートロジーという全き明晰な概念に至ったかに思えた瞬間に、またも具体的な顔貌に驚き、それがひび割れていくことに涜神的な悦びを見出しつつ…私の記述する言葉も、各種平面に通じている線に従って、断片化していくだろう。

独身者の機械の向こうに

遁れむ、故意に誘いているやも知れぬこの自然なれば。私とても誘惑に魅せられたふりをすることがある。さてそんなとき私は呟くのだ。≪それはむかしからの睡りなのだ。俺が静かなそこへ帰つてゆくさまざまなもの。俺が誤りもなく安らかにそこに帰つてゆくと云うこと、それはそのものにとつて抗い云いたてることも知らない嬰児をそつと膝の上へ乗せるようなものなのだ。唖で白痴で美しい静かな娘―しかもそんな娘がすやすやと眠っているような調和がそこにある。恐らく太古以来、自然はその本来的な流れによつて、そんな風に誘つているのかも知れない。≫さて、私はからくりを知っている。

埴谷雄高「不合理故に我信ず」

 埴谷雄高のいうからくりは二重で、彼が白痴美に魅せられていると同時に、白痴を女性に演じさせるという狡知にも存する。また女はいつものごとく白痴でなく、男はからくりを知ってもいないのだ。つまり2人は共犯なのである。思うに、現実的になるということは、(現象界を裏返すようにしてクッションの綴じ目を縫い合わせ、現実の対象a的構造を知ってもなお)欲望を抱く、ということかもしれない。オルフェウスは帰還せねばならないのだ。やっていけるようになること。世界を愛すること。愛し続けること(あえて唯一の読者のために言えば「推し」を推すこと)。あるいは愛するためにもう二度と会わないこと…。症候を生ききるというラカン的な結論と、『アンチ・オイディプス』後の世界、フライデーと島で戯れるロビンソン(トゥルニエ『フライデーまたは太平洋の冥界』)が至った世界は同じものかもしれない…。阿部嘉昭が述べているように、ナルシスが男性で、エコーが女性であるということには重大な意味があるのだ。私が水面を見つめ続けても、私の顔しか見えてはいない。しかし伝説を伝えるオイディウス『変身物語』におけるナルシスは「もう騙されないぞ」と言って水面を突き破って溺れ死んでしまう。まるで自己のイメージを突き抜けて「本当の自己」という危険なものを知ろうとして事故死してしまうように(そしてたとえば悲劇では、本当に愛し合っているということを示そうとするが故に、恋人たちは死んでしまう)。対してエコーは消えてしまうことによって、今日も山々に響き渡ることとなった。そうして不死に至ったのである。死ぬことの他に、「もう一つ」反復すべき項を見つけ出せということか。
 作家は同じモチーフを反復する者である。彼のダンスが彼の巣となり、彼を他から守り、彼の元へ愛すべき他者を呼びこむ(愛するため、あるいは食べるため…?)。2つのことを同時に意味するような意味が、世界の中で全く矛盾なく同居している。潜在的な渦が、線として顕在化する。ダリが自身の絵(つまりは最新の研究成果)から活路を見出したように、自ら生み出したものをよく見ること。その機械状無意識を掌握し、ダイヤグラム(それはドゥルーズが何度も述べるようにカタストロフそれ自体である)の危険に降りていき、新たな図像を手に入れることを可能にした。彼女の創作したものについて、未だ語ることは出来ないのであるが(特に暴力的に処理されたファクトゥーラ、油彩による表現について。しかしそれはたかだか俺が知っている水面に映ったお話ではないか。彼女が何をそこで実践し、占い、賭けているのか、私はそれを知りたい…)、作品の中で前作が揚棄されている弁証法的な自己矛盾は、寄る辺ない彷徨を手助けするたった唯一の導き、私とは私であるということ自体に乖離を見出すことで、ここに居所を見出しながらしっかりとあそこへ行けるようになっている運動の自己言及であり、それ自体が差異化である。「私とは、一人の他者である」(ランボー)。
 そして制作学の自己言及に至って、改めて大局的に問うことべきは、自画像の問題、此性、「この人を見よ」ということだ。彼女は彼女の顔貌を対象とした(それは彼女自身にとっても、最も凝視したはずの鏡の中の反転像だと思われる。私のすぐそばに存在する、私を認識するための、私のparallax view 私の死体に似た者、私の死の姿…)。そしてそれは微笑している。
微笑が行き止まりであることは、三島由紀夫も述べている。思うに微笑みの冗長性は「来るな」と「来い」が一緒くたであることから生じるのだ。つまり「画像はイメージです」という訳すことのできない同着語法の作用である。画像はイメージです。イメージはイメージです。イメージとは単なる、あるいは偉大なイメージなのだ。バーチャルとしての私を消費せよ。すなわち貨幣である。交換だけが可能になっており、最終的な価値との交換は常に既に差延され続けるのだ。
 「出来事は形態と空虚の同一性である」。ドゥルーズですら『意味の論理学』ではこう論じていた。超越論の哲学史に通じていることもあろう。しかし既に『マゾッホ紹介』に『アンチ・オイディプス』で反復される、その反復を待つ初項が蠢いているのではないか。否定が幻想を作り出すこと、その肯定性。マゾヒストがうわべだけの服従によってむしろ順法闘争において勝利すること。敢えて纏足的になること。否定の否定を通じてファルスを持つこと? 化粧を通じて仮面に至り、その仮面が壊れるまで仮面を背負うこと。なぜなら強き力と戦うためには、その力の仮面をかぶる必要があるからだ(またもドゥルーズ『ニーチェと哲学』)。だが、いつ我々は鑑賞を辞めるというのか。ご存知のように「終わること」には2種類あり、マリオの残基が1つ減ることと、ゲームオーバーは異なる(ジジェク)ように、映片の反復によって消去される死と、そもそも鑑賞を辞めてしまうことは異なる。であるとすれば、鑑賞とは純粋待機の思想、「掟の門」(カフカ)なのだろうか?(今更な問である、初めからフェティッシュとは、お前のための門、あるいは独身者の機械であったと述べてきたのに)。地上を彷徨うしかなく、相変わらず独身者の機械に法を転写されるのを待つまでの、この此岸の時間。「教え」が常にダウンロード中であるがゆえに、聖者には活動する理由がある。彼らは必ず成功する。作家もまた必ず成功する。なぜなら、このように考えることが出来ないか?と問うことができるからである。男は掟の門の前で待つのを辞めて掟の門について語ったのだとすれば? 敢えてそこから戻り、「自分のための門」が存在していたと豪語したとすれば? そして彼がそのことを流布し、取引を始めたとすれば…

引用-ポップアート-私のコラージュ、そして「一度も現在になったことのない過去」


 例えば台湾、故宮博物館の宝物リップは漢詩の経験を与える。宝物を引用可能にする(すべての石をパンに変える資本主義の悪魔的作用)。そしてそれら参照可能になった文字=色を女性たちはサンプリングする。サンローランブルーがマジョレル庭園からの引用であり、またモンドリアンワンピースがあるように、何もないところに質をもたらすためには、涵養された判断力が必要で、そのために引用されるのが絵画史・建築史であり、それらがファッションにおいて地層になっている。プレタポルテはクチュールというイデアを解体して得られる大量生産ライン製品、レディメイドであり、オリジナルなきコピーにまみれた我々が組み上げるブリコラージュの塹壕に提供される素材だ。ポップアートである。それらを引用し、諸価値へ砕けていくことで、私は私ではなくなることで戦闘的な私になる。帝国の遺物、貨幣、超越の記念碑になる。それらで武装して街に繰り出す…。いつもの資本主義下における部族神話。既にして反復されていた『アンチ・オイディプス』を、むしろ『マゾッホ紹介』を経由することで、如何にして私たちは反復に差異を導入するというのか。いな、差異は既にそこにあり、そこから既にして別様なことを、いつものごとく、語り始めることができる。

 再び微笑について。ギリシャ的な、古典劇風の触れられなさを自分自身から発揮される高貴さから要求するのは衛生的で、そして何より疑似餌としてあなたを何処かへ連れて行く願いなのでよい。いいぞ、もっとやれ。全ては実現するままに実現している(ディネーセン『バベットの晩餐』でも言われるように、芸術家が神に望むことは、成功というより最善を尽くさせてほしいというただそれだけのことだからである)。生まれなかった松吉の…的な繰り延べ、巻き戻し、消去。でもそれは、消去の際に見えている最後まで見つめていた記憶でもある。デリダ的な過去。一度も現在で合ったことのない過去。そういう過去に「なれる」力。「見出された時」。俺は「すべてがよい」ので、致命的な白痴だが、何が高貴で何が美しいのかはわかる(そのためにあらゆる判断を失ったが。そのために理解不能かもしれない言葉で時間の停止を願い、「お前は美しい」などという羽目になったのだった…)。故に、言われるまでもないことだが、作品を作り続けて、生き続けてほしい。力に翻弄されるのも力を発揮することもまた力の中にいることだ。そしてそれだけが存在している。全ては滅びるにも関わらず永遠がある。このこと自体が重大なヒントであり問いである。

 この世界というがらんどうの虚空には、「何もない」だけが永続していたので、かつての、一度とて現在にも未来にもなったことのない映像を、その空白のスクリーンに投射することにした。般若心経。世界は初めから壊れた映像のように存在している。

 

あとがきに代えて


 以上のような怪文を、私は2019年の段階で書いていたのだった。見出しを付け、いくつかの文言を抜き取った他、ほとんど変えていない。しかし、お経を唱えるとはどういうことか! 作品は、彼女の言葉に従うなら、お墓だからだろうか(私は経験したことがある。親類の集まった席で、親類たちの顔貌の中に彼らに近しい死者たちが反響している様を見た。母は彼女の母方の祖母に似てきており、叔父は彼の母に、叔母は彼女の父に…皆が揃っていた。顔は複数の流れなのだ)。とかく、我々はいまだ生存しており、思考する精神はいつでも永遠に若い。やっていくか(「我々の畑を耕さなければならない」 ヴォルテール『カンディード』)。


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