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早わかり加速主義: ポスト・インターネット状況下の小説(春海水亭、佐織えり、quiet)

Chat GPTが話題になった2023年、私たちはどんなに難しい論文もその要約によってファストに理解することが可能になっている。長文や難文が要約によって「早わかり」されることが当たり前になった現在、剥き出しの結末によって物語を「早わかり」させることに特化したポスト・インターネット状況下のウェブ小説は私たちにどんな認知をもたらすのか。江永泉は、加速主義を鍵概念としてポスト・インターネット下に流通する情動を剔出する。
(執筆・江永泉)

1.

 加速主義とは何か。様々な説明ができるが、ここでは次のような一節の参照から始めたい。ある座談の中での、仲山ひふみの発言である。

当初はイギリスのクラブミュージックとも密接なつながりを持ったインターネット上のサブカルチャーとして、まさに加速した状態から始まった

千葉雅也ほか「加速主義の政治的可能性と哲学的射程」
『現代思想 特集=加速主義』2019年6月号、p.22

付言する。差し当たり、1990年代イギリスで加速主義は興った、と言える。同時代のイギリスのクラブカルチャーと密接な思潮で、現代アートにも影響を及ぼしたものだ。ただし「加速主義」という呼称が広まるのは2010年代に入り、過去の一連の流れが回顧されてからのことだった。ロンドンのゴールドスミス大学で加速主義に関するシンポジウムが開かれるのが2010年、ニック・ランドが「暗黒啓蒙」を発表するのが2012年、ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズ共著の「加速派政治宣言#ACCELERATE MANIFESTO for an Accelerationist Politics」の発表が2013年、そしてロビン・マッカイとアルメン・アヴァネシアン編著の『加速主義読本#Accelerate: The Accelerationist Reader』の刊行が2014年のことだった。さらにその後の様々な動きのなかでこの語の帯びる意味合いは変動しつつ現在に至っている。

 例えばポストモダンという語がポストトゥルースだとされる現代の時事放談に濫用されているように(とりわけ2010年代後半には盛んだった)、加速主義なる語も濫用されがちだ。とはいえ、加速主義なる思潮それ自体、どこまでが適切な語用なのか容易には見定めがたいという厄介さを抱えている。ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』(1972年)などの著作を念頭に、「プロセス」を「加速」するのが加速主義だとは言われるものの、何が「プロセス」に相当し、それをどうするのが「加速」なのか、それらは十分には明瞭でなく、向かうべきところは定まらないままである。それどころか、いまだに思い思いの加速主義が語られる中で、一人一派とまではいかずとも、意味合いが様々に拡散しつつ○○加速主義や××加速主義などが語られているというのが現状である。ただし、そもそも〈加速〉なる語が、そのような新造語の開発へと掻き立てる魅力を秘めたものではある。そもそもドゥルーズ+ガタリによる「プロセスを加速すること」という文言自体が、ニーチェの一節に由来する表現であり、その換骨奪胎なのであった。

 仲山は加速主義について、こう指摘していた。「SF小説が描くような未来社会を例に出さずとも、アナログレコードやレトロゲームの再ブームなどを日常的に経験している私たちにとって、何が「技術的進化」の指標であり、何が「加速」なのかを判断できない状況の出現は容易に想像できる。資本主義は世界を絶えず意味論的に改造していく」(仲山ひふみ「加速主義」『現代思想 総特集=現代思想43のキーワード』2019年5月臨時増刊号、p.43)。実のところ、加速の意味合いがズレていく事態は必ずしも不本意な逸脱なのではない。例えば〈リアリズム〉や〈ロマン主義〉、〈モダニズム〉などの思想潮流について思い起こそう。これらの語の意味するところは時代や地域ごとにズレや飛躍を伴っていたはずだ。しかしまた同時に、それらの思潮は、新たな地点・時点で、ズレを含みつつ引き継がれたり、飛躍を伴いながら再び開始されたりしてきたはずだ。要するに、こうした動きには変異がつきものなのだ。そしてとりわけ〈加速主義〉では、その手の変異が顕著に起こるというわけだ。

 それでは現在の日本ではどんな変異が起きているのか。例えば、加速主義について、こんなコメントがなされている。

映画を倍速で観る人たち多数派を占めつつある時代にふさわしい思想だと思う。結果の良否はどうでもいい。結果を今すぐこの目で見たいという欲望のあり方は私にも理解できる。「棺を覆いて事定まる」とか「真理は歴史を通じて顕現する」とかいう考え方は「ことの良否が定まるまでには長い時間がかかり、生きている間には結果を見ることができないかも知れない」という人間の有限性の自覚に基づいている。当然「そんなの嫌だ」という人もいるだろう。自分が今していることの意味は今すぐ知りたい。判定を「後世に待つ」というような悠長なことには耐えられない、と。
 この加速主義的傾向は今社会のあらゆる領域に広がっているように思われる。[……]

内田樹「維新と加速主義」
『内田樹の研究室』2023年4月16日投稿、原文ママ

ここでは当初の「イギリスのクラブミュージックとも密接なつながりを持ったインターネット上のサブカルチャー」としての加速主義の意味合いはかなり薄れているように映る。もはやドゥルーズ+ガタリ的な「プロセス」の「加速」が視野に入っているのかも、一見、判然としない。しかし、現代社会の状況、そしておそらく資本主義の現在のありようと密接に結びついているであろう傾向への着目があり、それが加速の語で名指されている。つまり「結果を今すぐこの目で見たいという欲望」に突き動かされる社会状況が、ここでは捉えられている。

 このコメントでピックアップされているのは、いわば早わかりの欲望である。しかも、二重の意味での早わかりである。一目でわかる結果へと向かう欲望であり、また結果にすぐ辿り着こうとする欲望でもある。言い換えればファストなネタバレへの欲望だ。いみじくも、現在、次のような歌詞で始まる曲がYouTubeで1000万以上回再生されている(2023年12月時点)。「愛のネタバレ「別れ」っぽいな/人生のネタバレ「死ぬ」っぽいな/なにそれ意味深でかっこいいじゃん/それっぽい単語集で踊ってんだ 失敬」(ピノキオピー『神っぽいな feat. 初音ミク』2021年9月17日投稿)。こんな風にしてある種の加速主義的傾向が社会のあらゆる領域に見出されるわけだ。それをここではこう呼んでみる。早わかり加速主義、と。


2.

 さて、早わかりとは要約のことであり、要約はネタバレにつながる。話のポイント、物語のオチだけをファストに知りたい、という願望。そのようなニーズに合わせたかのように思われる作品が春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく』(全18話)である。小説投稿サイト『カクヨム』に2020年12月16日から同23日まで14回に分けて連載された作品だ(なお2023年4月1日に「本当の光景」という章題で新たに4話が追加され、全18話となっている)。タイトルからして身も蓋もないのだが、概ね各話ごとに、死んだり消息不明になったりした人物をめぐる逸話が断片的に、記録や談話や手紙など様々な文面で記されている。総じて、「オチ」以外を欠いた断片的な話の集まりだといえる。また話によっては、SNSや電子掲示板、商品レビューなどの体裁をとっている。その筆致は、実話怪談やネットロアの影響が色濃い現代ホラー作品、例えば雨穴『変な家』(2021年)『変な絵』(2022年)や梨『かわいそ笑』(2022年)、あるいは背筋『近畿地方のある場所について』(2023年)などを連想させるものである。ただし、本作の各「オチ」には実話感が壊れるほどの極端な記述や舞台設定も散見される。『ホラーのオチだけ置いていく』の第14話「あとがき」では「この物語はフィクションでした」と簡潔に述べられており、内容の実話性は否定されている。ただし、第13話まで続いてきた連載小説『ホラーのオチだけ置いていく』の作者による「あとがき」(形式上は第14話)と見なすのか、それとも全18話ある連載小説のうちの「話」のひとつであると捉えるのかで、その文の含意は揺れる。

 春海水亭による「ホラーのオチ」の列挙は、一見すれば、早わかりの加速という風潮にまさしく合致するものに思われる。タイトルにもあるように、概ね掌編と言ってよい字数で様々な「オチ」がつづられているからだ。理不尽な死や失踪などのほか、日常の風景から狂気の世界への唐突な突入が次々と描かれている。未読の本の目次だけを眺めて内容を想像するように、それぞれの「オチ」を読んでそこに至るまでのストーリーの全体像を思い描くのが、ひとつの読み方だろう。そのような鑑賞姿勢が織り込み済みであることを示唆する一節が作中に見られる。

結局、この物語の全ては断片に過ぎない。
少しだけパーツを足してやることで、物語は思いもよらぬ姿を見せるかもしれない。
欠片を欠いた空白にこそ恐怖は潜むのだから。

春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく
第13話「比仁良 衣子 享年5歳」

本作は「ホラーのオチ」だとあらかじめ宣言されているので、その外側に語られざる物語があると想定するように読者は促される。本作のそれぞれの話を、あたかも劇場映画のトレーラー映像や楽曲のビデオ・クリップのように鑑賞できるようになる。ただし、この小説で提示されているのはいわば予告編のみだ。書き手が本編を提供する代わりに、読み手が内容をお好みで追加できるようになっているのだ。『ホラーのオチだけ置いていく』の空白は、貧しい欠乏のしるしではなく豊かな夢想の余地となるようにデザインされている。結末を見てそこに至る物語を付け足していく人間の振る舞いは、最初に入力された文章を引き継いで物語の続きを書いていく文章生成AIの挙動と好対照をなすだろう。とはいえ、いわゆる行間を読むにしても限度がある。

 だが、その手短に記された簡素さに対して、手の込んだ形容に満ちた描写とは異なる凄みを覚えさせられる。というのも、率直な破滅描写の叩きつけるような反復によって、「運命の怪奇な強硬さ」(大岩雄典)が感じられるからだ。大岩は、鶴田法男監督の映画『予言』(2004年)で描かれた一場面、すなわち予言された死を回避したはずが理不尽にも訪れる死の場面(通り魔から逃れたのに無傷なはずの胸から出血して死ぬ)を念頭に、以下のように記している。

運命のこのような怪奇な強硬さはいわば高橋洋のいう「死の機械」と言えよう。[……]高橋は、人間の感情に関する「メロドラマ」にたいして、非人間の領域である「悲劇」こそ、人間さえもその一部として、死や破滅に向かう「機械」「運命」「構造」であると考え、そのような作劇を追い求める。これは、マーク・フィッシャーが時間の「閉じたループ」などに見出す怪奇な運命が、強烈に怖ろしくホラー化したものと見なせるだろう。

大岩雄典「時空間のホラー:怪奇なアルゴリズムとぞっとする時差」
『早稲田文学』2021年秋号、p.131

無慈悲なルール、残酷な定めの覆しがたさにより、ホラーの感覚が生じるわけだ。
豊かな想像の余地を示唆する空白は、「死の機械」の無情さを際立たせる虚無にも映るのだ。『ホラーのオチだけ置いていく』のそれぞれの「オチ」は、本来は存在するはずだった物語の「ネタバレ」のように映るわけだが、その早わかりでの反復それ自体が「運命の怪奇な強硬さ」を帯びてもいる。死や失踪という「オチ」が問答無用の速度で繰り返しやってくることで、相互に繋がりを持たないはずの断片の羅列が、抗いがたいルールに支配された「閉じたループ」を読み手の頭の中に思い描かせるのだ。怪談にはつきものの因縁や経緯、人情を物語るそれらが消去されて剥き出しとなった「オチ」が示される。そのとき本作の読み手は、物語世界の外部の事情で登場人物たちの破滅が決まっていたかのような印象を持つことになる。ホラーというジャンルのお約束によって死が招かれたのではないか、と。思えば、秩序だった世界の外部からの不条理な力による破滅こそ、ホラー的な事態ではなかっただろうか。何か既に起こってしまった後の顛末、すなわち「オチ」の連続は、このようなわけでマクロな規模でのホラー感、言い換えれば、様々な話を貫いて支配する「怪奇な運命」を読み手に味わわせることになるのだ。例えばこんな具合に。

以上が発見されたビデオカメラの映像である。
井田羽家の焼け跡から見つかった遺体は井田羽美心のものだけで、
中年男女二名、及びこの映像の撮影者の詳細はいまだに不明である。

井田羽 幸次郎、井田羽 明美、井田羽 晴彦の行方は現在も分かっていない。

春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく
第1話「井田羽 美心 享年10歳」

「大丈夫、娘さんは間違いなく地獄に堕ちますよ」

姫宮華が何をしたのかは知らないが、間違いなくそうなるだろう。
不思議とそう思えた。

春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく
第4話「姫宮 華 享年17歳」

以降、稲村 知恵の消息は不明である。
稲村 慶彦、稲村 文枝、及びビデオカメラに映っていた人間は全員死亡している。

ビデオカメラの撮影者は不明。

春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく
第5話「稲村 知恵 消息不明」

もちろん「オチ」総体のレベルだけではない。個別の「オチ」のレベルでも「運命の怪奇な強硬さ」が見出される。有無を言わせぬ突拍子もない描写と、理不尽で恐ろしい描写とは表裏一体である。出来事の描写が唐突で簡素であるとき、つまり「オチだけ」であるとき、そこで作動する「死の機械」の非人間性は際立つであろう。タイトルからして早わかりされるであろう『ホラーのオチだけ置いていく』は、反復される破滅的な「オチ」のまとまりというマクロな水準でも、また各「オチ」ごとの個別的な描写というミクロな水準でも、「運命の怪奇な強硬さ」を際立たせていくのである。早わかりできる簡素な描写も、早わかりされる結果の集積も、動かしがたく宿命的なルールを体現し、不条理な恐怖を催させるのである。


3.

 早わかり加速主義とホラー。このテーマから、佐織えり(Saori)『呪い遊び』を春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく』の比較対象として取り上げてみる。『呪い遊び』は『魔法のiらんど』で2005年11月4日から2006年1月にかけて連載されていた作品である(2006年双葉社から書籍化。なお『魔法のiらんど』での最終更新日は2011年9月16日)。双葉社HPの商品説明ページの文言はゼロ年代に登場した同作の位置づけを端的に証言している――「ケータイ総合サイト「魔法のiらんど」で熱狂的な人気を誇るホラー小説。誰もが心の奥底に抱えている“恐怖”を描き、若い女性達からは圧倒的な支持を得ている作品」。なおSaoriは近年では佐織えり名義で活動しており、2023年には角川つばさ文庫で『サイコロヲフレ 命がけスゴロクから脱出せよ!』を刊行。シリーズ第2巻『サイコロヲフレ(2) 罠だらけの生き残りペアゲーム』の出版社特集ページには小学生読者たちの感想が幾つも掲載されている。

 このゼロ年代連載のケータイ小説では、「前に見た、怖い話の本に載ってたやつ…呪い遊び…」(p.159)なるものに倣った、学生たちの何気ない思い付きに始まるゲームが拡散していく。「呪い遊び」のルールは簡潔に言えば、誰かから「仕返し」として暴力を振るわれる代わりに、別の誰かに自分が受けた規模の倍で暴力を振るう「仕返し」ができるというものだ。

 暴力は連鎖し、作中では、かつて「仕返し」で死亡した人物がなぜか悪霊と化して、潮の満ち引きすら「引けっ」(p.78)の一言で操作するほどの、超自然的な力、「コトダマ」(p.79)を操るようになっていく。ただし悪霊でも「ルールを破ったら罰がある」(p.195)のであり、ただ理不尽な力が悪霊に与えられているわけではなく、物語のプロローグ(p.13)で提示されている「ルール」そのものの強制的な力が作中では強調されている。実際、悪霊はそのルールに従う限りにおいて圧倒的な力を振るうが、それを破ってしまった場合、自身が破滅してしまう。『呪い遊び』は、何気なく始められたゲームのルールが人々の思惑を超えて理不尽な力を発揮し、人々を次々に死に至らしめるという内容のホラー作品である。

 例えば高見広春『バトル・ロワイアル』(1999年)や山田悠介『リアル鬼ごっこ』(2001年)などがデスゲームを執行する強権を国家や君主に与えていたのとは対照的に、『呪い遊び』では、国家や君主とは無関係に、なぜそれほどの理不尽な強制力を得たのかわからないゲームだけが「運命の怪奇な強硬さ」を体現する装置として大量の人々を巻き込んでいく。悪霊に殺された者も悪霊になるという描写の連鎖はまさしく「死の機械」じみており、登場人物たちは運命じみた問答無用さを発揮するルールに翻弄される。そして、そこでなされる怪奇的な描写は物語展開と同様に極めて唐突で簡素であり、言ってみれば、ペラい。だがそれゆえにこそ、非人間的な凄みを帯びて映る。実際、そのペラい質感は、春海水亭が描いていたホラーの「オチだけ」の筆致にも通ずるところがある。ここで、それぞれの作品から場面を抜き出して並べてみる。以下のようである。

「ハッピーバースデーミコ、ハッピーバースデーミコ」
井田羽美心の誕生日を祝福する中年男女二名の歌声が室内に響き渡った。
満面の笑みを浮かべて井田羽美心はそれを聞いている。

「さぁ、ミコ。ロウソクの火を消そうか」
「はーい」
男性の促す声に、井田羽美心が蝋燭の火に向けて息を吹きかけた。
一度の息で蝋燭の火は全て消え、それを見た中年男女二名が拍手を送る。
光源が消え、室内の光景は不明瞭。

「よーし、じゃあ次はどうかな?」
液体を床に撒く音。
チッチッというライターの点火音。
黒煙を上げて床一面が燃えている。

「がんばれーミコ、がんばれーミコ」
中年男女二名が笑顔を浮かべ、井田羽美心に声をかけている。
二名は炎の直ぐ側に直立している。
井田羽美心は這いつくばって、炎に向かって息を吹きかけている。

炎が勢いを増していく。
それらを一切意に介すること無く、井田羽美心は炎に向けて息を吹き続けている。

春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく
第1話「井田羽 美心 享年10歳」

「はい、二人とも…ストーップ!!」

人間だったものが…

義成がこちらを向く。

義成の顔だけが、体は背を向けたままで。

「邪魔されるとマズいんだよね…終わるまで、ちょこっとそこで待っててよ」

そう言われた瞬間だった。

急に足が動かなくなってしまった。

「満潮まで待とうと思ったのに、面倒臭いなぁ…」

義成はバキバキに折れた指を空にかざす。

「引けっ」

こんなこと、ありえるのだろうか…

波は一気に引いて、砂浜が広がって行った。

「引いたあとは…どうなるかわかるよね」

義成はニコニコ笑う。

佐織えり(Saori)『呪い遊び』p.78

『ホラーのオチだけ置いていく』がその身も蓋もないタイトルでファストに示唆し、かつ断片の集積で体現している「運命の怪奇な強硬さ」、それが『呪い遊び』にも見て取れる。『呪い遊び』の場合は、プロローグから掲げている「呪い遊び」というゲームが物理法則などを歪曲しながら理不尽にまかり通る様子を繰り返し描き、そのルールの宿命じみた避けがたさを作中で際立たせることで、作中世界それ自体をホラー的な雰囲気に変じさせている。

 ここまで見てきた二つのホラー作品は、その高速の物語展開と簡素な情景描写の面で早わかりに傾斜している、とも評せる。こうした早わかりはペラさと表裏一体の凄みを生み出す。それは理不尽で問答無用に進む展開と描写の凄みなのである。そしてその凄みは「運命の怪奇な強硬さ」を顕現させる「死の機械」めいており、それゆえホラーというジャンルによく馴染むのだ。

 それにしても、こうした高速化と簡素化はなぜ生じたのであろう。ひょっとすると、物語が記述され流通し読解される環境に促されていたのかもしれない。かつて濱野智史は『魔法のiらんど』で2005年12月26日から連載されていた美嘉のケータイ小説『恋空』を取り上げ、同作の記述スタイルを「操作ログ的リアリズム」と評していた。その内容は『アーキテクチャの生態系』(2008)にまとめられているが、書籍化する以前におこなっていた連載の内容がウェブ上に保存されている(『WIRED VISION アーカイブサイト』を参照)。その一節にはこうある。

実は《客観的》に見れば――すなわち「第三者=読者」の目から、あるいはサルの生態を観察するような「観察者」の目から見れば――トンデモで「脊髄反射」的に見える登場人物たちの行動が、実は《主観的》に見ればそれなりに妥当で繊細な「選択」や「判断」の連続によって決定付けられていることが分かる。少なくとも、ケータイの存在が当たり前になった世代(それは筆者自身も含まれるのですが)における、ケータイ利用に関するリテラシーや慣習と照らし合わせてみるならば、この作品に描かれているケータイに関する操作・選択・判断・反応のあり方は、それほど支離滅裂でもなければ脊髄反射的でもありません。いってみればこの作品は、「レイプ」だ「中絶」だといった「ストーリー」(事件内容)の水準とはまた別に、ケータイ利用の「リテラシー」の水準で「リアル」を担保しているといえるのではないか。

『恋空』を読む(3):果たしてそれは「脊髄反射」的なのか――「操作ログ的リアリズム」の読解
『濱野智史の「情報環境研究ノート」』2008年2月14日

濱野が連載でフォーカスするのは同時代の「情報環境」であったが、令和の現在から見た際の議論の白眉のひとつはその卓越したケータイ小説読解である。現代社会を生きる人間を「サルの生態を観察するような「観察者」の目から」、しかも「脊髄反射」めいた記述がいかに「それなりに妥当で繊細な「選択」や「判断」の連続によって決定付けられている」のか明確にしながら描くこと。例えば遠野遥『破局』(2018)や砂川文次『ブラックボックス』(2022)など、また村田沙耶香『コンビニ人間』(2016)や市川沙央『ハンチバック』(2023)などをもちろん知らないはずのゼロ年代の濱野智史は、美嘉『恋空』を精読することによって、こうした後年の様々な芥川賞作品とも通じ合うようなリアリティの手触りを掴み取り、記述することに成功していたのである。

 こうした「操作ログ」的なリアリティを念頭に置くことで、ここまで論じてきた二作のウェブ小説のホラー要素をより深く吟味できるようになる。例えば、『呪い遊び』の描写は、さながら入力ひとつですぐ結果が表示されるような「操作ログ」的速度感であると言えよう。同作では悪霊と化した義成の発言「ちょこっとそこで待っててよ」で急に二名の人物が動けなくなるし、発言「引けっ」で潮が引く。ゼロ年代よりはるかにインターネット機器が身近になり、もはや「アーキテクチャの生態系」への意識なしには何をも分析できなくなった現在では、この描写を荒唐無稽だと笑って済ませるのは困難になっている。ある美術史家はこんなことまで言い出している。「ところで、デジタル時代は自然への回帰を引き起こすのみならず、超自然への怪奇をも引き起こすのだと主張したい。われわれは名前をクリックすることでデジタルファイルを開くが、かつての時代には精霊の名前を呼ぶことで彼らを呼び出したのだ」(ボリス・グロイス「近代と同時代性」『流れの中で』河村彩訳、人文書院、p.178)。「操作ログ」的なリアリティには呪術的なものとの近しさがある。

 また、ケータイ小説の綴られたゼロ年代を経て、スマートフォンの圧倒的普及により「操作ログ」的速度感がさらに人々の身体に染みついたテン年代以降の表現として『ホラーのオチだけ置いていく』の描写の簡素さを捉えることも可能だろう。問答無用に進んでいく描写がもっともらしく感じられるのは、読み手が実際にケータイを「操作」する際に体験してきたはずの、入出力の問答無用な確実さゆえである。例えば「削除」を入力すればデータは問答無用に消滅するし、しかしポップアップする「削除しました」に触れて操作を取り消せば、これまた問答無用に消滅したはずのデータは再出現する。そのような速度感で生き死にを描くことに否応なく伴う一種のホラー感があるのだ。

 ホラー系ウェブ小説と芥川賞作品に通底する「操作ログ」めいた殺伐としたリアリティの感触。ここから藤野可織『爪と目』(2013)や猫田道子『うわさのベーコン』(2000)と、kiki『あたし彼女』(2009)などを並べて論ずることも可能に映るが、稿を改めて論じたい。


4.

 ここまでホラー要素を強調してきたのだが、早わかり加速主義には別の面もある。滑稽性である。例えば、あまりにも圧縮した表現がもはや意味不明な文字列へと変じてしまうように、早わかりの加速が解読不能の暗号やどうとでも取れる叫びの生産へと転じることもある。量的な加速が質的な転化を引き起こすわけだ。そして、恐ろしげな文字化けと笑えるナンセンスとは、実際、表裏一体のものである。

 わざとらしく誇張された悲劇的身振りは滑稽にも映るし、いかにもな喜劇的身振りは悲愴にも映る。悲劇の要素と喜劇の要素が表裏一体であるのとちょうど同じように、滑稽と恐怖も表裏一体なのであり、相互に反転可能である。

滑稽味の代表〔道化〕は悲しみの代表〔君主〕と深く結びついているのである。[……]厳密な意味でのおどけがぞっとするほど恐ろしいものにいかに近いか、ということについて、思弁的な美学が説明を与えたことは稀である、いやおそらく皆無である。大人たちが慄然とするところで子供たちが笑う、という光景を目にしたことがない人がいるだろうか?

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻
浅井健次郎訳、1999年、ちくま学芸文庫、pp.272-273

笑いが怖さに転じたり、ホラーな場面がギャグ的場面に転じたりすることがある。両者には近しさがあるようだ。例えば春海水亭の発表した作品群がホラーとギャグに大別されるのにも、そうであるならば納得がいく。思えば、『カクヨム』で春海水亭の代表作に挙がっているのはネットロア「八尺様」の猥雑なパロディであり、他にも太宰治『走れメロス』のパロディなどが見つかる。早わかりの加速がもたらす凄みは、ホラーな展開や描写のみならず、笑える展開や描写にも転じうるわけだ。

 早わかりの加速がもたらす笑いは、例えばグリッチ(バグ)を利用したゲームのRTA(リアルタイムアタック)動画がもよおす笑いとも通じ合うだろう。バグった動きやバグった世界は、ときには恐ろしく映り、ときには笑いをもよおす。ときに時間を短縮するための効率重視の動きは常軌を逸していき、グロテスクと言っていい様相を呈することもある。それを念頭に置いて捉えたいのがゲーム研究者のレインフォレスト・スカリー=ブレイカーのスピードラン(≒RTA)論だ。スカリー=ブレイカーは、スピードランで散見されるグリッチやバグ技を、ポール・ヴィリリオの議論を念頭に置きつつ「事故」として捉えている。「スピードランに挑戦するライブストリームでも、成功したランのYouTube動画でも、あるいはグリッチのチュートリアルでも、スピードラン・プレイヤーは、ゲームがいかに壊されるかを理解・陳列することを大いに楽しんでいる」(スカリー=ブレイカー「スピードラン版事故の博物館」『BANDIT Vol.1』2022年5月、大岩雄典訳、p.59)。つまり、恐ろしい「事故」が笑えてしまうアクシデントとしても享受されているのである。そこではRTAによるゲームのグロテスクな変形がある。

 こうした議論を踏まえつつ、グリッチやバグ技の不気味だが笑える質感と早わかりの加速が合流する一例として、quiet『「ジョブが忍者の癖にやかましすぎるだろ……」と冒険者パーティを追放されてきた爆音忍者四人衆と、来月末までに莫大な借金を返さなくちゃいけない子爵令嬢の浮き沈み激しい二ヶ月分の人生~超速い。忍者なので~』(以下『超速忍者』)を取り上げたい。『超速忍者』は『小説家になろう』に2022年4月28日から同年5月6日まで連載されたファンタジー小説である(「1-1」から「エピローグ④」まで全34部分)。春海水亭の作品と同じように身も蓋もないタイトルが大筋を物語っているが、『超速忍者』では子爵令嬢フェリシー・フェリアーモが急場をしのぐ金策のために四名の忍者を雇ってダンジョンで宝物集めをする悪戦苦闘の様子がコミカルに描かれている。

 この作品には幾重にもRTA的な変形が見出される。なろう系ではしばしば見られる西洋ファンタジー風の異世界を舞台にしてはいるのだが、そこでの冒険は「迷宮の中をこそこそダッシュして『宝箱』をバカスカ開けたら即帰宅」(「1-2 早速面接」)という形態になっており、かつて主流だったという「『宝箱』を開けるために迷宮内部の魔獣を正面から打倒し、征服する」スタイルは廃れている。財宝を発見する効率を重視するために、かつてあったような冒険の体験の質感は破壊されているのである。それだけではない。子爵令嬢フェリシーとチームを組む四名の忍者は、いずれも作中基準で言っても、常識外れの忍者である。四者四様ではあるが、簡単に言えば、どの人物も忍者らしい隠密ができず、むしろ自分の役割をこなす際に派手な音を立ててしまうのだ。それぞれ一芸があるとはいえ、総合的には忍者失格と言ってよい。

 そして二ヶ月で莫大な借金を返済せねばならないフェリシーは、四人の忍者それぞれの持つ一芸をうまく組みあわせ、なんとか宝物を手に入れるための作戦を編み出していく。試行錯誤の末に完成するその形態はPDCAサイクルの回し過ぎで原型を留めないほど変形しているのにうまく回っており、この物語の魅力は地道な創意工夫の積み重ねがイノベーティブで奇抜なスタイルの確立に結実する爽快感にある。ただし、それはやはり異形的なチームワークである。

 さらなるトラブルから情勢が逼迫し、五名は乾坤一擲の大勝負を仕掛けることになるのだが、限られた時間の中で考え抜いた末にフェリシーの提案する「五人の珍奇な冒険者たちの、あるべきパーティの姿」(第十五話「4-5 大儲けの時間だ」)のビジョンは、はじめはその当の忍者たち(アルマ、シオ、オズウェン、ミティリスの四名)、そしてフェリシー自身でさえも次のようなリアクションをする、奇抜な内容になっていた。

「今日の分の作戦を、説明します」
 フェリシーはそうして、言葉を尽くし始めた。

 四人の反応は、やはり様々だった。
 呆れ、困惑、茫然、半信半疑……けれど、アルマが「ふへっ」と洩らしたのを機に、そしてフェリシー自身も釣られて「ふふっ」と噴き出したのをきっかけに全ての反応は、ひとつに収束していく。

 真夜中の。
 嵐を掻き消すような、大笑い。

 それが静まると、不思議とシオとオズウェン、それからミティリスの視線はアルマに集中する。え、オレなの、というようにアルマは自分を指差して、頷かれて。

 きっと、それだから彼は。
 こちらをじっと見つめて、少しだけ素面に戻ったような、しかしまだどこかあの笑いの中に身を置いているような、不思議な温度の表情をして。

 こう訊いてくる。


「正気で言ってる?」

 勿論、本気で言っているに決まっていた。

quiet『超速忍者』第14話「4-4 ちょっと耳貸して

元々の「迷宮内部の魔獣を正面から打倒し、征服する」スタイルからすれば異形的とも言える「迷宮の中をこそこそダッシュして『宝箱』をバカスカ開けたら即帰宅」というやり方。フェリシーの提案した一発逆転の作戦は、それをさらに変形させたものであり、思わず笑いが催され、またそれを口にした人物の正気を疑いたくなるような内容だったのだ(具体的にどのような作戦だったのかは実際に「4-5 大儲けの時間だ」を読んで確かめてみて欲しい)。ここには映画を倍速で観るどころではない変形に次ぐ変形がある。そしてまた機知も見出される。加速による異形的な変容から、ホラーが生ずるだけではなく、ユーモアが生ずることもあるのだ。


5.

 これまでの話を要約する。この文章では、早わかり加速主義という語を用いながらWEB上の小説作品を三つ取り上げ、圧縮や効率化の果てに生ずるホラー的な凄み、それと表裏一体のRTA的なユーモアを眺めてきた。ひっくるめて言えば、恐ろしく映ることもあれば笑いにつながることもある、バグった世界の異形的な手触りの効果を論じてきた。ところで、そもそもこうしたWEB上の小説作品を取り上げる意義は何か。サイトに投稿されるネット小説というものを、より広い文脈では、どのように捉えていけばよいのか。これらを考えておく。

 谷川嘉浩は「異世界系ウェブ小説と「透明な言葉」の時代」(『中央公論.JP』2022年1月24日掲載、紙面版は『中央公論』2022年2月号)において、はじめ『小説家になろう』に連載されたあと、書籍化・漫画化・アニメ化などされていった異世界系ウェブ小説のヒット作を二例とりあげ、異世界系ウェブ小説が持つ特徴を、より広い社会的文脈で論じている。谷川は「ウェブ小説について言えば、ウェブ掲示板の話法やライトノベルの書名などの、属性を組み合わせて長文を書く文化が、あの饒舌な文体を育んだのだろう」(p.6)と前置きしつつも、それらの作品のネーミングが物語のみならず「ニュースや対談などの記事がTwitterやInstagramなどで共有されるときに頻繁に使われている話法」(p.4)であるところの「過剰に説明的なフレーズ」(同)と似通っており、そしてさらには冷凍食品やコンビニで販売される軽食の名称などとも通じ合うことを指摘する。

 それにくわえ、例えば服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記』(初版1972年、増補2009年)は「異世界もののお約束を意識した帯――「46歳にしてアフリカの小国ルワンダの中央銀行総裁に突然任命された日銀マンが悪戦苦闘しながら超赤字国家の経済を再建しつつ国民の生活環境を向上させた嘘のような実話」――によって、最近再ブレイクした」(谷川前掲p.4)のであった。谷川はこうしたパッケージで内容が一目瞭然となる言葉遣いを「透明」なものと形容する。

SNS上で異世界ものを連想させるとして話題になった商品もある。ファミリーマートの「はじめは濃厚チーズなのにだんだんなめらかショコラきわだつショコラチーズケーキ」である。『悪役令嬢なのに攻略対象から溺愛されています』『無能と呼ばれた俺、テイムスキルが目覚めて最強になる』などの作品を挙げながら、構文の類似性を指摘する向きもあるが、要点は構文そのものというより、内側を透かし見せる言葉遣いにあると言うべきだろう。

谷川嘉浩「異世界系ウェブ小説と「透明な言葉」の時代」p.6

本稿で取り上げてきた三作のうち、谷川が述べる異世界系ウェブ小説に該当するのは、quiet『超速忍者』のみだ。しかし三作の早わかり的要素はいずれも、ここで谷川が指摘するところの「透明」さに相当するものだったのではないか。春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく』も「内側を透かし見せる言葉遣い」であると言えよう。佐織えり(Saori)『呪い遊び』の場合は、物語内で起こる事柄を端的に説明している点で「透明」だ。まさしく『バトル・ロワイアル』や『リアル鬼ごっこ』が実際にバトルしたり鬼ごっこしたりする内容であるように、『呪い遊び』の内容は「呪い遊び」だ。それは確かに、理不尽な強制力を帯びたオリジナルの「ゲーム」へと人々が実際に唐突に巻き込まれる物語だったのである。

 とすれば「透明な言葉」の時代とは、早わかり加速主義の時代なのである。一方でそれは、要約やネタバレの欲望に根差した、ファスト化の思想潮流のことである。しかしそれは情報環境によって条件づけられた「操作ログ的リアリズム」の前面化でもある。どこか馬鹿げていると感じられるくらい身も蓋もない「透明な言葉」の食品が購入されるとき、「実は《客観的》に見れば――[……]サルの生態を観察するような「観察者」の目から見れば――トンデモで「脊髄反射」的に見える[……]行動が、実は《主観的》に見ればそれなりに妥当で繊細な「選択」や「判断」の連続によって決定付けられていることが分かる」。現に私たちはそんな「操作ログ的リアリズム」めいた仕方で記述できる社会を生きつつある。その社会は他人事として捉えれば(やや悪趣味かもしれないが)笑えてくるかもしれない状態に映り、しかし自分事として見れば、洒落にならないほど動物的(ないしはBOT的)な人間模様だけが繰り広げられる、残酷でゾッとする社会に感じられることだろう。

 こうした社会状況は、ポスト・インターネットとも形容されている。この表現はインターネットの利用が日常化し陳腐化したとの状況認識を示すものであり、ゼロ年代の末頃からアーティストたちによって使われ始めていた。アーティ・ヴィアカントは、2010年に発表した「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト」(『美術手帖』2015 年 6 月号、中野勉訳)のなかで、次のように述べている。

ロラン・バルトが宣言した「作者の死」が事実上、「読者の誕生」の祝福であり、「神話の打倒」だったのとちょうど同じで、ポスト・インターネット文化は、読者=作者たちから構成される。同時に作者でもある読者は、その性格上、すべての文化的アウトプットを、現在進行中のアイデアや作品と見なさないわけにはいかない。見る者の一人ひとりが、そうしたアイデアや作品を取り上げ、自分の手で続きをつくっていくことができるのだ。

ヴィアカント「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト」p.108

この論考で念頭に置かれているのはもっぱら視覚芸術であり、ケータイ小説などではない。それにヴィアカントは言語を重視しない。というのも「特にインターネット以降、言語に比べてはるかに迅速で確実なコミュニケーション方法はイメージ経由だからである」(同p.112)。しかしながら、言語表現も一目で内容がわかるように「透明」化し、また「操作ログ」のように端的になり、早わかり可能なものになっているとすればどうか。何もかもがインターネット・ミームじみた「過剰に説明的なフレーズ」で溢れかえっていると捉えるならば、ウェブ上の小説といったものも、冷凍食品のキャッチフレーズといったものも、ヴィアカントが重視するイメージ群と大差なく映るようになる。というより、イメージ群の一部となる。

 ヴィアカントの論は、ポストモダニティが到来して以降、文化にとって常態と化しているところを、新たなフレーズを用いて語りなおしただけにも思えるかもしれない。だが、ここで着目したいのは次のことだ。すなわち、現在のポスト・インターネット文化が、スマートフォンやパソコンといった同じようなツールで、同じプラットフォームへ参加する人々の絶えまないやりとりに根差したものであり、そのやりとりがスムーズに続くには、様々なものがファストに享受し咀嚼できるように断片化された上でわかりやすくパッケージングされている必要があるということである。つまるところ、ポスト・インターネットとは早わかり加速主義の別名である。

 事態をこのように見るならば、春海水亭、佐織えり、quietといった書き手たちによるインターネット上の小説群の、それぞれの恐怖や笑いにつながる異形的な変形を、単にそうした仕方で目新しさを求めたコンテンツだとするだけではなく、より広い文脈で把握できるはずである。例えばそれを早わかり加速主義の潮流だとこの文章ではまとめてきたわけだ。


6.

 果たして、ここまで見てきた早わかり加速主義は、結局のところ、「イギリスのクラブミュージックとも密接なつながりを持ったインターネット上のサブカルチャーとして、まさに加速した状態から始まった」という、あの加速主義とどうつながっているのだろうか。それはただ加速なる語のニュアンスでかろうじてつながっているだけだろうか。そうではないとしたら、どうなっているのか。しばしば加速主義者たちは自身の思弁を語る際にSFやホラーを取り上げたし、また自身の思弁をSFやホラーに仕立て上げて表現してきた。確認すれば、この文章で扱ってきた春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく』も佐織えり(Saori)『呪い遊び』も確かにホラーではある。しかしSF感は薄く見えるかもしれない。それにquiet『超速忍者』はSFでもなければホラーでもない。ファンタジー世界で繰り広げられる一連のドタバタ劇は、サイバーパンクからはもちろん、ダークで陰鬱な雰囲気からも、ほど遠いものだ。だが重要なのは、それらに息づく「操作ログ的リアリズム」である。超科学や怪物など一切登場しないはずの美嘉『恋空』にこそ濱野智史が特異なリアリティを見出していたことを思い起こすべきである。もはや意匠など抜きにしてもポストヒューマンな感性が浸潤していると解するべきではないか。

 実際、『超速忍者』においても、快活ではあれグロテスクでもあるような瞬間が確かに見つかりもする。例えば以下のように。

 アルマは横道から魔獣が飛び出してきて交通事故が発生するより先に、シオが出している一定速度を上回る短距離ダッシュを見せて、その先で魔獣を討伐するなり牽制するなりして走行ルートを確保、四人が通過した後に再び猛ダッシュして一団に追い付き、その途中に『宝箱』があれば拾って、後ろから攻撃が来ていればそれで防いで、来ていなければ荷台に放り投げて、またミティリスのナビゲーションが光る。動く。光る。動く。光る。動く。光り、

「あっはははははっははははは!!! いやマジで無理!! 誰か殺してくれ!!」
 壊れた。

 無理からぬことではあった。
 いくら彼が一流の冒険者とはいえ、明らかに時間当たりで許容可能な運動量を超えている。普通の冒険者なら肺が破裂してついでに身体全体も風船みたいに破裂してなんだかわけのわからないことになるところを、日頃の積み重ねと気合と根性と危機状態に脳のあたりでびしょびしょに分泌される謎の物質で誤魔化しているのである。

quiet『超速忍者』第27話「8-2 もっと頑張っていこう」

ここで立ち戻ってみる。加速主義の古典と呼べるドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』にである。そこにはある種の笑いやホラー感、ブラック・ユーモアへの着目がある。そこでは人間の営みでさえもがその人間をパーツの一部とするようなひとつの機械ないし機構として捉えられており、人々の心身の動きはそうしたギミック(からくり仕掛け)の働きの一部として把握されることになる。ゆえに親子関係や恋愛関係などに伴う人間的な愛憎といったものも、ただ機械の作動の装いといったものに過ぎないとされる。だからドゥルーズ+ガタリは、例えばプルーストやカフカによる小説の内容を人間味ある仕方で把握するような読者は的外れであると指摘して、こう語る。「それにしても、こういう人びとが何を見失っているか推測してほしい。超人的次元の喜劇、オイディプス的なしかめつらの背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂症的な笑い――蜘蛛になること、あるいは虫になること」(ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』下巻、宇野邦一訳、2006年、河出文庫、p.326)。人間たちの織りなす物語はヒトもモノも関係なく接続して起こる一連の動きとして把握され、「超人的次元の喜劇」がそこには見出される。プルーストの蜘蛛やカフカの虫などに引き寄せて解するなら、そこで見出されているものは、人外的な目線で見る人間模様がもよおさせる喜劇の感覚なのだと言ってみてもよいだろう。

 なお、カフカには実際に虫に変じた人物が登場するが、ここでいうプルーストの蜘蛛とはその小説中の語り手のことだ。しばしば作者のプルースト当人の姿が重ねられもする、この過去を回想する語り手の振る舞いが、蜘蛛の動きとして理解されている。

読者自身は、ある局面に立ち止り、〈そうだ、プルーストはここで自分のことを説明している〉と語る危険に絶えずさらされている。ところが、蜘蛛としての話者は、自分の巣と平面を解体しては旅を再開し、機械として働き、話者をより遠くに行かせる記号や指標をさぐるのである。この運動そのものは、ユーモアであり、ブラック・ユーモアである。

ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』下巻p.191

こうした『アンチ・オイディプス』の記述を踏まえれば、先ほどのquiet『超速忍者』の一節を機械の作動だと見なすこともできるだろう。チーム一丸となって迷宮の中を動き回る冒険者たち。それは魔獣をいなしながら『宝箱』を回収して迷宮を突き進むひとつの機械となっている。ここでは光の点滅に合わせてダッシュしては様々な対応を繰り返す人間の「壊れ」がユーモラスに記述されている。その笑える描写は確かに登場人物たちの非人間的でバグった動きを提示しており、その点では、『ホラーのオチだけ置いていく』や『呪い遊び』にも通ずるところがある。笑いもまた非人間的な凄みと表裏一体の、ペラい質感を確かに帯びるのだ。この文章で紹介した三作の小説にはサイボーグやAIが登場するわけではない。だが、そこには人間の振る舞いがペラさと同時にグロテスクな描写で提示されており、例えば「死の機械」めいた強硬さ、「操作ログ」のような問答無用の速度感、そしてゲームのバグかのような挙動や「壊れ」などがあった。これらはいずれもファスト化の風潮によってもたらされたものでもあろうが、それらが帯びるホラー感やユーモアは、『アンチ・オイディプス』が着目していた「分裂症的な笑い」とも通じ合う。とすれば早わかりを激化(≒加速)させることもまた確かにプロセスの加速と関わるようだ。

 だが結局、何のプロセスがあるということになるのか。『アンチ・オイディプス』に倣うなら、それは創造するプロセスである。「それは、自分が創造する大地のために、あらゆる大地を解体する強度の旅である」(ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』下巻p.192)。資本主義の、この道しかないという閉塞感に対する応答としての加速主義。それは、この資本主義で営まれる既知のサイクルをただなぞろうとする振る舞いなのではない。そうではなく、この資本主義の既知に思われているサイクルが、堂々巡りにはとどまらず、実際には新しい何かに向かう余地をも創造していると考えて探究する振る舞いを指すのである。「目下その機能を資本に従属させられている諸技術に潜む、解放のポテンシャル」(レイ・ブラシエ「さまよえる抽象」『現代思想 特集=加速主義』2019年6月号、星野太訳、p.93)や「資本主義の内部に閉じ込められているポスト資本主義的な未来」(同)、こういったものを見出し、形にして、いうなれば新しい大地を創造すること。これが加速主義の試みである。

 話をまとめる。この文章では、「結果の良否はどうでもいい。結果を今すぐこの目で見たいという欲望のあり方」(内田樹)に即した加速主義的傾向の現れとして、様々な言語表現における早わかり化とでも呼びうる特徴をピックアップし、それがもたらす効果、作用を見てきた。言葉遣いの早わかり化の拡大はポスト・インターネット状況の進展と軌を一にするものだった。そうした状況を反映するウェブ上の小説群に、言語表現のファスト化がファスト化以上の効果、作用を発揮する契機を見出し、それが「当初はイギリスのクラブミュージックとも密接なつながりを持ったインターネット上のサブカルチャーとして、まさに加速した状態から始まった」(仲山ひふみ)とされる加速主義が試みている、ポスト資本主義的な「新しい大地」(ドゥルーズ+ガタリ)の創造のプロセスの加速にも通じ合うものであり、加速主義が着目するある種の笑いやホラー感、ブラック・ユーモアがファスト化によっても生ずることを確認した。早わかり加速主義の中にも、ポスト資本主義へ向けて資本主義の内なる創造のプロセスを加速させる試みとしての加速主義が、確かに脈づいている。

参考文献

大岩雄典「時空間のホラー:怪奇なアルゴリズムとぞっとする時差」『早稲田文学』2021年秋号
内田樹「維新と加速主義」『内田樹の研究室』2023年4月16日投稿
谷川嘉浩「異世界系ウェブ小説と「透明な言葉」の時代」『中央公論.JP』2022年1月24日掲載、紙面版は『中央公論』2022年2月号
千葉雅也ほか「加速主義の政治的可能性と哲学的射程」『現代思想 特集=加速主義』2019年6月号
濱野智史「『恋空』を読む(3):果たしてそれは「脊髄反射」的なのか――「操作ログ的リアリズム」の読解」『濱野智史の「情報環境研究ノート」』2008年2月14日
仲山ひふみ「加速主義」『現代思想 総特集=現代思想43のキーワード』2019年5月臨時増刊号
ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』上巻、浅井健次郎訳、1999年、ちくま学芸文庫
レイ・ブラシエ「さまよえる抽象」『現代思想 特集=加速主義』2019年6月号、星野太訳
ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』下巻、宇野邦一訳、2006年、河出文庫
ボリス・グロイス「近代と同時代性」『流れの中で』河村彩訳、2021年、人文書院
レインフォレスト・スカリー=ブレイカー「スピードラン版事故の博物館」『BANDIT Vol.1』2022年5月、大岩雄典訳
アーティ・ヴィアカント「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト」『美術手帖』2015 年 6 月号、中野勉訳

*ウェブ小説
佐織えり(Saori)『呪い遊び』(『魔法のiらんど』2005年11月4日連載開始、最終更新日2011年9月16日、2006年双葉社から書籍化)
春海水亭『ホラーのオチだけ置いていく』(『カクヨム』2020年12月16日~同23日、並びに2023年4月1日投稿)
quiet『「ジョブが忍者の癖にやかましすぎるだろ……」と冒険者パーティを追放されてきた爆音忍者四人衆と、来月末までに莫大な借金を返さなくちゃいけない子爵令嬢の浮き沈み激しい二ヶ月分の人生~超速い。忍者なので~』(『小説家になろう』2022年4月28日~同5月6日投稿)

*ボカロ曲
ピノキオピー『神っぽいな feat. 初音ミク』2021年9月17日投稿

執筆者プロフィール
江永泉
著作に『闇の自己啓発』(共著)、「笑えないところで笑う」(劇団京都ロマンポップ『FINAL FUNTASY』Blu-ray版特典)など。TEDxUTokyo2023 "どくどく"、光の曠達(YouTubeチャンネルTERECO)などに出演。

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